トック氏が送る
ホラー映画レビュー




ゾンビ



(ZOMBI −DAWN OF THE DEAD−) 1978

 

私は綿密に作り上げられた蟻の巣に水を流し込み、
それを眺めながらフィルムを回すのさ。


ジョージ・A・ロメロ

 

ホラー映画を語る時に外せない作品、ゾンビ3部作。「ゾンビ」は三部作の二作目にあたる超大ヒット作である。
監督は言わずと知れたゾンビマスター、ジョージ・A・ロメロ。上のコメントにもあるようにかなり嫌なやつだ。
ゾンビは現在多くのジャンルに渡って登場するので、いまさら俺があーだこーだ説明するまでもないだろーけど、
後の作品に多大な影響を与え、ホラームービーの中でゾンビ映画という1つのジャンルを作り上げたゾンビ3部作からゾンビの定義を今一度確認しとこう。
原点回帰という意味で。


ゾンビの生態

その1 動きがのろい。生前の習慣、執着を多少残す。
その2 身体機能を停止させる唯一の方法は脳を損傷せしめること。
その3 ゾンビは生きた人間の肉のみを喰らう。それゆえゾンビ同士では共食いしない。
その4 ゾンビになっても身体はその時点のまま腐らない。脳が停止して初めて腐りだす。
その5 彼らに傷を負わされると長くても数日のうちに死亡。ゾンビと化してしまう。

オッケー?

「バタリアン」のオバンバよろしくべらべら喋ったり「サンゲリア2」の巨漢ゾンビみたいに走ったり、
「ブレインデッド」の看護婦みたいにFUCKしなかったんだつーことさえ分かればいいです。


 

−ゾンビ映画の起源−


全てはここから始まった!全てのゾンビはここに集う――。
使い古された洋楽ロック名盤のコピーみたいだけど、ゾンビ3部作にはそれだけのことを言える力がある。
「DAWN OF THE DEAD」が公開されてから、ゾンビ映画は量産体制に入り、80年代、スクリーンにゾンビが這いまわる。
中でも、イタリアの残虐監督ルチオ・フルチは最もゾンビに影響された監督。
「サンゲリア」「地獄の門」「ビヨンド」そのどれもがゾンビを扱っていて、また従来のゾンビとは一風違っている。
フルチを初めとしてゾンビはイタリアで流行したのだが、アメリカ及び他国でも様々なゾンビ映画が撮影され、新人監督の評価を上げた。
ダン・オバノンが監督を務め、キャラクタリスティックなゾンビを前面に押し出し人気を博した「バタリアン」シリーズ。
若き日に「ブレインデッド」を撮影したピーター・ジャクソンは「ロード・オブ・ザ・リング」の監督に抜擢され、
また「死霊のはらわた」でデビューしたサム・ライミは「スパイダーマン」でヒットを飛ばす。
ゾンビが多くの監督を魅了したのは、大量の動く死体に従来のホラー映画の構図を超えた斬新さを感じたからだろうが、
現在のハリウッド監督に多大な影響を与えたゾンビ三部作は単にモンスターを描いただけではない。
ゾンビ三部作におけるゾンビは灰色の仮想世界における人間ドラマを演出する小道具だった、と言った方が正しいだろう。


ところでナイト・オブ〜以前にゾンビ映画は撮られていなかったのだろうかと言うと、そうでもない。
吸血鬼ドラキュラ・フランケンシュタインのようなモンスター性を前面に押し出したゾンビはナイトオブ以前に誕生していた。
中でも「ホワイトゾンビ」は興味深く、よくできたホラー。なかなか見つかりにくいと思うけど、もし機会があれば是非見て欲しい。
ブゥードゥー教をモチーフにしていて、呪術的な色彩が濃く出ているのが三部作のゾンビとの相違点だろう。呪文を叫び、秘薬を投入する。
イメージ的にはミイラ男に近く、集団の恐怖、伝染性、脳を破壊する、というリアルな設定はなかった。ようするにファンタジック。
往々にしてそれらはホラー黄金時代初期に撮られた。30〜50年代、まだスクリーンが白黒でモンスター映画が流行していた時代。
現在では気軽に観ることができないモンスターゾンビ。半世紀前のホラーを手に入れようと思ったら一苦労だ。


モンスターについて一言。
ジキル博士とハイド氏、というゴシックホラーがある。それについて知り合いの女性が興味深い論文を書いていた。
彼女はジキル博士とハイド氏から、文学におけるマッドサイエンティストの造詣について、女性の不在というテーマで書いていた。
中でも面白かったのが、愛のない発明が悲劇を生み、現実と隔離され母性のない科学者が自らの研究を悲劇にする、というくだり。
結構考えさせられてしまって、別に科学者でなくたってホラーを生み出すのにも同じことが言えるんじゃないかな、と。
ホラーが逆説的効用を期待しているのなら、モンスターは人間への愛から生まれる。そして常にアンチテーゼだ。
吸血鬼ドラキュラが肉体のアンチテーゼなら、狼男は精神(理性)のアンチテーゼ。
モンスターゾンビはその隷属性から、意志なく生きるものは死体と変わらない、というメッセージが感じられる。
元々ブゥードゥー教でもゾンビは奴隷として扱われている。まっとうな人間の思考能力を奪い奴隷としてこきつかう刑罰の一種なのだ。
ブゥードゥー教をベースにしたゾンビ映画で年代的に新しいものと言えば「ゾンビ伝説」。
ロメロ型ゾンビが一般化した中、敢えて時代に逆行したゾンビを撮るあたりはやはりクレイヴン、と言ったところか。


ロメロについて言えば、彼はモンスターのアンチテーゼ的存在を知り尽くしているように思える。またその理論を応用し現代に上手く適応させる表現能力がある。
ゾンビ以前に撮られた「マーティン」は最もその能力がうかがえる作品だ。「マーティン」は或吸血鬼の青年を描いたホラーなのだが、
吸血鬼と言っても日の光に弱かったり、棺桶に入って眠ったりするわけではなく、ただ単に血を吸いたいという衝動にさいなまれるだけなのである。
それ以外は人間的な情愛を持った等身大の青年に他ならない。
現代的な吸血鬼が存在するならばどうなるか、それをそのまま描いた映画で、その分だけ救いがなく、ただひたすらに哀しい。
ロメロに才能を感じるのは、マーティンが実際に吸血鬼であると明確に描いていない点。
ようするにマーティーンはただ自分で「血を飲まないと生きられない」と思い込んでいるだけかもしれない、と私達に疑わせてしまうこと。
格式ばった包装を破り捨て、ステレオタイプな印象から脱却することによって、私達は逆に吸血鬼の実存に迫ることができる。
ロメロが描くゾンビは怪物的な部分を排除し、ただ顔を青白く塗った人間だ。私達にゾンビと人間を相対化させる意図があったのかもしれない。
まあようするに、ロメロって嫌な奴だけど、すげーなってことですよ、俺が言いたいのは。


 

ねたばれあらすじ

 

混乱するテレビ局。街で銃撃戦を繰り広げる暴徒とSWAT達。

テレビ局のアナウンサー、フラニーとスティーブンは局のヘリを盗み、SWATの友人ロジャーとピーターを待っていた。

大都市は混乱し、農村ではゾンビがうろついている。もはや何処も安全ではない。

ヘリを飛ばして彼らがたどり着いた先は、クリーブランドに建てられた巨大デパート。

機転を利かせた作戦で中にいたゾンビを殲滅。デパートを我が物とし目の前に広がる物欲の泉に溺れる4人。

だが、幸せは長くつづかない。ロジャーがゾンビに傷を負わされ、日に日に衰弱し、ついにはゾンビと化してしまう。

仲間の死を境にして3人の間に物では満たされない想いがつのっていく。

妊娠しているフラニーは先の見えない生活に苛立ち、恋人スティーブンとすれ違う。

ついに放送が途絶え、外界を知る唯一の手段も失ってしまった。

そんな中、暴走族がデパートに攻め込んでくる。彼らの襲撃を受け、応戦するピーターとスティーブン。

混戦の末暴走族は撤退したものの、スティーブンがゾンビ化し大量のゾンビと共に屋上の隠れ家へとなだれこんできた。

もうここにいることはできない。ヘリで脱出するフラニーと自ら残ることを選んだピーター。

しかし部屋になだれ来るゾンビ達に囲まれて、ピーターは生きる意志を取り戻す。

残り少ない燃料で、2人はどこまで行けるのだろう?

 

−ゾンビは奇跡の作品か?−


ナイト・オブ・ザ・リビングデッドでデビューしたロメロは、「ザ・クレイジーズ」「マーティン」を初めとする数本の映画で着々と名を売った。
彼はゾンビの次回作のため壮大な構想を練っていた。タウンからシティーへ。過去から現在へゾンビを撒き散らせる。
それはナイト・オブ〜をより大きなスケールで捉えなおした構想だったが、実現には多大な撮影資金が必要だった。
ロメロは金策に奔走する。自らの作品を完成させるに足るだけの協力者を求めて。
そんなロメロを突き動かしたのは一本のホラー映画だった。そのホラー映画の名は「SUSPIRIA」
ロメロは大型新人として注目されていたダリオ・アルジェントの映画に共感し、彼こそ自分の協力者と考える。
またアルジェントはゴブリンの「マーティン」に共鳴。ロメロの才能を高く評価していた。
オファーを受けたアルジェントは監修という立場でプロジェクトに参加し、イタリアで「ゾンビ」を流す際の編集権を得る。
偉大な才能を秘めたホラー界の巨頭が手を組んだことによって「ゾンビ」は産まれたのだ。

ジョージ・A・ロメロとダリオ・アルジェントの最も大きな違いはどこかと尋ねられたら、表現法の違い、と答える。
ダリオ・アルジェントの最大の武器は私達を狂気に迷い込ませる圧倒的な演出力にあり、プロットにはない。
個人の狂気を表現し突き詰めること、一対一の殺しがアルジェントの真骨頂だ。
一方ジョージ・A・ロメロは、全体を眺め、全体を捉えた上で死を扱う。
リアルに人々が争い苦しむ様をただ淡々と私達に提供する。その救いのない世界に私達は恐怖する。
乱暴に言えば、ロメロは全体を見る力に長け、アルジェントは一瞬の表現力に長けていた。

「ジョージは見えるところばかりに拘って、困ってしまうね」

アルジェントの愚痴は両者の恐怖に対する感覚の違いを表しているといると言っていい。
勝手な想像だが、その両極の表現法が刺激になり、ホラー映画史に残る名作が産み落とされたのではないだろうか。
結果として、ジョージ・A・ロメロは本作品でホラー映画監督としての確固たる地位を築き、ダリオ・アルジェントはイタリア映画界で大きな名声を得た。
「ゾンビ」の共同制作は両者にとっても、ホラー映画業界にとっても成功だったと言えるだろう。

彼ら2人のタッグが取り上げられるが、忘れてはいけないのがメイクを担当したトム・サビーニだ。
サビーニはロメロの親友で、「マーティン」でロメロと正式に組んでから、ほとんど共同で製作を続けている。
「ゾンビ」ではベトナム戦争の経験を活かし、リアルな恐怖を作品に与えてくれる。彼が操る内臓や血はCGでは到底出せない生々しさを感じさせる。
サビーニは後に「血の魔術師」と呼ばれ、メイクのみならず、監督・俳優までこなし、ホラー映画ファンを湧かせた。
(作品を挙げればキリがないが、先にレビューした13日の金曜日の一作目と四作目(完結編)は彼がメイクを担当している。シリーズ物で見れば差は歴然)


このようにして「DAWN OF THE DEAD」にはいくつかのバージョンが存在する。
特殊な形で編集されたものを除けば、「ディレクターズカット完全版」「ダリオ・アルジェント監修版」「ジョージ・A・ロメロ版」の3つだ。
日本で公開されたのは「ダリオ・アルジェント監修版」(らしい。だって公開当時、俺産まれてないし)。
アルジェント映画お得意のゴブリンサウンド、アクションシーンをテンポよくまとめた編集で、上映時間は最も短い。
「ジョージ・A・ロメロ版」はアメリカで公開されたもの。日本では現在廃盤、海外からネット通販で手に入れるでもしないと観ることができない。
「ディレクターズカット完全版」は2つのバージョンを編集し、また未公開映像を加えて15分ほど引き伸ばされたもの。
三作全てを観る機会があれば、その違いを見比べてみても面白いと思う。(ここでは「ディレクターズカット完全版」でレビューしています)


 

−暗黒の世界 ジョージ・A・ロメロの演出−


冒頭。血肉を感じさせるディープレッド。赤黒い平面が映され、重低音がグゥーンと鳴り響く。
機械的にカメラが引いていき、何やら分からなかった赤い物体が悪趣味な壁だったと気づく。
壁の角にはブロンドの女性(フラニー)が身体をもたれさせたまま眠っていて、悪夢を見ているのか、美しい顔を歪め激しくうなされている。
跳ね起きた瞬間、1人の男が彼女を押さえる。「You all right?」再びカメラが引いていき、録音装置に腰掛けて眠る男が映され、ようやくここがテレビ局だと解る。
情報を与える側、戦争の最中でさえ、その状況を冷静に、やや冗長に、もしくは商業的に過ぎるほど演出したマスコミの混乱を描くことによって、
「ゾンビ」はさらなる舞台の広がりを私達に予感させ、前作で指摘された弱点――、矮小なスケールを早くも克服している。
ホラー映画にありがちな「前作の二番煎じなのでは?」という下卑た懸念を開始5分で吹っ飛ばしてしまう素晴らしいオープニング。
テレビ局を選んだセンスがよい。ジョージ・A・ロメロの演出力は並大抵ではない。動く死体を出さずして恐怖と不安を煽ることができるのだから。
テレビ局では平行線の議論が続けられ、局員達は職場放棄寸前のありさま。もう誰も冷静ではないのだ。


評論家は言う。

「(ゾンビが)急増した原因は死者を敬う我々の通念にある」

生者と死者が殺しあう矛盾した世界で生きるためには、死者を敬う感情は捨て去らねばならない。
例え死者が偉大な功績を残した天才であっても、苦悩の末死を選んだ自殺者であっても。さらには肉親や恋人であったとしても。
死に付随する様々な感情を捨てなければ、ゾンビに食料として喰われるだけだ。
評論家の言うことは正しい。しかし今しなければならないのは生きることであり、議論することではない。
ロメロは実際性を欠く議論を冷ややかな視点で眺めていたに違いない。


シーンが切り替わり、SWATと暴徒達の争いが描かれる。

「むやみに発砲するな」

SWAT隊員のロジャーはSWATの規則を守るため、もしくは仲間を落ちつかせるためにそう述べたが、忠告を与えた仲間は暴徒達にあっけなく殺されてしまう。
たちまち銃撃戦が展開され、建物には催涙弾が投げ込まれる。暴徒・ゾンビ・SWATの三つ巴の争いに逃げ惑う人々。
或SWAT隊員はやたらハイになって辺り構わず殺戮を繰り返し、味方であるはずのSWAT隊員に撃ち殺される。
また或スワット隊員は、床を這いまわるゾンビの姿に面食らってしまい、即座に撃ち殺すことができない。
混乱して床に倒れこみゾンビに噛みつかれそうになるまで追い込まれる。やっとのことでゾンビを撃ち殺したあと、彼は自らの顔に拳銃を突きつけて自殺してしまう。
一部始終を見たロジャーは口をぼんやりと開いたまま、すっかり変わり果ててしまった世界に放心する。
生きること、死ぬこと、その価値がひどく軽くなってしまったのだ。


空き部屋に逃げ込んだロジャーはピーターと出会う。そこへ煙に巻かれて逃げ惑う神父が現れ、神父は2人に地下の死体の後始末を頼む。
「私は仕事ををした」と述べる神父の姿に、もはや神はどこにもいないのだと思い知らされる。
神父は自分の家族(おそらく死んでいるし、彼もここで死ぬつもりなのだろう)を助けに行く前に言い残す。


「死者が地上を歩く時、人間同士の殺しあいは無益だ」

神父の忠告はやがてロジャーとピーターにとって重くのしかかることになる。

2人が地下へ降りると、大量の死体が一心不乱に人肉を喰らい、死体袋の中で蠢いている。ピーターは彼らを一体ずつ無言で撃ち殺していく。
バチュッ!バチュッ!バチュッ!脳を貫く銃声だけが延々と響く。


再びテレビ局。ヘリの傍らでロジャーを待つフラニーの前に、数人の警察官が現れる。彼らは偶然発見したヘリを奪おうと企み、フラニーに銃をつきつけて脅す。
間一髪、ロジャーとピーターが到着し、「さすがに同僚で殺し合うのはバカだ」と難を逃れるが、(本音は銃撃戦で負傷するのを恐れたため)なんとも冷たいシーンだ。
ただやられっぱなしではない。情報を交換した後、「タバコ持ってないか?」と尋ねる警察官に対し、フラニーは何気なく「ごめんなさい、持ってないわね」と答える。
「しょうがないな、お前らも生き残れよ!」と警察官が去ってから、フラニーはヘリの中で何食わぬ顔をしてタバコに火をつける。
他人のことなど考えている暇はない。ヘリを奪いあい、同朋の出現で仲直り、表面上お互いを気遣っているように見えて、タバコは一本たりともあげない。
クールな演出で、ロメロのセンスあるな、と思わせてくれるシーン。


ヘリで通過する農村では、自警団達がお遊び気分で(ややハイになり過ぎて)ゾンビ達を撃ち殺している。
オールドテイストのポップソングに乗せて、彼らはビール缶を片手に陽気に歌い、肩を組みあって写真撮影に励む。まるでピクニックだ。
ナイト・オブ〜のラストシーンが当たり前になってしまった現実。この村にも、ベンやバーバラのようなドラマがあったかもしれない。
しかし時は無常にも流れる。ゾンビは大都市にまで溢れ返り、確実に世界を侵食し始めている。
前作の光景を上空から見下ろす主人公達との対比によって、この村にいる人間達がもう長くないことを予感させる。
彼らもいずれ動く死体となり、狩る側から人間達に狩られる側へと回る。そしてゾンビが人間より増えれば、必然的にまた狩る側に戻るのかもしれない。
「ゾンビ」が強調するのは極限状況下の人間のありのままの姿で、それらは私達の絶望と不安を煽ってやまない。


 

−物欲にまみれて−


ナイト・オブ〜は発端であり、デイ・オブ〜は終焉だった。
「ゾンビ」はその中間に位置し、混乱した世界にどう対処するのか、その方法が人それぞれで曖昧である。
ゾンビと闘うものもいれば、地下に逃げ込むものもいる。暴虐を尽くすものもいれば、愛を忘れない人もいる。
早々と現実から降りるもの、現実と闘うもの。それぞれがゾンビといっしょくたになって生きている。
生きるために生きる。気づかなければならない現実を人々はまだ受け入れられない。
混乱した世界で人は何を求めるのか、スティーブン、フラニー、ピーター、ロジャーの4人はショッピングセンターに辿り付く。
外はゾンビがうろつく悪魔の世界。しかしひとたび強化ガラスに鍵をかけ、入り口をふさいでしまえばそこは天国だった。

ロメロがデパートを選んだのには明確な意図がある。アメリカの歴史を追っていくと、60年代は大量生産、大量消費の時代。70年代、ベトナム戦争。
そして80年代が開けようとする頃。ヒッピー、麻薬、サブ・カルチャー。自分らしく自由に生きることがもてはやされた時代だ。
ロメロの皮肉的な視点、人間は物欲から逃れられない。元々ヒッピーが望むような自由などありさえしない、という考え。

途中「ゾンビは生前の習慣、また執着していたものに吸い寄せられる」と放送があるのだが、これも皮肉な話だ。
死者になってもモノに引き寄せられるゾンビ。ゾンビが人肉を喰らうのも、人間が潜在意識の中でそれを望んでいたからなのだろうか。
食欲、物欲、私達は欲の塊であるし、欲の塊であるからこそ人間なのだ。
それらを強調するようにガンジーのようないでたちをした僧侶ゾンビが出てくる。
元は僧侶であった者でさえ人肉を喰らおうとやっきになってフラニーを襲う。一皮剥けば皆同じなのか。

物欲に生き、物欲に死ぬ。それで仕方がないじゃないか、とロメロは言っているように思える。



−生きるために−


「俺がよみがえったら撃て。よみがえらないようにがんばるから」


ゾンビに傷を負わされたロジャーは日に日に衰弱し、ついにピーターに遺言を残す。
奴等と同じ姿にはなりたくない。醜く這い回るくらいなら、このまま安らかに死にたい。しかし最後の意志もむなしく彼はゾンビとして目を覚まし、ピーターに撃ち殺される。
ロジャーが脳天を貫かれた瞬間、テレビでは科学者がこう叫んでいる。

「You must do on the sight!(ゾンビは見つけしだい殺すべきだ!)」

ロジャーがゾンビに傷を負わされたのは、彼の油断が原因だった。その油断は彼の慢心、生きることを忘れた心から来た。
ゾンビを下等な生物と侮蔑し、あなどった。トラックに置き忘れた自分の鞄を取りに行き、てこずった末、隙を突かれてゾンビにかまれてしまう。
人間が生きることだけを考えるのは非常に難しい。勝利したい、支配したい、優位でありたい。社会的欲求が身体の奥底から必ず染みでて、私達自身を殺す。
しかし、それさえも捨てれば私達はもはや人間ではなく、ゾンビと変わらなくなるだろう。どうしようもない、という意味でやりきれないシーンだ。


ロジャーの死を境にして、三人は半ば忘れようとしていた現実に引き戻される。
食料や遊戯場には事欠かず、金もあれば身を守るための銃もある。しかし、何かが満たされない。
社会とのつながり。ゾンビと違って本能を満たすだけではなく、他者がいなければ人間は生きることができない。少なくとも現実に生きる私達は。


しかしその他者が直接的に救いになるかと言えばそうではない。デパートに暴走族が割り込んでくる。

「独り占めは許さねえ」

彼らはピーター達が塞いだ入り口を再びこじ開け、ゾンビの群れをものともせずに暴れまわる。
手当たり次第に物が盗まれ破壊されるのを見たスティーブンは「俺達のものだ!」と暴走族に向かって発砲。やおら銃撃戦が展開されるのだ。
物欲の狭間で殺し合いを続ける人間達を尻目に、ゾンビはただ人間の肉を求めてふらつく。
暴走族達は半ば半狂乱になってゾンビ達を殺し、からかう。ゾンビの顔にパイを投げつけ、ハンマーで殴りつける。

しかしひとたび銃撃戦が終わると、死者の時間が始まる。
取り残された暴走族達は次々に殺されていく。内臓をわしづかみにされ、人間とゾンビの立場はすっかり逆転してしまう。
傷を負ってエレベーターに隠れていたスティーブンは、ドアが開いた瞬間、なだれ来るゾンビに襲われる。
無線を通して聴こえるスティーブンの悲鳴とゾンビの唸り声。ピーターの呼びかけがダクトの中に空しく響く。

「ヘリボーイ!ヘリボーイ!」

個人的に最も印象に残っているのが、デパートに残るピーター。
それまでピーターはスティーブンに銃を突きつけたり、シニカルな発言が多かったのだが、実はかなり情に厚い奴。
スティーブンの悲鳴を聞いた後、失意のまま隠れ家への道を走るシーン。そこへ突如響く銃声。スティーブンはピーターが来ることを信じて、ゾンビと応戦していた。
自分の裏切りに苛立つピーター、いったん戻りかけたが、また隠れ家に走る。
そして階段に1人佇んでスティーブンを待ちつづける。大方スティーブンが死んだのは分かっているのだが、それでも待つのは男のけじめからか。
しかし現実は無情だ。スティーブンはゾンビを引き連れ隠れ家への道を開く。
ピーターは何も言わず、ゾンビ化して登ってきたスティーブンをフラニーの目の前で撃ち殺す。恋人の死を目の当たりにし、ショックに固まるフラニー。
悲惨を通り越して、何も言えない。ピーターはもはや動くことさえできないフラニーの肩を掴み、何かを悟ったように、穏やかな口調で呼びかける。


「Go on. Get out of here」

フラニーを逃がしたあと、スティーブンを見捨てた自分に罪を感じたのか、ピーターは1人デパートに残る。
梯子を登ろうとせず、空を見つめながら自分の頭に拳銃を押しつける。どこに逃げてもしょうがない、という気持ちもあっただろう。
ゾンビに食われるか、自決を選ぶか。猶予はない。迫り来るゾンビ――、しかしピーターは最後になって生きる意志を取り戻す。
ゾンビを蹴散らし屋上へ出ると、フラニーがヘリを待機させていた。間一髪間に合い、ピーターは無事生還を果たす。

「燃料は?」

「少しよ」

「いいさ」

ピーターが最後に生きる道を選んだことによって、映画は強烈なやるせなさと人間への一筋の希望を残して終わる。
燃料も武器もなく、どこへ行ってもゾンビが蠢いている。ここで逃げようが、近い内に死ぬのは目に見えているのだ。
フラニーはお腹の中に赤ん坊がいて、新しい生命のために、という気持ちがあったのかもしれない。
しかしピーターには何もない。守るべき家族・兄弟・友人は全て置いてきた。死ぬ寸前まで行って、やけになったのか、彼らの分まで生きようと思ったのか。
いずれにせよ、この世界で生きていくためには、モラルじゃない。モラルや規律は既に破壊し尽くされてしまっている。
何者にも支配されない自分だけの生きる意志が必要なのだ。それは死に対しても同じこと。死ぬのは悪いことだ、というのはたわごとでしかない。
キリスト教的な死生観は真っ向から否定される。そんな世界で生きる意志の源がどこから出てくるのか、分からない。
分からないけれど、そうあってほしい、と感じてしまうラストシーン。
当初の予定ではピーターが自決を選び、フラニーも自決を選ぶという全く希望のないラストだったらしい。ラストを変更したロメロはその時何を思ったのだろうか。
〜〜のために生きろ!そんな明確な答えを打ち出さない「ゾンビ」は厳しい映画だ。しかし同時に人間への真摯な態度に溢れた映画でもあると思う。


ゾンビ全般に言えることだが、合間に流れる明るい曲と残酷な現実のギャップが素晴らしくホラーしている。
例をあげると、スティーブンがゾンビに変わり果て、エレベーターの中から足を引きずり出てくるシーン。
ショッピングモールの放送と共に間の抜けた音楽が流れ、それにかぶせて不快感を催す高音が規則的に流れる。文字で表すと


ぺぺっぺぽっ ぺぺっぺぽっ(グゥーン) ぺぺっぽ ぺぽぺぽぺっぽっぽっ(ピューン)

という感じなのだが、これがいい味を出している。ロメロのシニカルな視点が上手く活かされている。

「お客様、3時になりました。これより一般販売店でセールを行います」

死者に向けて送られる届くことのないメッセージ。明るい音楽も、サービスも彼らにとって意味をなさない。
映画と関係ないが、きっとロメロはプライベートではプライド高くて皮肉屋で扱い辛いんだろーな、と勝手に心配してしまったシーン。
たぶん「本当は優しい」ってタイプなんだけど、「本当は優しいんだよね」と言われるとさらに嫌がらせをするようなタイプじゃねーの、と。
天然(おそらく)のサム・ライミあたりが言って欲しいなあ。「ロメロさんって本当は優しいんですよね!ロメロさんのそーいうとこ俺大好きだなあ」とか。
きっとロメロは「フザケンナテメー。死霊のはらわたのどこが俺のリスペクトだ、くのやろー」と笑顔でライミを殴り倒すに違いない。



−フラン・ラブ−


フラニー役の女優さん、見方によってはかなりネズミ顔(マジックでヒゲ描いて耳飾りつけたらたぶんネズミに見える)なんですが、
俺はビシッ!と整った顔の女優さんよりこういう顔がツボにはまります。驚いたり冷めたり哀しかったり、ネガティブな表情が凄く上手い。セクシーだし。
デパート内の理容室でメイクアップするシーンでは、五十年前の女優みたいな格好に扮して、真赤なルージュを引いたりする。
それが逆に似合っていて、キッチュでいい。凄いな、と思うのはとにかく映画の中で彼女の笑顔が少ないこと。
女優というか女性の魅力を表現するのに笑顔って重要なファクターだと思うんですけど。
いくら顔面がアレでも笑顔に魅力がない人ってのは、なかなかいない。にこっと微笑みかけられるとえへへ、となってしまう。(俺はそーなんです)。
んで、どれくらい笑顔が少ないかってーと、映画の中で彼女は2度ほどしか笑ってないと思います。
リヤカーに座ってぼっーとしているロジャーに微笑みかけるシーンと、スティーブンにヘリの操縦を教えてもらうシーン。
それでも紅一点の存在を際立たせている。ガラス越しに「あなたは何を考えているの?」とぼうっとゾンビを見つめたり、女してるのだ。


女してる、と言えば、フラニーは妊娠しているんですけど、性格的に母親って感じじゃないんですね。あくまでまだ女。母になりかけている女。
ヘリの中でそれまでの境遇を語るシーンでは「別れた夫を残してきた(つまりスティーブンとは不倫関係にあった)」とさらっと言ってのけ、女の手つきで煙草を吸う。
つわりで吐いてる時に心配して寄ってくるスティーブンに「1人にしてよ!」ってブチ切れたり、お腹の大きさも気にせずメイクアップしたり。
スティーブンが写真撮って気分を和ませようとしても「現像しといてね」と冷たく言い放つ。何バカやってんの?このノーテンキ。みたいな。
スティーブンは割とお茶目な部分があるんだけど、フラニーがそれを制している感じ。
さらに話がずれてしまうんだけど、別につんつんしてたり、母性のなさや暗い表情か好きというわけではなくて、ジュリア・ロバーツやレネ・ルッソも好きです。
えーと、いったい何が言いたかったのだろう。フラニーはいいよ、ということで。



−ゾンビ3部作−



ナイト・オブ・ザ・リビングデッド (NIGHT OF THE LIVINGDEAD) 1968

 

ナッーイツ!(でんでろでん)オブザリビングデッド!を延々と繰り返す宣伝でおなじみ(おなじみなのか)、ロメロのデビュー作。
墓参りに訪れた兄弟がゾンビに襲われ、生き残ったバーバラが山奥の一軒家に逃げ込むところから物語は始まる。
同じく屋敷に逃げ込んで来た黒人のベン、幼い一人娘を連れ逃げてきた夫婦、彼らと行動を共にしていたカップル。各々が繰り広げる密室劇。
このように舞台はほとんどが家周辺。しかしロメロが会社勤めを続けながら週末の2日を利用して撮影したため、撮影期間は9ヶ月にも及んでいる。
その分丁寧に撮られていて作品は低予算ながら綿密なカメラワークを見せている。いちいちシーンが印象的、1シーンに濃密さと非連続性を感じさせる。
写真におさめたいような美しいショットもちらほらあって、なかなか見ごたえがある。一言で表せばスタイリッシュだ。今でも古くささを感じさせない。

根底に描かれているのは、人間のエゴ。登場人物達は協力を忘れ、自らのエゴに走り死ぬ。
ゾンビと人間が殺しあうのではなく、人間と人間が殺しあい、自滅する。冷静に物語を辿っていくと直接的にゾンビに殺されたものは少ない。
耐え切れずガソリン漏れした車に乗り込み炎上するカップル。ゾンビ化した娘をゾンビと思いたくがないために殺された母親。
保身に走りベンに殺される父親。惨状に発狂するバーバラ。最後まで生き残ったベンはゾンビに間違えられ、自警団達に脳天を撃たれて絶命する。
冒頭から続く救いのない展開の数々は、見る者を恐怖させ、人間の存在をそこに浮かび上がらせる。
ロメロの視点はそれぞれを平等に扱っていて、その結果、もっとも恐ろしいのは人間である、というメッセージさえ踏破しているように感じる。

また「ゾンビ」に通ずる、人でさえない人間をどう思う?という命題は、ラストの山積みになった死体が焼かれるショットで描かれている。
死体とは言え、一度は人間だったを嬉々として撃ち殺す村の自警団達。人が人でなくなるのはどういう状態をさすのか。人が人であるためには何が必要なのだろうか。

当時ハリウッドでは強く正しいアメリカを否定するアメリカンニューシネマが台頭していた。ロメロもその波に乗ったと言えるかもしれない。
しかしロメロはもう少し先を見ていたように思える。ロメロはやがて来るであろうベトナム戦争にインスピレーションを受け、この映画を撮ったと述べている。
34年前を考えれば、時代を先取りした作品であったのは言うまでもない。ナイトオブ〜は既成の価値観を打ち破り、ホラーに新たなテーマを投げかけた。
タブーとされた人肉食。本来神の領域であった死者が歩き回る。愛され守るべき対象の幼き娘が母親を殺し喰らう。予定調和で助かるヒロインはあっけなく死ぬ。
当時はホラーとは言え、やっていいことではなかった。ロメロは既存の価値観を踏みにじり、新たな価値観を構築したのだ。
感想として黒澤清氏の言葉をちょこっと変えて、載せてみる。「やはりホラーはホンモノだ。なぜならホラーを撮る人間が、ホンモノだからだ」


 

死霊のえじき (DAY OF THE DEAD) 1985

死霊のえじき 最終版


「ゾンビ」は空前のゾンビブームを巻き起こした。それに乗じて多数のゾンビ映画が撮影され、中には「ゾンビ2」とあたかも続編であるかのようなタイトルの作品も存在した。
ルチオ・フルチの「サンゲリア」やアンドレア・ビアンキの「ゾンビ3」がそうなのだが、
ロメロとアルジェントはそれらの作品を便乗とみなし快く思わず、真の続編を正当に評価してもらおうと冷却期間を置く。
(ただしフルチとアルジェントの仲が悪いというわけではない。アルジェントはフルチと共同で『肉の蝋人形』を撮影しているし、親交もあったようだ)
周囲のゾンビ熱がやや冷めてきたのを見計らい、2人は再び動き出した。アルジェントは脚本を書き進め、ロメロは撮影準備に入る。
しかし、結論から言うと2人が再びゾンビで組むことはなかった。米ドルの高騰により、アルジェント側の負担する資金が莫大なものになってしまったのがその原因。
資金提供に難アリ、という理由で共同制作はお流れになり、ロメロは脚本を変更、当初のストーリーを大幅に切り替えねばならなかった。
そういった点からか、内容が前作に比べパワーダウンしているのは否めない。
地下の生活が中心に描かれているためスケールが小さくなってしまっている。人物描写もやや乱暴。
ロメロ本人も気に入っていないらしいが、それでも凡百のゾンビ映画とは一線を画す。それが「死霊のえじき」である。

物語は前作よりさらに救いのない世界をベースにして始まる。ナイト(夜)→ダウン(夕)→デイ(昼)。文字通り死者が日の光を浴び歩き回る時代。
もはや地上は人間の住むべき場所ではなくなったのだ。立場逆転、人間は地下シェルター(墓)に逃げ込み、日々ゾンビに怯えながら暮らしている。

「ゾンビ」から「死霊のえじき」で新たに加わったテーマは死者との共存。
作中、ゾンビを飼いならそうとする博士が登場する。彼は完全ではないにせよゾンビに感情を植えつけることに成功する。
パブと名づけられたゾンビは単純な言葉やサインを理解し、不器用ながらも銃を扱えるまで成長する。
しかし育成には餌付けが必要であり、人肉を与えない限り飼いならすのは不可能。そのため、博士は仲間の人肉を与えつづける。
当初は研究目的として人肉を使用していたのだろうが、博士のパブに対する思い入れはだんだんとエスカレートして行く。
ゾンビへの対抗手段という本来の目的を忘れたかのように、パブに研究対象を超えた愛情を見せ、パブもまた博士に対し愛着を感じ始める。
嬉々として同族の肉を与える博士は狂気にとり憑かれているとしか思えず、それは同時にゾンビと人間の共存が不可能だということを示す。
結局、人肉付与が露見した博士は隊長に殺され、博士を殺されたパブは哀しみの悲鳴を挙げ隊長を撃ち、追い詰める。
人間がゾンビの食料である限り、ゾンビを殺すか人間が食われるか、どちらかしか道は残されていない。
もしくは主人公達のように無人島に逃げ込むしかない。文化的生活を捨て去り、ゾンビと隔離された世界で生きていくのだ。

最も印象に残った人物はことあるごとに「オランダ野郎」と罵られ続ける男。彼はゾンビに腕を噛まれてしまう。応急措置のため腕を切り落とされるのだが、
それが逆にきっかけになったのか、失敗を繰り返す自分に嫌気がさしたのか、生きる意志を失ってしまう。
全てに絶望を感じた男は自らをゾンビに喰わせる。彼が柵の内側からゾンビを眺めるシーンは、彼が自分も含めて自分を虐げる人間全てに愛想を尽かしたように見えた。
彼もまた博士とは違う形でゾンビとの共存を望んだのかもしれない。人間よりもゾンビを選んだ、ゾンビ側に立った人間と言える。

本作の見所、ラスト近くでは三部作中最も凶悪かつリアルなスプラッターが展開される。
暴虐の限りを尽くした隊長が大量のゾンビに上半身と下半身をひっぱられ、腹を裂かれ、胴体真っ二つになってしまうシーンだ。
腹の皮が限界まで伸び破れる瞬間の、焼きたてのチーズをすっと裂くような柔らかさが何とも言えず気持ち悪い。(こーいうこと言うから誤解されるんだろな)
哀れ、隊長はショーゴードッー!ショーゴードッー!と上半身だけで数秒間おたけびを挙げ絶命する。
観ていて、なんだかロメロがそれまでの鬱憤を晴らしているような気さえしてしてしまった。スプラッターマニアはこのシーンだけでも観る価値あり、だろう。


 

ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 死霊創世記 1990




ナイト・オブ・ザ・リビングデッドのカラーリメイク版。監督はトム・サビーニ。ロメロも脚本としてスタッフに名を連ねている。
カラーということもあってかサビーニのメイク魂が爆発した作品に仕上がっている。顔の潰れたゾンビや、腐臭漂うぐろぐろのゾンビが見もの。
したたる体液、飛び散る肉片、そのどれもがえげつない。サビーニにしてはややコミカルに過ぎる感があるが、たぶん日ごろから溜まっていたんだろう。

ストーリーは元作品から変更されていて、随所にパロディ的な視点が見え隠れする。
冒頭、ふらふら通りがかった男性が実はゾンビだった!というのが元作品なのだが、今作ではふらふら通り過ぎるだけでゾンビじゃなかった、など。
人物造詣にも手が加えられていて、ゾンビに怯えつづけるお嬢様、という印象だったバーバラは、今作では一転してファイトガール。
短髪ノースリーブにスポーツウーメンという顔立ち、ゾンビ相手にバンバンショットガンをぶっ放すほどたくましく変化を遂げ、見事死の館から生還する。
元作品公開時「ゾンビの動きすっとろいし、走ったら逃げれるじゃん」という身もふたもない批判があったそうだが(冷静に考えればキツイだろう)それをやってのけてしまう。
走って逃げたら助かりました、という。そのためラストも変更されている。
変更点については元々「楽しんでリメイクしました」という狙いが見えるので大して気にならない。結局はバーバラもおかしくなってしまった、という感想。
面白いのは性の立場が逆転していること。黒人のベンは従来どおりたくましいキャラクターなのだが、どこか殺伐とした部分が消えているし、
バーバラの兄貴は台詞もしぐさも弱々しくなっている。カップルの片割れがゾンビになって肉を喰らうシーンも、対象が女から男へ変更されている。
またカメラの視点がベンからバーバラへ変更されていて、主人公がそっくり入れ替わってしまったような感覚を受ける。
元作品に愛着がある人はパロディ的な見方で楽しめるし、そうじゃなくても十分要点を押さえているので面白い。観ても損はしない。サビーニLOVE。



次回のホラー映画レビュー。

ゾンビをやったからにはやってやる!と久々意気込み。

「悪魔のいけにえ」

別に関連性はない(と思う)んですけど。ノリで。

実在したシリアルキラー、エド・ゲインをモデルにした映画なんですが、

単なるシリアルキラーものにおさまらず、さらにはホラー映画の枠で語ることが許されない、映画の中の映画!

ちょっと大げさかな。でもそれくらい凄い映画であることは間違いない。

気合入るぜ。

それでは、また。



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