2.闇の閃光

さて、とデスクの上に丁寧に揃えられた書類を隅に寄せ、
カインはソファーで俯いたままのロックに目を向けた。
生来の人見知りなのか、緊張の解けない彼をオフィスへ置き、
数刻離れて一人にしたのはカインなりの配慮だったのだが、
デスクへ戻った今もロックは固まったように顔を上げない。

「……ロック君、話を続けて良いかな?」

懐疑的な瞳を向け、カインは冷淡に言った。
返事は小さく一言だけだった。

「ああ……」

ポーカーフェイスは崩さぬまま小さくため息をつき、カインは一枚の書類を取り出した。

「これがギースの遺書だ」

そう告げても、ロックは顔を上げずそれを見ようとはしない。
次第にカインの瞳に侮蔑の色が浮かぶ。構わず、彼は話を続けた。

「もっとも、オリジナルではなく、ただの報告書に過ぎんがね。
 だが内容は確かだ」

話しながら席を立ち、ロックの顔に紙を差し入れる。
反応は早かった。ほんの数行しかない遺書。

「……こんなのが、誰にも理解出来ねぇ遺書なのかよ」

顔を上げ、睨み付けて来るロックへと酷薄に笑う。

「デルタパークの処理。
 そう、ギースの遺書にはこんなことしか書かれていなかったそうだ。
 意味が解らないだろう? 魔王が最期に書き残した物が、こんな物だ」

「くだらねぇ」

「だが、」

舌打ちと共に顔を背けたロックをカインの強い声が止める。

「真に解読出来ないギースの遺書は別にある。それがギースの遺産。
 恐らく君にしか理解の出来ない代物だ」

「……何も知らねぇって、言っただろ」

「いや、知っているさ。ロック君、君は知っている」

ゆっくりと、カインの眼に操られるようにロックの顔が向く。
何故か、心を視られているような気がした。

「11年前、サウスタウンのデルタパークで何が行われたのか、
 テリー・ボガードから聞いたことはあるか?」

否定を意味する沈黙。

「――11年前、デルタパークで一つの戦いが終結した。
 誰の記憶にも残らない、遥か遠い因縁から始まる闘い。
 ギースが書き残したのはその後始末だった。
 彼の部下は忠実に事を成したよ。過剰とも思える封印―― そう、あれは封印だな。
 デルタパークは完全にこの世から姿を消した。だが――」

カインと目が合う。口元の笑みが徐々に歪んで行くのが見えた。

「彼の部下は致命的な失態を犯した。
 ギース・ハワードが真に封印したかった物を、彼は懐へ仕舞い込んでしまったのだよ」

カインは間を置き、ロックの眼を見据えると、
端整な顔を醜悪に歪め、興奮気味に言葉を続けた。

「――その男の名はビリー・カーン。
 そしてそれこそがギースの遺産、秦の秘伝書だ」

「ビリー…… カーン……」

そして、秦の秘伝書。
記憶を辿って反芻するように言葉が漏れる。汗が染みた。
カインに呑まれていることを自覚しながらも手の震えを抑えられない。
身体が乖離して行く感覚。
無意識にソファーへ身を預け、安楽を求めるがそれも無駄な抵抗に過ぎなかった。

「知っているな、ロック。お前は秘伝書を知っている」

やめろ……!
そう口に出したいはずなのに、声が出ない。
秦の秘伝書―― その音の並びを耳にした瞬間から、ロックの血液がうねりを上げていた。
まるで知らない言葉であるにも関わらず、この気持ちの悪さは何なのか。
見たこともないような大量の汗。カインの懐に黒いうねりが見える。顔を上げていられない。
記憶が巻き戻しを始め、強烈な吐き気がロックの喉を襲った。

「ギース・ハワードは秘伝書の研究者でもあったのだ。
 その内容は私に希望を与えてくれた。そして、それはお前の希望でもあるはずだ」

「やめろォ!!」

ロックの怒声がオフィスに響いた。言葉が遮られる。
うなだれて息を荒げるロックをカインは冷酷に見下ろした。
デスクへ戻り、受話器を手に取ると数刻、ボーイが水を運んで来る。
カインの目配せでコップがテーブルに置かれるとロックは乱暴にそれを口に運んだ。
勢いとは裏腹に、唇の乾きを癒す程度にしか吸収することは出来ない。

「俺にどうしろってんだ……」

咳と共に吐き出す、掠れた声。

「お前にはハワード・コネクションへ行って貰う」

「……残りの秘伝書を奪って来いってか?」

その言葉を聴き、カインにしては珍しく表情を崩して笑った。

「何を笑ってやがる……!?」

「フッ、ハッハッハッ! これが笑わずにいられるか。
 お前が秘伝書を奪う? ハワード・コネクションから? ビリー・カーンからか?
 馬鹿を言え。お前が、親鳥から離れた程度で頭を垂れたまま飛び立つはおろか、
 立ち上がることさえ出来ないお前がか?」

顔を上げてカインを睨み付けるも、言葉は何も出て来なかった。
逆に見定められるような視線が痛みを穿つ。感情が吸い取られて行くのを感じた。

「お前はただ存在を確認するだけで良い。秘伝書は私が奪うさ。
 だがそれには今暫しの時間が掛かる。
 お前はコネクションでビリー・カーンの監視でもしていて貰おうか」

カインの言い草に唇を噛む。

「……それが、交換条件ってわけかよ」

「交換条件?」

「惚けんな! お袋が生きてるって話だよ!」

「今のお前にそれを聞く覚悟があるのか?」

カインのトーンが低く変わった。

「――お前の罪と向き合える覚悟があるのか?」

「な、んだよ……」

そこに感じる静かな怒気にロックは萎縮した。
言われるがままに、カインの眼に操られる選択肢しか与えられなかった。
少なくとも今のロックに抗う術はなく、何より真実を見つめる勇気が存在しなかったからだ。
漠然とした決意に流されながらも、覚悟をどこか遠くへ置いていた。
それを見透かされていることが怖かった。

「交換条件ではない。今は必須条件とだけ言っておく。
 どうやら時間が必要なのは私だけではないようだ。
 書状はすでに送ってある。時が来るまでに父親の組織で頭の整理を付けておけ」



サウスタウンの東側に新興された開発都市、セカンドサウス。
節々に目に付く建造中の高層ビルは人々に未来を幻想させる。そこに幼さは見えない。
ハワード・コネクションの惜しみない出資で行われたこの街の開発は裕福を生み、
煌びやかな宝石に身を包んだ多くの人々が移住を始めた。

だが、そんな街にも裏社会は存在する。
夕陽が斜光し、カインのビルをオレンジに染めていた。
彼は今、26才という若さにして、この街の実質のヒエラルキーの頂へ足を掛けている。

彼が生まれ育った街はサウスタウンだった。
いや、あの街で生まれたのかどうかは解らない。
物心を得た頃にはもう、唯一の肉親である姉メアリーと二人、貧民街に打ち捨てられていた。
生きるため、そして姉を守るため、盗み、ときに略奪を行った。
姉はその度に悲しんだが、そうするしか生きる道がないことを彼は生存競争の中で理解していた。

たった一切れのパンを巡り、死に物狂いで向かって来る大きな人間。
ならば小さな自分はそれ以上に、生にしがみ付かねばならない。
慈悲を持たぬ眼から浴びせられる感情は姉の理想を凌駕していた。
そう、姉の生き方はカインにとっては理想に過ぎなかった。
しかし、その理想が理解出来ないわけでも、まして反感を抱いていたわけでもない。
ただ、姉だけは汚れず、今は願望でしかないその理想を持ち続けて欲しかったのだ。
その為には、生きるしかない。
それが人一倍感受性の強いカインの、少年なりの結論だった。

後にセカンドサウスと呼ばれる街へと移ったのは5才の頃だった。
世話になっていた教会から渡された金で慎ましいが家を持ち、
姉と二人、ささやかな生活が始まった。
17になる姉は孤児院へ精力的に勤め、同じ境遇の子供達に尽くした。
儚くも庇護を得て尚、理想へ向かって生きる姉はカインには眩しく、美しく思えた。
だがそれも僅か2年ばかりの平穏だった。
この街も成り立つにはやはり、病を得ていたのだ。

開発の進む街。やがて孤児院を潰し、土地を得ようとするファミリーの圧力に晒された。
子供達は震えて泣いていた。女達も怯えるだけだった。
ただ一人、毅然と立ち向かう姉がファミリーの眼前に晒されることになった。
とても無謀なことなのに、この孤児院で生きているのは姉だけだと、カインにはまた誇らしく思えた。
それを、守らなければならない。
そんな日々が1年続いた。安住の地だったはずの場所はとうに姿を変えていた。

かつて毎日のように嗅いだ血の匂い。
獣達との生存競争の中で、カインは命を繋いで来た。
人を使うことを覚えたのはこの頃だった。
あまりにも頭の悪い年上グループに知恵を貸すことで能率は飛躍的に増した。
しかし、カインがその場所に懐柔されることはなかった。
彼は少年にしてすでに孤高だったからか?
それもあるだろう。
だが、それ以上に、彼はいつしかどんな数にも勝る戦友を得ていたのだ。

友は名をアベル――アベル・キャメロンと言った。
出会いは戦場ではなく、教会のベッド。
衰弱し、路上で倒れたままの彼をメアリーが連れ帰ったことだった。
年の頃は少し上といった程度の少年だったが、回復したアベルの体格はカインより遥か逞しく、
一人では勝てない相手も二人なら勝利することが出来た。
それだけアベルは強く、カインは技と、何より頭が切れた。
闘いもせず、痩せ犬のように朽ち果てて行くのが何よりも怖かった。

頬に鮮血を、耳朶に痛みを聞くカインはナイフを振り上げていた。
風のように踏み込み、大人達の肉を刺し貫く。
ルールの存在しないストリートファイト。サウスタウンのスラムではさほど珍しくもない光景。
だが、太い腕をしなやかに掻い潜り、
僅か8才の少年が屈強な男と渡り合う様はこの街の人間には圧巻だった。
何より暴力に対する覚悟が、棲んでいる世界そのものが違ったのだ。

いや、サウスタウンにだとてこんな子供がそうそう存在しているわけがない。
少年の駆ける姿は誰の目にも特別な物に見えた。
こんなところに天才が存在したのだ。
ブロンドの長髪は優雅に風に流れ、流した鮮血ですらも美しい化粧に思えた。
もはやこの少年の姿を子供に映すレンズは存在しなかった。
気圧されながら銃を構えた男を止めたのは、ドン・パパスという男だった。

「お前がわしのファミリーの一員となるのなら、孤児院からは手を引いてやろう」

カインは彼に付き従った。
自分を止める姉の声を他の女達が塞ぐ。
だが生贄のつもりはなかった。親友と誓った言葉を再び噛み締める。
闘わずに朽ち果てるのは嫌だ。

――姉さんを守りたければ、何者にも負けない牙を持て。

いつか溝鼠の回廊から抜け出して、あの巨大なタワーから世界を見下ろしてやる。

――飢えた狼のように、眼を滾らせて足掻け。その誓いが強ければ、お前は誰にも負けん。

いつか言葉を交わした男の背が浮かぶ。
触れた暴力に血の昂りを感じた。生を実感した。
今こそ、餓狼となるときだとあの男が背を押した。
そしていつか、立派なスーツを着て姉さんを迎えに行く――

やがて十数年の後、カインが作り出した独自勢力はドン・パパスを追い落とし、
気が付けば見上げ続けたあのギースタワーにも劣らぬ、ビルの頂へと君臨していた。



「……始めるのだな」

夕陽に照らされたセカンドサウスの街を
無表情に眺めていたカインの背へ、ふいに声がかかる。
異様な仮面で顔を隠した巨躯の男。なのに、まるで気配を感じさせない。
いや、その男は現実感さえ身に纏ってはいなかった。

「ああ、次に私がこの場所から街を眺めるとき、この街の地図は違う色をしているだろう」

「真なる自由を求めし旅も遂に終局を迎えたか」

「ただひもじいだけでは真に餓えているとは言えない。
 飢えない為に戦い、そして求め続けることで初めてその意味を為すのだ。
 私の街に鼠は要らぬ。完全なる弱肉強食の中にこそ牙を研磨する生がある。
 出生来の身分など捨て去り、己の牙で掴む生にこそ自由がある」

カインは振り返り、真摯な表情を浮かべて男へ言った。

「お前にはまた世話になる」

「お前の理想は変わらない。それは、俺の理想も変わらぬということだ」

男がゆっくりと仮面を外す。緑色の瞳はまだ力を持っている。
刻まれた無数の傷は歴戦を証明していた。
カインはその言葉を瞳を閉じて噛み締め、デスクへ座り手を組んだ。

「かつて、ギース・ハワードはサウスタウンを掌握する計画をPROJECT-Gと呼んだそうだ。
 パパスの首を以て旧勢力を完全に握り潰し、金粉の上をこそこそと這い回る鼠共を全て駆除する。
 これから始まるのは私のPROJECT-G。かつてのサウスタウンが甦るのだ」

「お前は本当に、ギース・ハワードが好きだな」

およそ冗談の似合わぬ顔で、男が笑った。

「いや、復讐だよ。私があの男に捧げる物はそれしかない」

「永年の理想を得た世界を、本当は誰に捧げたいのだ?」

「……その先は、お前の目で確かめさせてやるさ、アベル」

「有り難う、カイン。だがその名で呼ばれるのはこれが最後かな」

我はグラント…… 力の殉教者。
俺には理想を共有することは出来ても、それを成すことは出来ない。
お前は光を浴びて駆ければ良い。
独りになっても、迷わず、お前の最も尊い誓いを追い続けてくれ。
俺の誓いは常にお前と共にある。
忘れないでくれ、カイン。ならばこそ、俺は殉教者として果てることが出来る。

グラントは再び仮面をはめ、人としての気配を失った。
その影にはすでに生ある者としての熱さえも感じられなかった。


【3】

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