3.Wolf's Bane

主亡き後もサウスタウンになんら変わることなく聳え立つギースタワー。
かつては恐怖の象徴として存在したその塔も、
治安に安定の兆しが見え始めるとその威圧を失い、人々の興味から白んでいった。
だが、その場所に覇王が君臨していた事実は変わらない。
不死身の覇王の伝説は暴力に依存する人間にこそ焼き付いて離れない。
そして何より、忘れることを許さない男達がいる。

そんな牽制状態が数年続いた後、時間による変質というのは不思議なもので、
他ならぬギース・ハワードの出資によって煌びやかに開発されて行く
セカンドサウスに煽られるようにして、この街の気質は徐々に変わっていった。
伝説はやがて完全に移ろい、誰も語らぬ昔話と成り果てるのだろうか。
しかしその中にあって、暴力の味を失っても尚、
ギース・ハワードの威光はアメリカの経済に降り注ぎ続けることになる。
自然、跡を継ぐ者は忙しい日々を送る。

かつてギース・ハワードが使用していたオフィスの一階下、
同じ造りのオフィスで苛々とした足踏みが刻まれていた。
権威の象徴である椅子に座る男、ビリー・カーンである。

「ああ、うるせぇうるせぇ! 何でそうなるってんだ。
 んなのテメェの丸儲けじゃねぇか。一人でやれ、一人で」

肘を突いて毒づくビリーの視線の先には、
人様のソファーに我が物顔で座る背の高い東洋人の姿があった。

「おいおい、本当にテメェは要領を得ねぇな。
 目先のことしか目に入っちゃいねぇ。これだからド近眼は困るぜ。
 知ってるぜ? 天下のハワード・コネクション様もインチキ格闘大会をやめて10年、
 そろそろお台所が厳しいってなぁ」

わざとらしく苦笑しながら大袈裟なジェスチャーを取る大男との間には、
ビジネスの話とは付かないダレた空気が漂っている。
だがそれは同時に、ビリー・カーンを前にしても尚、怯まないこの男の貫禄を示していた。

「大きなお世話だよ! だいたいテメェ、そう言って何度俺らから金毟り取ったと思ってんだ!
 ニヤニヤニヤニヤ嫌らしい目付きしやがって……
 俺を騙したけりゃテメェが眼鏡で変装でもして来やがれ」

「おお、良いねぇ。俺くらいインテリだとそれも似合うかもな、クックックックッ」

「どこがだ、どチンピラが……」

室内に唾を吐きかねない勢いでビリーが吐き捨てる。
この“どチンピラ”は香港で企業を持つ山崎竜二という男で、ビリーとは旧知の仲――
と言ってしまうには物騒な因縁を過去に持っている。
その縁は腐りながら今も続き、山崎は度々ビリーへ危ない商談を持って来た。
そう、山崎の企業もまたとても“清い”企業とは言えない。
だがこの男の才覚は確かで、それはいつも煮え湯を飲まされるビリーが一番良く知っていた。

「ったく、つくづく見る目のねぇ男だぜ。
 んなことじゃホッパーにその椅子、乗っ取られちまうぞ。
 おっと、今もほとんどお飾り社長だっけな」

そう言って笑う山崎へ、ビリーは得意げに笑い返した。

「そのお飾りも今日で卒業だ。
 テメェに下らねぇ話ふっかけられんのもこれで最後と思うと涙が出て来るぜ」

「ああ? 本当にホッパーに譲る気か?」

言い出した山崎の目が怪訝に潜む。
視線の先のビリーは心底嬉しそうだった。

「帰って来んだよ、このビルの本当のボスがな」

ギース・ハワード――

軽い震えを持った山崎にはまずこの名が浮かんだ。
そもそも、彼は未だどこかでギース・ハワードの死を信用出来ないでいる。
ギース・ハワードはテリー・ボガードとの闘いの果てに命を散らした。それは事実だ。
だが、ギース・ハワード、テリー・ボガード双方と拳を交えた山崎には、
確かにテリー・ボガードも強い、しかしそれは決してギースを凌駕するものではないという
思いが強く残っているからである。
香港の闇社会を力で奪い取り、己の実力を確信する今だからこそ、
ギースに喫した致命的な敗北は日に日に大きく感じた。

だが、すぐに冷静になる。

「――来たぜ、ロック様だ」

ビルの下の高級車を親指で指し、ニヤリと笑うビリーの口から出た言葉は予想と同じだった。
――ロック・ハワード。
ギース・ハワードの遺児にして、Maximum Mayhem KING OF FIGHTERSで
テリー・ボガードを超え、優勝を果たしたとされる少年である。



リッパー、ホッパーという大幹部の付き添いでその少年は現れた。
印象的な赤い瞳。
あの人と同じブロンドの髪は目にかかる辺りで羽のようにふわふわと浮いている。
派手な赤いジャンバーは活動的なイメージを持たせたが、
その雰囲気にはどこか落ち着いた気品のようなものを感じた。

「――お待ちしておりました、ロック様」

ビリーがそう言って深々と刈り込まれた頭を下げる。
山崎の存在を確認した後、リッパー、ホッパーもまた無言で膝を突いた。
カイン・R・ハインラインから連絡が入ったのはつい先日のことであり、
その来訪は急と言う他はなかったのだが、彼らにはそんなことはまるで関係がなかった。
この城の主の帰還を、十年間待っていたのだ。

ロ、ロック…… 様……?

戸惑ったのはロックだった。
ハワード・コネクションとカインは友好関係にあると聞かされてはいたが、
あくまでロックは客人として宿を借りる思いだったのである。
それがこの対応だ。
それだけ彼らにとってギース・ハワードという存在は大きく、
そしてロックにとっては希薄だったということになる。
それは同時に、ロック・ハワードという存在の希薄さも示していた。
丁寧な対応とは裏腹に表情が曇る。

「やめてくれ…… 俺はただ……」

秘伝書を探りに来た。それは正しい。
しかし、今のロックにはその思いすら持てなかった。
このビルには嫌な思い出しかない。
流されるままこの場所へ移され、やっとそれを思い出した。
この空間で初めて父と会い、そして、母を失った。

――今すぐに消えろ。

あの日、ギース・ハワードに打ち付けられた言葉が頭にリフレインする。
こんなに忌々しい場所なのに、失った居場所を求め、流され、今ここに居るのは何故だ。

足が浮いている感覚。話し声が遠くへ聞こえる。
視界は白み、自分が存在しないことにすら気付けずにいる。
意識を呼び戻したのは後方から感じた、男の低い、纏わり付く蛇のような声だった。

「おい、山崎!」

何を言われたのかは解らない。即座にビリー・カーンが声を荒げていた。
尚も横柄にソファーを蹂躙している山崎竜二はニヤついた笑みのまま、
挑発するようにロックへ声を向ける。

「ギースのガキの割に随分かわいい面してんじゃねぇか、お坊ちゃんよ」

反射的にロックが睨み付ける。

「テメェ茶化すつもりならとっとと消えろ! こいつぁ冗談じゃ済まねぇぞ!」

立て掛けてあった棍を掴み、ビリーが怒声をぶつけた。
しかしそれで怯むような男ではない。山崎は構わず挑発を続けた。

「腕の方はどうなんだろうなぁ? ちょいとおじさんに見せてくれねぇか?」

「……っ」

「それともドレス着てダンスを踊る方がお得意かな? ヒッヒッヒッヒッ」

「山崎!!」

ビリーが激昂し、棍を振り上げる。
それを掴んだのは黒いグローブに包まれた、ロックの手だった。

「良いぜ…… 見せてやるよ。来な、おっさん」

山崎は羽織っていた毛皮のコートを肩で脱ぎながらゆっくり立ち上がると、
陰湿な笑みを浮かべ、嫌らしく呟いた。

「そいつは嬉しいねぇ……」

ロックが身構える。睨み付ける先の山崎という男は、
その体格と筋肉の発達を見るに格闘技者であることは解ったが、
漂う殺気とは裏腹に構えているようには見えない。
左手をスーツのポケットに入れたまま、軽く背を丸めて不気味に笑っている。
やがて、ダラりと伸ばされた右腕がゆらゆらと揺れ始めた。

「てめぇ!」

ロックにはそれが挑発に見えた。


――なのに、

――それをどこかで、知っている気がする。


凄まじいスピードで踏み込む。いや、踏み込もうとした。
その瞬間に頬が弾ける。70kgのロックの身体が軽々と浮き、高級なカーペットを滑っていった。
届くはずのない間合いから伸びる山崎竜二の右の拳。
かつて、数々の屈強な男達を恐怖させた蛇使いはなんら衰えてはいない。
起き上がる間もなく、次の蛇が鎌となってロックへ襲い掛かる。

ガードしても尚、重い拳。
フェイントをかけて再び踏み込もうとするが今度はその足を直接、蛇が襲った。
間合いを詰めようという意識がロックを前へ転ばせる。
そこには山崎の鈍い眼光が浮かんでいた。
一瞬、ロックが硬直する。蹴り上げられたのはその直後だった。
軽く吹き飛ぶ。だが、バランスを取り直し、大地を踏み蹴った。

「リャアァ!!」

思い切り肘を打ち込む。山崎の防御した腕が軋んだ。
続いて自分の左腕を掴んで気を伝わせ、八極聖拳の発勁を浴びせる。
山崎の上半身は反り返り、致命的なダメージを受けているように見えた。
刹那、耳へ響いた奇声と共に、赤く濁った物体が腹へ打ち込まれていた。
悶え、蹲る。引き抜かれたモノが山崎の左手だったと気付く間もなく、
視界を大きなそれが覆っていた。

「痛てぇじゃねぇかよ…… ええ?」

この世のモノとは思えぬ握力で顔面を握られ、そのまま持ち上げられる。
もがきながら腹へ蹴りを打ち込むが効いていない。
いや、効いているはずなのに、顔を圧迫する力は益々強まって行く。

「ヒャハハハハハッ! 痛てぇなぁ! 小便チビっちまいそうだぜ!」

――何だよ、こいつ……!

塞がれている視界の闇から喜悦の笑みが浮いている気がした。
耳障りな奇声が冷静な判断を失わせて行く。
やがて逆の手で髪を掴まれる。やっと与えられた視界には山崎の額が映っていた。
激しい激突音が響いた。

「オ…… オアァ……!」

ロックの額が割れ、血が滲んだ。
その場所へまた山崎の頭突きが飛んで来る。
長身の山崎に吊るし上げられ、足は地面から浮いている。
踏ん張ってダメージを和らげることも出来ない。
咄嗟に腕でガードするが、手の甲への痛みは痛烈だった。

「ぅああ!!」

悲鳴が漏れる。丸見えとなった額に再び山崎の頭突きが飛んだ。

「痛てぇか? 痛てぇか!? 痛てぇのかァ!!?」

奇声と共に何度も打ち込まれる山崎の岩のように硬い頭。
当然、山崎の額も無傷ではなく、血が滴っている。
それでもロックに映った山崎の顔は狂喜の表情だった。

「うわああああああああああ!!」

恐怖した。狂ったように腕を掴み、放そうと暴れるが解放されない。
益々喜悦に歪んで行く山崎から逃れようと足掻くがそれはすでに子供の抵抗だった。
ポケットへ戻した左手を山崎がゆっくりと再び抜き放つ――

それを止めたのは鮮やかな赤を放つ、ビリーの棍だった。

「そこまでだ、山崎」

冷たく告げるその言葉に狂行が止まる。
山崎は目を閉じてわざとらしく深呼吸をすると手を放した。

「おお、怖い怖い」

ロックは無様に崩れ落ち、俯いて咳き込む。
もうとても山崎と向き合う勇気はない。

「この怖ぁい兄ちゃんも今日からテメェの手下なんだってなぁ、ロック・ハワード。
 まぁせいぜいコキ使ってやってくれや。いつも虐められてる俺の胸もスーっとするってもんだ」

捨て台詞を吐きながら低く笑い、山崎がオフィスから消える。
うなだれたロックに誰も声を掛けようとはしない。
沈黙が辺りを包んだ。

「――酷ぇや、テリー……」

「……テリー?」

ロックの呟きを耳にしたビリーが訝しげに聞き返す。
ロックは反応して顔を上げた。浮かぶのは泣き出しそうな半笑い。

「だって、あんたはさっきの奴より強いんだろ……?
 そんな奴に負けた俺が、テリーに勝てるわけねえよ……
 変だと思ってたんだよな…… 手加減したんだ、俺に……」

「奴は…… 手加減なんかしませんよ」

「嘘だ! じゃあ何で俺が勝った!?
 こんな弱い俺が! 一人じゃ何にも出来ねぇ俺が!!」

キッと、ビリーの眼に怒りが灯った。
それに一瞬、親に叱られる子供のように怯える。
屈み込んだビリーはロックの髪を乱暴に掴んだ。

「良いか? テメェがどんなに卑屈になろうが、テメェが俺達のボスなのに変わりはねぇ。
 俺達はテメェの言葉に従うだけだ」

そのビリーの言葉は、かえってロックを荒れさせた。

「アンタが信じてんのはギースの血だろ! 俺じゃねぇ!」

ビリーのスーツを掴み、ロックが悲鳴のように声を荒げる。

「アンタが信じてんのは……!」

ビリーはロックの腕を切り離し、立ち上がって言った。

「――お前の血と、テリー・ボガードだ」

「……え?」

呆然と、呆けてビリーを見上げる。
日が翳り、表情は見えない。
ビリーはそのまま背を向けると紅白のバンダナを取り出し、自分の頭に巻いた。
そして棍を地面に置き、再び頭を下げる。それにリッパー、ホッパーも同調した。

「――お帰りなさいませ、ロック様」

この人達が待っていたのはギース・ハワードには違いないだろう。
最初に感じた違和感はまだ続いている。
なのに、その声は優しく、ロックに染み込んで行った。


【4】

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