9.Dignity Palace

「いきなり二人掛かりかよ! 良いぜ! 仲良く潰してやるよ!」

右から崇雷、左から崇秀の襲撃を受け、ロックが吼える。
崇雷の攻撃は中国拳法の打拳に即しており、
かつて彼が秦空龍に憑依されていた頃に武器としていた帝王拳に近い物だった。
時折輝く掌はあの頃に使っていたモノと同じ気功。
呪われた血の力に頼らずとも自在に気を操る業こそが、タン・フー・ルーの修行の成果だった。
その一撃一撃の力強さは、崇雷の性情故か。

一方の崇秀はベースの中国拳法に、かのテコンドーの英雄、
キム・カッファンに支持した経験を活かしてのトリッキーなスタイルで兄をフォローする。
可動域の広い足技は想像だにしない角度から急所を切り裂こうと唸る。
カマイタチのような蹴りや手刀がロックの数ミリ前を次々と通過して行く。
だが、髪一本とて落とすことは叶わない。
崇雷の発勁でさえ、片手でいなされ、ただ熱光を撒くだけだった。

「空龍と海龍は死んだのか?」

底冷えのする冷酷な声。崇雷と崇秀の額に汗が滲んだ。

「死んだみてぇだな」

刹那、崇秀の首へ後ろ回し蹴りが飛んだ。
グシャリと、嫌な音がする。

「は、あぁ!」

咄嗟にガードに回した腕が逆に曲がっている。
気功で受けたにも関わらず、それは何の意味も成さない、紙のようなものだった。
さらに蹲る崇秀の腹をロックが蹴り上げる。
崇雷が一瞬早く打ち込んだ肘はまるで側面にも目があるかのように見透かされ、
片手で易々と止められた。
だが、力は分散する。崇秀が退いたのを確認した崇雷は、
軽く飛び上がってロックの顔へと蹴りを打ち、間に入った腕を蹴って間合いを離した。

「チョロチョロするだけかァ? 出来損ないがよォ!」

耳を貸さず、二人はさらに退いて間合いを離す。

「大丈夫か? 崇秀」

「折れましたね…… 気は入れていたのですが」

軽く咳き込んだ崇秀の口から赤黒い血が漏れた。
口を切ったわけではなく、もっと奥から沸いて出たものだ。
それを兄に見られたのを知って、逆に崇秀は早口に口を動かす。

「どう思いますか? 兄さん」

「――判らん」

「僕もです。でも、判らないということは、確実ではないということでしょう。
 程度は判りませんが、混ざっているのか」

「もう良い。喋るな、崇秀。
 時間は俺が稼ぐ。お前はテリーさんと合流しろ」

「僕が、テリーさんを連れて来るまで、ですか?」

「お前がこの場から去るまでだ」

崇秀の表情が強張った。
兄は“本気”を出すのだろう。その上で、僅かな時間稼ぎしか出来ないと告げている。
ふいに、ロックの左腕が下から振り上げられた。
気の烈風が逆巻く。崇秀への直撃コース。
それを受けたのは崇秀の力ではなく、間に入った崇雷の両掌だった。

「……ぐっ」

少々の気ならば、何事もなく受け切ることが出来る崇雷の熟練。
だがそれでも服の袖が引き裂かれ、こめかみに赤い線が走った。

「行け、崇秀」

「兄さん……!」

「俺一人が退くのなら、お前の時間を稼いでもそう難しいことではない」

「……その言葉、信じますよ、兄さん」

ああ、とあくまで正面の敵を見据えて言う兄の背をもう一度目に焼き付け、
崇秀が踵を返して走る。

「逃がすと思ってんのかよ!」

だが、ロックはそれを逃がさない。
そして、身を屈めて地を蹴ろうとした瞬間、瞬間移動のように目の前に青い姿が現れた。
目を見開く。心臓を狙った直掌をかろうじて脇に逸らす。
だが続いての両拳は受け止めるしかなかった。
凄まじい力に無理やり距離を作られる。崇雷はすでに両腕を広げて気を練り上げていた。

「ぬぅうううう…… ハァァ―――ッ!!」

キーンと、何かが擦れたような耳障りな音と共に闇夜に灯りが灯る。
崇雷の合わさった両掌は青白い閃光となって照準へと走り抜けた。
その一瞬の光がロックのガードを弾き飛ばす。そして後方へよろめいて止まった。
闇へ戻った地面へ色の見えない液体が落ちる。
ロックはボロボロになったグローブを口で脱ぎ捨て、崇雷を睨みつけた。

「……生きてたのかよ、空龍」

「空龍は死んだ。今の俺にあるのは俺の中に溶けた空龍の力だけ。
 だが……」

ふいに、崇雷のこめかみの傷から鮮血が舞った。
爆発した火山のように、内側から破裂したのだ。
無表情に揺れた頭を戻し、崇雷は続ける。

「所詮は本来在らざる力だ。運命は自壊しかない」

「転生程度に失敗する野郎にはな」

「お前も同じだ、ロック。お前も王龍の転生に失敗したんだ。
 中途半端に支配された今のお前は、個ですらない、存在としての暴力だ」

「てめぇに俺が測れんのか?」

「俺はお前を止める。その義務がある」

崇雷もまたボロになった上着を脱ぎ捨て、細身だが引き締まった上半身を露出させた。
静かな吐気と共に立ち昇る湯気のような闘気。
いつの間にか周囲の街灯が割れているにも関わらず、その場所には異様な光が差していた。

ピリピリと舌が痺れて行く。
ロックの背から黒い霧が、翼のようにはためいているのは錯覚ではない。



その宮殿は拍子抜けするほど無頓着だった。
警備もなく、老執事がただ個室で休んでいる。
そこは主の心を形どるかのような、無味無臭の世界。
ただ、埃ひとつなく磨かれた大理石の床の冷たさからは、ある種の神聖さを感じさせる。
それは主の心の聖域であるのか。
広大な吹き抜けのホールで一枚の絵を見上げる青年の後ろ姿からは、
やはり何の匂いも流れては来なかった。

「私の姉はよく絵を描いていてね。
 私の知る限り最期の作品はこの森から見上げる満天の星空だった」

「そう、本当にただの別荘なのね。
 初めまして、カイン・R・ハインライン。早速だけど、何か祈る言葉はある?」

カインの背に向けた銃を収めるでもなく、女は無表情にそう言った。

「そうだな。少し、懺悔を聞いてくれないか」

「どうぞ」

カインは絵を見上げたまま、静かに独白する。

7歳の頃だった。
サウスタウンの貧民街からセカンドサウスへと移ってその頃までしばらく、しばしの平穏があった。
だが、新興都市の歪みはカイン達に安息を許さなかった。
恐怖に屈し、教会から人は途絶え、人々の心は荒んでいった。
やがて狂犬も棲みつく。

名も知らぬ少年だった。
悪辣な集団から理由もなく謗られ、蹂躙されて行く命。
止めに入ろうとしたアベルをカインが止めた。
少年はまるで無防備で、抵抗する様子を見せなかったからだ。
抵抗すればするだけ狂犬達は悦ぶことを少年は知っていた。
耐える自由を彼は選択していたのだ。

だが、少年が解放されることはなかった。耐えた先に自由は存在しなかった。
狂犬が去った後に残されたのは、無力な死体だけだった。

カインとアベルは少年を手厚く葬ってやった。
海が見える丘。この海の広さと比べて、人の一生のなんと狭苦しいことか。
こんなに簡単に、まるで価値のない人間達の掌にさえ握り潰されてしまう。
瞬間、潰された命さえ無価値となるのだ。

いや、今、無抵抗に潰された命はそれ以前に無価値ではなかったか。
彼はいつから無価値な存在となったのか。
人間としての自由を失ったときか? ならば、彼はいつ自由を失った?
なぜ、自由を得るために闘いを選ばなかったのか。
束縛された命に自由などはない。
例えそれが自身の選択であったとしても、与えられるだけの自由など気休めからも程遠い。
ただの、奴隷だ。

いつか、ギース・ハワードはカインに言った。
牙を持てと。何者にも屈せぬ牙を。
己の内から創造し、もしそれを奪おうとする者が現れたなら己が牙を以て全力で守り抜く。
それこそが誓いであり、その末に勝ち取る物こそが本当の自由なのだ。
その誓いが尊ければ尊いほど、人は闘い、より純粋に生きることが出来る。
やがてまたいつか新たな誓いを創造し、求め続けることが出来る。

――牙を持たぬ者に自由などはない。

カインは無価値な墓を乱暴に踏み抜いた。
十字架の代わりに突き刺した木切れを抜き、海へと放り投げた。

「カイン!?」

「俺は…… 嫌だ。
 闘いもしないで、こんなところで死ぬなんて…… 俺は、嫌だァ!」

叫んだ。

「カイン…… お前……?」

「俺はいつか、ここから抜け出す。そして、全てを手に入れてやる!」

あの男のように。

「そのときはお前も一緒に来い! アベル!」

カインは、アベル・キャメロンの目から見ては怖い男だった。
優しい顔立ちからは信じられないような残酷なことをしばしば口にする。
本当にあの女神のようなメアリーの弟なのかと、ときに疑問にさえ思った。
だが、彼の言葉の通りに手を汚した先は常に、飢えをしのぐには充分な楽園があったのだ。
アベルにとってのカインはこのスラムという世界の王だった。

アベルにはカインが何を考えているのか解らなかったし、興味もなかった。
その智謀を利用しようと考えたことはある。
だがその思考も出会って一月の内に掻き消えた。考える理由を失ったのだ。
すでに考えるべきは自分ではない。カインが考え、自分がそれに応えれば良い。
ただそれだけの時間が充実していた。
そして稀に訪れるメアリーと三人の穏やかな時間。
ただそれだけの充足があればもう、
カインがその幼い胸に燻らせている炎は興味の対象ではなかった。

いや、彼の“友”足り得ない自分自身を認めたくなかったのか。
彼の本性を知ったとき、彼を永遠に理解出来なくなる自分自身が許せなかったのか。
初めて得たぬくもりの全てが断たれてしまうことが、何よりも恐ろしかったのか。

しかし、今取り乱すカインの姿からは、共感があった。初めて彼が理解の内にあった。
闘わずして朽ち果てる生など誰が望もうか。
そうだ、このカインという男はいつも自分の心を奮い立たせる何かを与えてくれた。
それが彼の胸の炎ならば、“友”として胸を張れるのではないか。
アベルはカインにその野望を形として見せて欲しかったのだ。

「……よし、判った。俺もここで死ぬのは嫌だ」

お前が突き進むというのなら、俺の道もそこにしかない。

「力が欲しい…… 全てを手に入れる力が…… アベル」

手を取り合う二人の望む物はすでに同じだった。
アベルはカインの影となって、王を支える。
その手がどんなに汚れても、それは名誉であった。
全身の傷は全て勲章であった。
そう、左胸に浴びた、致命の銃弾でさえも……


「――私が初めて道を振り返ったのはその時だったな。
 己の無力が招いた結果に後悔したよ。少年の日の私は助けを求めてはいけなかったのだ」

「人の命なんて、そんなものだわ。
 貴方がどんなに力を手に入れても、必ず救える保障なんてない」

彼の懺悔する先には姉、メアリーの肖像画が掲げられている。

「……運命は、認めたくないな」

カインは振り返り、女の顔を見やった。
月光に照らされるブロンドの髪は美しく、どこか姉を思い出させる。

「ただひもじいだけでは、真に餓えているとは言えない。
 飢えない為に戦い、そして求め続けることで、初めてその意味を為すのだ。
 かつてのサウスタウンにこそ本当の自由があった」

「……だから、この街をサウスタウンのように?」

「そうだな…… だが私の目的は変わってしまったよ。
 いつしか、ただ姉さんに自由を捧げることだけを考えるようになった」

「それで、お姉さんは喜ぶのかしらね?」

「断罪されるならそれは構わない。
 姉さんがもう一度自由を得られるのなら、どんな選択をされても受け入れるつもりだった。
 だが……」

カインは目を閉じ、静かに天空の星空を見上げた。

「――私は間違っていたのかな」

「どうでしょうね? でも今なら、お姉さんも天国で微笑んでくれると思うわ」

瞬間、カインの紅い瞳が激しく見開かれる。
そこには空虚に感じたこの空間からは推し量れない眼光があった。
女の表情に初めて反応が生まれる。

「いいや、姉上は微笑んではくれないよ」

「動かないで!」

カインが一歩、足を踏み出そうとする。

「マリー・ライアン」

カインが女の名を呼んだ。
マリーはトリガーにかけた人差し指に緊張を入れた。



ロックの乱暴な拳を化勁で受け流し、流れるように神速で密着を取る。
その技のキレ、スピードはロックをして反応出来るものではない。

「リィィアアアアアア!!」

雄叫びと共に、崇雷の両掌から蒼い閃光が放たれた。
ロックの格闘家としては軽い体が投げられたボールのように飛ぶ。

「おおおおおおおおおおお!!」

だが手は緩めない。
崇雷は一瞬の軽功で間合いを詰めると着地し、
まだ体勢を整える前のロックへ肘を打ち込んだ。帝王拳の奥義、帝王神足拳。
腹部を打ち抜き、下がった顎を今度は掌打で打ち上げる。
ロックのくぐもった声が漏れ聞こえた。
崇雷はさらに両掌打でロックを弾き飛ばすと印を結び、
吐気と共に漲った“気”を片手に凝縮した。
光が収束し、すでに崇雷の頭上に光るソレは太陽のようだった。

「帝王宿命拳!!」

鉄塔が溶け出すほどの結晶。解き放つ。
周囲の景色を蹂躙して放たれた光球は確実にロック・ハワードを呑み込んだ。

なのに、濛々と沸き立つ熱の中で怒気を露にしているこの存在は、すでにヒトと呼べるのか。
煤けたジャンバーを苛立たし気に破り捨て、ロック・ハワードが吼えた。

「出来損ないがァァァ!!」

猛突して来るロックに対し、再び構えを取る。

「ぐぁ!」

だが、その腕の毛根から霧のように立ち昇る鮮血が崇雷の構えを砕いた。
心臓が跳ね上がる感覚がし、内腑を吐き出しそうになる。
気付いたときにはすでに目前に悪鬼の姿があった。
腹にめり込んだ拳は、崇雷の肉体に突き抜けたかと錯覚するほどの衝撃を与えた。

「う、がぁ……」

視界がブレる度に衝撃が走る。
音を上げて暴に狂うロックの姿をすでに捉えることさえ出来ない。
もはや気力のみで放った突きも残像の中へ消えるのみ。
浴びた発勁は崇雷から肉体の感覚さえ奪い去っていった。

「ハッ! ダセェな、空龍!」

すでに身を起こすことも出来ない崇雷へロックが吐き捨てる。

「……お前もだ、ロック。力に振り回された先は、無様だ」

「チッ!」

その言い様に苛立ったロックは崇雷の髪を掴んで立たせ、その顔を睨み上げた。
そのロックへ、崇雷は続けた。

「……お前の痛みは俺にも聞こえる。そしてその責は、俺の血の中にある。
 俺を殺した後に考えろ。今、命を摘んだ力が何なのか…… 考えろ、ロック……」

「うるせぇ! チリにしてやるよ! ゴミクズがよォ!!」

ロックの両の手に閃光が宿る。
今にも爆発せんとするその膨大な技は秦空龍の記憶が知っている。

レイジングストーム――

その時、暴走したエンジン音がロック・ハワードを弾き飛ばした。

「っに!?」

「崇雷! 早く乗りやがれ!」

かろうじて顔だけを上げた崇雷の視線の先には、
重量感のあるジープのハンドルを握る山崎竜二の姿があった。

「山崎……」

山崎は崇雷がそう呟くだけで、すでに身体を動かすことが出来ないことを悟ると、
舌打ちと共にドアを蹴り開けて腕を伸ばした。

「山崎ィィ!!」

フロントの先から聞こえる同じ名を呼ぶ音はとても同じ生物の声とは思えない。
獣の咆哮にも似た恐怖が二人の神経を竦ませる。

「クッ!」

乱暴に崇雷の腕を取り、助手席へと引っ張り上げる。
ターンを切る寸前に見たフロントガラスの先には腕を振り上げるロックの姿があった。
ロック・ハワードが怒声を上げるだけでガラスが蜘蛛の巣に変わる。
後に襲い来る烈風をかろうじて躱した山崎は、
言葉を奪われたまま、ただ全力でアクセルを踏み抜いた。

「クソがァァァァ!!」

すでに空洞となった窓ガラスの先から、身の毛もよだつ悪鬼の叫びが突き抜けていった。



「ギースの遺産の正体を知っているか?」

「――懺悔の続き?」

「それを聞き出すのも貴女の仕事だろう?
 話に付き合ってくれた例だ。教えてやろう、もう一つの、あるいは本当のギースの遺産」

「……秦の秘伝書ではないの?」

マリーが眉を顰める。
緊張は解かず、そのまま睨み付けた。
カインの印象が初めとはまるで違っている。
枯れた松明に、今は業炎が灯っている。

「違うな、秘伝書はギースの遺産の一要素に過ぎない。
 真に遺産と呼ぶべきは、このセカンドサウスの街そのものなのだ」

「どういうこと……?」

「ハワード・コネクションの、不自然なまでのセカンドサウスへの膨大な出資。
 ポーズにしても疑問とは考えなかったか?」

「――何?」

「貴女は姉上が天国に居ると言ったがそうではない。
 遥か太古の昔より、死者の住まう先は巨大なゲートの裏側にしかないのだ。
 肉を失い、思念体となった、ヒトの成れの果てが収容される世界。常世」

「何を言っているの……?」

「言わば秘伝書は擬似的な常世そのものなのだ。
 肉を失った秦王龍という思念体はゲートを潜ることを拒み、秘伝書の中へ逃げ込んだ。
 不死身と言えば聞こえは良いが、その実、完全体には程遠い」

汗が引いて行く。
カインの眼には神経を露出させる力があった。

「貴女も伝説くらいは聞いたことがあるはずだ。世を分かつ門の名は地獄門。
 一度は封印され、別次元へと消えたソレは百を超える年月をたゆたい、
 やがて一つの街に留まった。あるいは秦王龍を追ってこの国へ辿り着いたのかな。
 それが、セカンドサウスの街だ」

およそ現実感のない話であるのに、秦の秘伝書の怪奇がソレに信憑性を持たせる。
子供が怪談を聞いたかのような、おぞましい感覚。

「ギース・ハワードがいつその事実を知ったのかは判らない。
 だが、ハワード・コネクションが率先して開発したこの街には四方に封印が施されている。
 その謎を解けば、門の向こうの思念体…… そう、魂を現世に戻せるとは思わないか?」

「何を考えているの!? 貴方は!」

「ほとんどがギース・ハワードの調べた成果だがね」

カインの眼から力が抜ける。
力なく笑った彼の素の表情さえ、マリーには危険に見えた。

「クッ!」

マリーが引き金を引くよりも早く、カインの腕が振り翳された。
放たれた蒼い炎は主のシルエットを揺らし、その存在を虚ろにする。

「待ちなさい、カイン! 何をするつもりなの!?」

銃を向けた先にすでに視認出来るターゲットはなく、

「――腕の良い医師ほど多くの患者を殺す。
 何故だか解るか? もう助からぬ者ほどその男に希望を託すからだ」

ただ陽炎の中、声のみがマリーの耳に届いた。

「貴女のおかげで最初の誓いを思い出すことが出来た。
 ありがとう、M'sマリー。大統領によろしく伝えておいてくれたまえ」

「カイン……!」

死んだ人間が甦ることはない。
それは何より、大切な人を失って生きて来たマリー自身が痛感し、乗り越えて来た現実。
そしてそれに押し潰された人間が取る行動はさらなる不幸しか生まないことも、
彼女には解っていた。

親友の居た貴方なら、共に乗り越えられたはずなのに――

「秦の秘伝書……」

そう呟いたマリーの表情は、どこまでも悲劇を引き摺るこの秘伝書への、嫌悪に満ちていた。

【10】

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