ド、ガァァ――――!、という轟音。

爆発したかのような悲鳴を上げた地面に、人の形が転がっていた。

板張りの床がどこまでも続く古風な道場。
だが木の香りを掻き消すように、血の臭いが充満している。
広がって行く赤い染みは、主人の血を吸い尽くしても尚、
呪われた床がまだまだ足りぬと飢え、求めているようだった。

男はゆっくりと呼吸を整えながら、それを見下ろしていた。

――お前は何かを守るために拳を振るって来たと、そう言ったな。

ふと、骸に微かな反応。

――ならば私も同じだ。
――私は私の野望を守るために、私の誓いを裏切らぬために闘う。

一瞬の静寂の後、

カツ カツ カツ

気配は遠くへ――

向こう岸で聞こえた声が精神をかき乱し、同時に意識を呼び起こして行く。
遠のいて行く足音に焦燥感を感じた。この男を、この檻から出してはならない。
そのひとつの答えだけが、骸の両足を大地に縛り付け、
これ以上の血は与えぬと奮い立たせていた。

朝日が射し込める外界まで後数歩といったところで振り返らざるを得なくなった男は
不快だったに違いないが、なぜか表情は笑っていた。
余裕があったわけではない。よく見れば男もボロボロである。
床に染み付いた血も、一人の男から一方的に流れ落ちたモノではなかった。

「納得がいかないようだな、リョウ・サカザキ」

リョウ・サカザキと呼ばれた骸は生気を取り戻し、
かろうじて働く頭で精一杯の声を振り絞った。

「お前の拳は奪う拳だ!破滅を呼び込み、自らも破滅する!何も守れやしない!」

「貴様の父のようにか?」

即座に切り返され言葉に詰まる。
それを確認した後、男は続けた。

「さて、タクマは確かに強かったが、果たして何が欲しかったのかな?」


――強さ、だとリョウは思った。

だがその先は解らなかった。今だけではない。ずっと考えていたことだ。
極限流空手という無双の拳技を一代にして完成させた偉大な父。
求めていたのは強さだろう。だが、その理由が解らない。

理由が解らないから、理由を求めて苦しんでいる。
行き詰まるのは当然だった。
有りもしないものを追っているのは、自分でもすでに解っていたのだから。

「私の知る限り、修羅と呼べる男はタクマしかおるまい」

思考を遮る、男の声。

「タクマはただ強さしか欲していなかったから、極限流を生み出せた。
 これは純粋さ故の奇跡と賞讃してやろう。
 だがそれ故に破滅し、Mr.KARATEなどという道化に成り下がったのだ」

その言葉に怒りを感じ、キッと睨み付けたリョウの先には、
朝日を取り込んだかのように金色に輝く、男の長髪が揺れていた。
目が慣れ、鈍く澄んだ男の双眸と激しくぶつかり合う。
だがどこか敵意とは別の物を感じ、毒気を抜かれたように感じた。

「私は違う。お前も守る者の為に、多少なりとも“奪って”来たのだろう?」

はっ、とする。
自分の拳で父を奪われてしまった少女――
藤堂香澄の顔が脳裏を過ぎった。

――私はサウスタウンへ戻る。
そう言って踵を返した男の背を、リョウは黙って見送るしかなかった。

遠くなって行く。
なんとなく解る。あの男はもう極限流を欲してはいない。
私怨だけで対立し、家族をも巻き込むのは父と同じ破滅だ。
しかし何と言われようと、奴に奪われ、踏み躙られた者はあの男を“悪”と呼ぶだろう。
自分に止められる力があるならば、止めておきたいと思う。
それは図書館で落ちている本を拾うような、そんな当たり前の義務感だった。

だが朝日に消えて行くあの男はなぜか眩しくて、リョウは敵意を失っていた。
同時に、この男を止められるのは自分ではないと、何かそんな気がして、
ひとつの物語が終わったかのように、力なく膝を突き、息を吐いていた。
零れ落ちるように漏れたあの男の名も、どこか遠くに消えて行くようだった。

『ギース……』

西暦1980年、日本での事である。



There is no good or evil in this town
Only the powerful one survives


South town Story 餓狼伝説



「……ギース様」

サウスタウンの東側の一部に当たる人工島、
イーストアイランドにある巨大なタワーの一室に、その男は居た。

うたた寝をしていたわけではないが呆けていたのは確かで、
ギース――
ギース・ハワードは苦笑した。
手渡された紙には、キング・オブ・ザ・ファイターズの現在の進行状況が記されてある。

キング・オブ・ザ・ファイターズとは、組織の資金を潤わせるために、
2年前、ギースが開いた賭け格闘大会の名だ。
もっともそれは表向きの理由で、真実の理由は極限流空手を巻き込み、
その奥義を奪うことにあったのだが、表の成果も充分に果たしていた。

その結果、組織内におけるギースの立場は比類なき物となり、
さらに幹部の一人、ギースと深く対立していたMr.BIGが消息を絶ったことで、
もはや実質、ギースの動きを制限出来る者は組織内に存在しなかった。

組織にはまだギース、Mr.BIGの他に幹部が二人と、
そしてその上に組織を牛耳るボスが存在したのだが、
Mr.BIGの失踪は他の二人の幹部にしてみればギースの手による抹殺なのは明白で、
この若く、聡明でそして冷酷な男と対立するのは危険以外の何物でもないと、
未曾有のこの暗黒街で上り詰めて来た男達の勘が告げていたし、
ボスはまたこの金を生む有能な男を
どうにか利用してやろうという思い上がりを持っていた。

そこでギースにより提案された二回目を数えるキング・オブ・ザ・ファイターズは、
誰にも邪魔されることなく、いともあっさりと開催と相成ったのである。


何度見てもつまらない紙切れだ。ギースはそう思った。

金を求めた組織とは違い、ギースは強者を求めていた。
だがそこに第一回大会のような屈強な男達の名前はない。
前回から引き継いでの出場となるのはテムジン一人のみで、
しかもそのテムジンが圧倒的な強さで勝ち進んでいる。

もちろん極限流の名などあるはずがなく、
解っていながらもキング・オブ・ザ・ファイターズという名前の残り香が、
ギースに回想をさせた。

なんとも低レベルな、金を生むだけのお遊戯だ。
と、紙切れを机に棄てようとしたとき、見覚えのある名前が目に映った。
飛び入りで参加し、超人のような強さで参加選手を倒し続けている男がいる。

――キング・オブ・ザ・ファイターズは、
イーストアイランド中の至る所でファイトが行われる。

もともとサウスタウンでストリートファイト、乱暴に言えば“ケンカ”は珍しいことではない。
キング・オブ・ザ・ファイターズはただ正式な大会であるというだけの、
至ってシンプルなケンカ大会なのである。

腕に自信のある男達が所構わず闘い、
組織の運営委員の眼鏡にかなった男が本戦と言える、
ある程度、絞られた人数のトーナメント戦に進出出来る。
とにかく強そうな男を見つけて倒し続ければそれで参加者なのである。
参加登録などせずとも、強ければ参加者として認められる。
サウスタウン中が血に染まる暴力の祭典、それがKOFだった。

その男は知ってか知らずか、組織の子飼いのファイターを次々と撃破していた。
その強さは圧倒的で、記録に1分以上の試合はない。
組織が用意した八百長用のファイターは全てこの飛び入りの男に倒されていた。

知っていたのだろう。
あいつのやりそうなことだ。
前回の大会でも裏でコソコソと動き回っていたことは知っている。
不愉快極まりないが、やっと面白くなるとも思った。

「私が気に入った男はことごとく私に牙を剥くな」

声に出したつもりはなかったが、その自嘲気味な言葉は口から漏れ、
秘書を困惑させた。
彼にとってギースは上司であると同時に共にのし上がって来た同胞である。
こういう時のギース様は怖いと、彼、リッパーは知っていた。

自分が持って来た書類のシワの寄った部分には、『ジェフ・ボガード』という名前があった。



何度も何度もぶつかって来る帽子の子供に
やれやれ、どうしたものかと困惑しながら、ジェフは昔を思い出していた。

ジェフ・ボガードはタン・フー・ルーを総帥とする中国拳法、八極聖拳の門下生である。
八極聖拳とは気のコントロールを極意とした攻撃武術で、
奥義を極めた者は鋼の肉体を得、さらには離れた敵をも触れずして倒すという
一般人からしてみれば魔法としか思えない神秘を秘めていた。
しかしそれ故、門外不出とされ、歴史の表舞台へと上がることは決してない。

ジェフが武者修行の旅を終えタンの下へ帰って来ると、そこに見慣れない顔があった。
タンは弟子を取らないわけではないが、
門外不出の八極聖拳の門下へ入るということは半ば俗世を断つということと同義。

ジェフのようにタンに認められれば海外へ修行の旅にも出られようが、
それ以外にとっては言わば仙人のような生活を強いられる過酷な場所である。
何の娯楽もなく、ただ拳と精神を鍛えるだけの日々。
門下入りにはそれ相応の覚悟がいる。
それ故、孤児以外で新たに弟子が増えるのは滅多とあることではなかった。

見れば美しい金髪をなびかせた若い男である。
23だというその輝く長髪すら飲み込むような綺麗な顔をした男が、
何を思ってこの場へ出家して来たのかジェフは疑問を持たざるを得なかった。

だがその疑問はすぐに氷解した。

――眼だ。

整った顔立ちには不釣合いなほど眼が、狂眼と言って良い鈍い輝きを放っていた。

この街、サウスタウンでは珍しい物ではない。
死体にしゃぶりつく痩せ犬のような気味の悪い眼を持った男などごまんと居るだろう。
だがその男の眼はそれと似ているようで違った。

狼だ、とジェフは一瞬思った。
それも飢えている。どうしようもなく渇いている。
飲み込まれそうな深さと、絶対的な拒絶を持っていた。
一言で言えば、邪悪。

ぬくもりに爪を立て、災いを全て詰め込んだようなどこまでも深く暗い瞳。
男の名は、ギース・ハワードと言った。

ギースは常々タンからこの門下の師範代、
ジェフ・ボガードの話を聞かされていたのだろう。
ジェフは帰ってくるや否や、すぐさま手合わせを申し込まれた。
タンもそれを止めはしない。
タンと目を合わせたジェフは師が何を言わんとしているのかを理解した。
止めなくてはならないのだ。この、呪われたような男を。


――勝負は一瞬だった。

最初にすれ違った瞬間に、ギースはもう致命的な打撃を受けていた。
闘いと無縁の世界に生きる人間ならば、一生忘れられない音になっただろう。
手合わせを見守る他の門下生達も呼吸すら忘れ、
前のめりに倒れるギースを口を開けたまま眺めていた。

最初に時間を取り戻した、道場で一番若い少年が治療箱を手に
ギースの名を呼びながら顔面蒼白で駆け寄ると、道場は嵐のように騒がしくなった。


予定通りだった。
一切の容赦なく一撃で決めるつもりだった。
この男の眼をこれ以上見ていたくないという、無意識の恐怖心がジェフを焦らせていた。
そのまま振り返らず、帰還の報告をすませようとタンの元へ歩む。

が、厳しいままのタンの眼と、背後に響いた荒々しい轟音がジェフを振り返らせた。
クスリや包帯が飛び散っていた。
年若い門下生が一人、ピクリともせずに壁にもたれている。
激突した壁には亀裂が走っていた。

ハァッ…… ハァッ……


獣のように息を吐きながら立ち上がるギースの眼に、
ジェフは今度は、ハッキリと、恐怖を自覚した。


――クラウザー

あの男と、同じ眼だ。
だから、怖いんだ。
あの狂気を内在した空虚な眼が気持ち悪い。

怖い。コワイ。怖い。コワイ。
気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
キモチワルイ キモチワルイ キモチワルイ キモチ ワルイ……!!

―――――……

ジェフはまだ起き上がりきらないギースに、気の波動を浴びせていた。
道場の床を軋ませながら伝う、闘気の波。
八極聖拳門下と言えどもそうそう簡単に使える技ではない、気の外部放出。
ジェフ・ボガードの本気の技のひとつ、パワーウェイブだった。


今度は全く動かないギースを見て、ジェフは、
――どうかしてると、思った。

武者修行の旅に出て数年、
いつからギースがタンに師事しているのかは知らないが、
自分からしてみれば素人同然の男だ。

別室へ運ばれるギースに目をやることも出来ず、ただ俯いて、荒い呼吸を整えていた。



後日、ジェフはギースを見舞いに行ったが、
ギースは口も開かず、ただ殺気を纏わせてジェフを道場へ誘った。

体格は格闘家としては普通といったところか。
ジェフと比べれば少々線は細いが、決して小さくはない。
先の試合での恐怖心などは何もないのか、音を上げて飛び掛って来るギース。
そしてその度に彼は、何度も、何度も、何度も転ばされ血反吐を吐いた。
だが白い顔を赤、青の原色に染めながらも、ギースは止まることなく向かって来た。

本当にこの男は呪われている、とジェフは思った。
クラウザーに似ていると思ったが、拳を交えているうちにそれも違うと感じた。
狂気的なのには違いないが、ギースの眼には何かが映っている。
クラウザーという男に感じた、何も映さない瞳の嫌悪感は感じなくなっていた。
何かに取り憑かれ、呪いを瞳に宿しながら貪欲に強さを求めている。

なるほど、タン先生がこの男を弟子に迎えた理由が解った。
この男は放っておけば、やはり力を求めて何かしらの武術を得ていただろう。
そして憑かれた呪いにそのまま取り潰され、多くの災いをばら撒く。
周囲の人間にも、そして自分にも。

ならばここで呪いを解いてやらねばならないのだ。

ギースに気を纏ったトドメの拳、バーンナックルを打ち付けて、
ジェフはこの男を救うのが八極聖拳という、拳の道なのだと思った。



帽子の子供はまた体当たりを浴びせて来た。
なかなかに強い。
予想していなかった大きさの衝撃に、ジェフは軽くグラついてしまった。
子供はチャンスと思ったのだろう。
一気に、自慢なのだろうか、右の拳を握り締めて飛び上がり、
自分の倍ほどもあるジェフの顔面を目指して腕を振り回していた。

そんな子供の夢を打ち砕くように、ジェフの払われた腕は少年を弾き飛ばした。
吹き飛んだ先で目に入った食料を大事そうに両腕で抱き包んで整え、
帽子の少年はまたつたないファイティングポーズを取り、
口を真一文字に結んで向かって来た。

――まるであいつのようだな。

ジェフも苦笑を浮かべながら、軽くファイティングポーズを取った。



なぜこんなことになってしまったのか、テリーという7才の少年には解らなかった。

成功率100%。自分は盗みの天才なのだと有頂天になっていた。
もっとも器用に店から物を盗み出すのが得意というわけではなく、
例え見つかってもその年に見合わぬ脚力で逃げおおせることも容易かったし、
掴まったとしても大人を打ち負かすくらいの腕力と、気骨を持っていたが故の結果だ。
むしろ手つきは罪悪を自覚するようにたどたどしく、途中で見つかることもしばしばだった。

その日、テリーはまだ完全に陽が落ちていない、
いつもより早い時間に雑貨店へ足を運んでいた。
背伸びをしながら目的の物を探し、その缶を見つけると
小さなジャンバーの内側に限界まで仕舞い込んで、わき目も振らずに思い切り走った。

誰かに見つかったような気がするが、そんなことは関係ない。
自分が走ればついて来れる大人はいないのだ。
少年はただ走れば良かった。

が、裏路地に駆け込んだところで、何かに襟元を掴まれる衝撃を感じた。
テリーには何が起こったのか解らない。
砂袋に穴が空いたように全て零れ落ちる戦利品を見て泣きそうな思いになった。
同時に何か人間に見つかり、自分は今こうして宙に浮いているのだなと思うと、
どうしても許せない怒りが込み上げて来た。

「てめぇぇ!!」

力の限り暴れてなんとか自由を取り戻したテリーは、振り返って振り絞るように吠えた。
そこには大人がいた。

ぶっとばす。ぶっとばしてやる。
こんなに腹がたったのは初めてだ。
目の前に映る鼻の下に汚いヒゲをたくわえたこの大人を
力いっぱい殴って、それから缶を拾って帰る。

目的は初めからはっきりとしていたから、行動に移すのも早かった。
しっかりと握り締めた右拳を大人の鼻にめり込ませる。
そうすれば大人は血を流して泣きながら逃げて行くんだ。
テリーは軽く飛び上がって男の顔面へと自慢の拳を飛ばした。

当たった!
当たったが、何かパチンという気の抜けたような音がした。
手だ。テリーは男の掌を殴っていた。安っぽいグローブの感触。
何だ?とテリーが疑問を抱く前に身体は男に軽く弾き飛ばされ、
放置されていた黒いゴミ袋の中で座っていた。

「盗みは良くないな、少年。きちんと返して来なさい」

言い放たれた言葉をきょとんと聞いていたテリーだったが、
またふつふつと怒りが沸いてきた。
一番大嫌いな奇麗事だ。
そんなことを言える人間が幸せそうに生きている現実が憎くて堪らない。
そんなことを言えるということはそいつは幸せな人間なんだ。
幸せそうな顔をして説教を言う人間はオレ達の敵だ。

テリーはカッとなってまた男に殴りかかっていた。



――何度、繰り返したのだろう。

自分は身体中が痛いのに、この大人にはまだ一発もパンチが当たっていない。
なぜだろう?なぜこんなことになってしまったのだろうか?
突っかかる度に、視界がグローブに覆われる。もう匂いまで覚えてしまった。
盗みが悪い事なのは知っているし、やっちゃいけないことだとも確かに知っている。
でも仕方ない。仕方のないことじゃないか……

「……ないじゃないかぁぁ!!」

再度、弾き飛ばされたテリーは今度はなかなか起き上がらず、
歯を食い縛って鼻で泣いていた。

さぁもういいだろう、
言い聞かせるようにそう言って、男は綺麗に並べられた缶詰に手を伸ばした。
ふと、その全てがスープの缶であることに気付き、
なんでもないことだが一瞬それに目を奪われた。

「さわるなぁぁぁ!!」

知覚したときにはもう拳が眼前に迫っていた。
今度は確かな手応えがテリーの拳に残った。
だが余韻に浸るような穏やかさは今のテリーにはなく、涙で充血し、
血走った眼で、よろめく男の領域から気でも違ったかのように缶を取り戻していた。

男が視線を少年へ戻すと、それが何になるのか。
少年は意味も考えずにただひとつの理由でそうしているのだろう。
彼はスープの缶の前で両手を広げ、恋人でも守るかのようにキッと男を睨んでいた。

この大人に勝てないことは理解してしまった。
自分を殺してスープを奪うくらいわけはないだろう。
ここで両手を広げていては殺してくださいと言っているようなものだ。

だがボロボロのテリーにはもう、そうすることしか出来なかった。



なぜ、スープばかりを?

ジェフ・ボガードはそんなことを考えていた。
そんなに飢えているのなら、もっと腹の太る物を盗めば良い。
肉でも魚でも、もっと食べたい物はたくさんあるはずだ。

頬に手を当ててみる。
軽く歯がグラついているのが解った。
とても子供のパンチじゃない。

体格はなかなかに良いし、
帽子を失い、露わになった金髪は、あいつのように綺麗だ。
そしてなによりこれだけのパワーを持っている。
そんな物では腹は太らないだろう。

なぜか、そんな些細なことが気になった。

長い時間、こちらが呆けているとさすがに少年の心も折れて来たようで、
鼻をすすりながら何事か小声で呻いているのに気付いた。

アンディ

ジェフの耳にはそう聞こえた。

「……アンディ?」

咄嗟に聞き返していた。
恥ずかしく思ったのか、少年の眼は再び凛と張り詰め、

「オレの、オレの弟だ! 病気で泣いてるから、このスープがいるんだ!」

口からは喚くような怒声が帰って来た。

――そうか、この少年は弟のためにスープを盗み出したのか。

自分が作った少年の傷を見て、彼のその壮絶な闘志を思い出す。

「わかったらのけよ!アンディが死んじまうんだー!!」

再びタックルを浴びせ、そのまま両の拳を交互に、
ジェフの腹へと叩き付けるまだ年端も行かぬ少年。

ジェフは戸惑ったような表情を浮かべた後、
彼の首筋を軽く打ち、昏倒させるとスープの缶を拾い上げ、
落ちていた少年の帽子の中にスープと、薬が買えるだけの金を詰めて立ち去ろうとした。

だが信じられないことに、意識があるのかないのか、
子供はスープを逃がすまいとジェフの足にしがみ付いていたのだ。



気がつけばテリーはこのジェフという大人の腕に抱きかかえられ、
もぞもぞと口を動かし、弟と住んでいる空き地の場所を案内していた。
疲労からか極度に眠たかったが、舌を噛んで意識を保った。
今、頼れる人間はこの大人しかいない。
よほど悔しかったはずだが、そのときはただアンディのことしか考えられなかった。

速えぇ……と、テリーは虚ろに思った。
テリー自慢の足もジェフの前では形無しだ。
これならすぐにアンディへスープを届けることが出来ると、
その逞しい腕の中で頼もしく思った。
ジェフの手を覆った、今、自分を支えている、
痛みと共に匂いまで鼻に刻まれた古ぼけたグローブが、今は何よりも頼もしかった。

テリーとアンディの住まいは、今や一階しか存在しない、
止むことなくネズミがわななく、破棄されたビルの残骸だった。
そこに土管やコンクリートの破片が集められ、家の形を模して並べられている。
ネズミの声に嫌な予感がする。
カサカサと動く物体は粗末な家を、家とも言えない瓦礫の集落を、
より一層、過酷にイメージさせた。

ジェフが一瞬、足を止め最悪の予感に駆られていると、
どこに力が残っていたのかテリーはジェフの腕から降り、
その場所を指差して走り出そうとした。
と、ジェフが腕を伸ばすまでもなく、グラリと歪む世界。

もう限界だった。
最後に少年の口から漏れた弟の名とその深い想いは、ジェフの胸に強烈に焼き付いた。



次にテリーが目を覚ました場所は、ジェフ・ボガードのアパートだった。

アンディは幸いただの風邪で、スープと、ジェフの買って来た薬を飲み、
暖かい布団で眠っていたら一週間と経たずに元気になった。

元気と言ってもこの子はテリーとは違っておとなしく、長い金髪は人形のように綺麗で、
きちんと風呂で磨いてやったら女の子のようなかわいらしさだった。
アンディもすぐにジェフに懐き、何かあっては父さん、父さんとくっ付いて来た。

反面、テリーは馴れ初めのいざこざで素直になれないのか、
アンディを取られたようで悔しいのか、ジェフに用があるときはいつも目を合わせず、
口を尖らせておっさん、おっさんと呼んでいた。
ジェフはそんなテリーもまた微笑ましくて、愛らしかった。

いつの間にか3人は、家族になっていた。


聞けばこの二人の兄弟は本当の兄弟ではなく、今までは孤児院にいたという。
しかしその孤児院が“悪い奴ら”に焼き払われ、再び孤独になってしまったらしい。
その事件ならジェフも新聞で見たことがあった。
もっともそこでは孤児院側のミスによる火事、ということになっていたが。

悪い奴ら――

予感のように、あの男の顔が浮かぶ。

もう半年ほど前のことだ。
八極聖拳、門外不出の禁を破り、あろう事か犯罪組織の殺し屋をしていたギースは
タン・フー・ルーの怒りを買い、即座に破門となっていた。

この一件からジェフはタンの敷地を離れ、
この街、サウスタウンの裏へ耳を張り巡らせるようになった。

今やギース・ハワードと言えば裏の世界で確かな権勢を持つ名だ。
24才という若さにありながら、その武道の腕前、頭脳、そして野心は
組織の中にあって別格とも言える才覚を誇り、
ついこの間までただの用心棒だったとは思えないほどの、
異例の早さで幹部候補にまで上り詰めていた。

まさか、ギースが。
手柄欲しさに悪魔に身を落としたとも、考えられない可能性ではない。
ふいに側にいたテリーの頭を撫でる。
テリーは何だ!?とばかりにジタバタと抵抗したが、
あの時のテリーの哀しい瞳を思い出し、ジェフは天井を見上げ、
ギースの顔を嘆くように思い出した。
抵抗をやめたテリーが、不思議そうにその様子を見ている。

ジェフ・ボガード29才、テリー・ボガード7才、アンディ・ボガード6才、
西暦1978年の初頭だった。



サウスタウンに燦然とそびえ立つタワーの中、
わざわざ作らせた日本風の一室でギースが精神統一をしている。
静かな正座から立ち上がり、貫手を打ち、
大地が震えるような踏み込みと共に裏拳を放つ。

周囲には、どこで集めて来たのか甲冑や幟など、日本の伝統工芸品で包まれている。
回し蹴りを打ち、地を踏みしめて気合を充実させると、
その瞳の奥に浮かび上がったのは宿敵、ジェフ・ボガードの姿だった。


本格的に格闘技を始めたのは1968年、15才の時だった。

母子家庭だったギースは、幼き日に流れ着いた
犯罪都市サウスタウンの中でも最も治安が壊れていると言って良い場所――
西、ポートタウンのダウンダウンで母を守るため、
亡き父のように強くなりたいと精力的にトレーニングに努めた。
貧しい生活だったが、僅かばかりの小遣いを貯め、ボクシングやカラテのジムに通った。

すぐに資金は尽き、結局ろくな指導は受けられなかったが、
それでも努力の賜物なのか、あるいは才能か、
ケンカとなれば正式な生徒でも打ち負かすほどの力を見せた。

だがそれはあくまでケンカレベルでの腕っ節に過ぎない。
本格的に格闘技を始めたと言えるのは、やはり忌々しい転機が訪れた15才からであろう。

すでに母を失い、身寄りをなくしていたギースにはますますお金がなかった。
そこでどうしても強くならねばならなかった彼は、大人でも音を上げるような
深夜労働をしながら昼はジムを覗いて同じように技術をコピーし、
それを疎ましく思った生徒や師範が出て来ると、
喜び勇んで盗んだ技の実験台として血祭りに上げ、そしてまた金を奪った。

ひとつのジムを倒したらまた次のジムへ――
ゲームのようにそれを繰り返し、ギースは格闘技を身に付けていった。
形としてはマーシャルアーツに近かっただろう。

だが着実に強くなって行く自分を実感しながらも、
この程度では目的には全く届かないと理解していたから、
ギースは常に焦燥感に囚われ、野犬のようにギラギラと荒れていた。


そんな時に思い出すのは決まってあの時の修羅――


母と逃げ落ちるようにサウスタウンに流れ着き、しばらく経った頃だったろうか。
まだ年幼いギースは仲間を引き連れ、ダウンタウンから軽く東に下った、
ポートチャイナタウンまで冒険の旅に出たことがあった。

友達は嫌がったし後で母にも怒られたが、
ケンカが強く頼り甲斐のあるギースは彼らにとって心酔できる兄貴分だったし、
やはり子供達にとって“冒険”という物はとても魅力的だったのだ。

とはいえ何もチャイナタウンに行こうと決めていたわけではない。
何となくフラフラと面白そうな場所を目指して進んでいると、
煌びやかで賑やかで、異国のような雰囲気を放つチャイナタウンは
冒険の目的地としては最適だったのだろう。自然とそこへ辿り着いていた。

その時はそのまま帰り、そして母にこっぴどく叱られたわけだが、
ギースはあの異世界を思うと興奮して眠れなかった。
裕福な子供が遊園地へ連れて行って貰ったような興奮を、
ギースはそこに感じていたのだ。

だからギースが再び母の目を盗んでそこへ足を向けたのは、
当然の成り行きだったのかも知れない。


――だが、今日のその場所は違っていた。

賑やかだった耳の世界は無音に包まれ、
煌びやかだった目の世界は一部を除いてモノクロになったかのような、
止まった時間を感じた。
いや実際、止まっていたのかも知れない。
少なくともギースの世界は確実に止まっていた。

そこには、鬼がいたのだ。

後で空手着と知った服装をした鬼は、ペンキで塗ったように胸を朱く染めながら、
空気を恫喝する剛絶な正拳突きを放っていた。
風が切り裂かれ、遠く離れている自分の首筋に赤い線が走ったような気がした。

戦車でも持って来たかのような轟音が鳴り響いても、ギースは正気には戻れなかった。
そこに正気ではない世界が展開されているのだから、
当然と言えば当然だったかも知れない。
だが、彼の非現実の世界だったとしても、鬼の両の掌から放たれた
黄金に輝く美しい光の結晶は、まだ無垢な網膜に眩しく刻み込まれた。

足の震える鬼の恐ろしい形相と、眼に焼き付いた綺麗な宝石のような光。

ぼくはどちらをしんじればいいのだろう。

ギースはうっとりするように呆然と、細い首筋を撫でていた。



――気だ。

自分には東洋の、あの空手の鬼のような気を操る技が要る。
あの技があればこの呪いの鎖を断てる。
あの宝石で作った剣は何よりも鋭くて、怖いモノも、恐ろしいモノも、
憎いモノも苦しいモノも辛いモノも悲しいモノも狂気も正気も何もかも、
全て紙に刃を通すように切り裂き、バラバラにすることが出来る。

穴倉のような裏路地で何もかもを奪い、そして奪われた。
ドブネズミのようにゴミ貯めに打ち捨てられて、指さえも動かせないほどに痛めつけられ、
本当にゴミになってしまったかのように汚物の海に沈む。

このままゴミになれたらどんなに楽だろうか――

そんなとき、腐臭のする地面で寝返りを打ち、
仰向けに天を眺めると、決まって色のない大地を嘲笑うような、
どこまでも蒼明な――空が広がっていた。

あそこまで這い上がる。
それだけを思って吠えた。
飢えた狼のように、ただ腹の底から吠えた。

今は摩天楼に反射され、天までは届かない咆哮。
だが、あの力があれば、必ず――

必ず――


捜した。死にもの狂いであの日本の空手を捜した。
噂を聞けばどこまでも駆けたし、
半ば騙し取られると解っていながらも怪しい情報屋に必死に稼いだ金を渡した。

だがついに見つけ出した鬼の道場は、

神の怒りにでも触れたかのように、

腐敗し、

廃墟となっていた。



彼は絶望したのだろうか。
だとすれば一体、何度目の絶望だろうか。

とうに心は麻痺していた。
絶望を絶望と感じる隙間さえなかった。
この街に希望などはないと誰よりも知っていたが、少しでも似たような物を求めて、
ギースは何も考えずふらふらと、かつて鬼のいた、
ポートチャイナタウンへ足を運んでいた。

そこで知ったもうひとつの気を操る武術に、ギースは確かにそれを感じていたことだろう。



サウスタウンの中心、セントラルシティの西側に位置する、
この街で最も大きなチャイナタウンに、“八極聖拳”という拳法を伝承する一門がある。

1976年――
ギース・ハワードという狼は、この門下に居た。

もう4年ほどの歳月が流れている。
あの鬼のように、大砲のような気を放つことはまだ出来ないが、
気のコントロールは確かに満足の行く成果をギースに与えていた。

何のことはない。
今まで“気合”“殺気”を入れて放って来た攻撃にも、すでに“気”は入っていたのだ。
八極聖拳の極意とはそれを自在にコントロールすること。
飲み込みの早いギースが門下最強となるのにそう時間はかからなかった。
才能と、それ以上の執念が彼を稀代の天才にしていた。

だがどんなに強くなっても、 師、タン・フー・ルーは具体的に奥義を授けてはくれなかった。
彼があの鬼のように、闘気を放って破壊の悪魔となれることをギースは知っている。
タンは決して奥義を見せることはなかったが、
稀に見せる殺気と、その圧倒的なオーラはギースにあの修羅を思い起こさせた。

それだけにもどかしさは隠せず、早く奥義をとタンに詰め寄りたかった。
しかしなぜ自分に奥義が与えられないのか理由は解っていたので、
ギースは口を真一文字に結び、ジッと待った。

真の門下最強、武者修行の旅に出て久しいという、八極聖拳の師範代、
ジェフ・ボガードという男を――


そんなある日、ジェフ・ボガードは何の前触れもなく、ひょっこりとと言った具合に、
ズタ袋を背負って飄々と道場へ戻って来た。
ギースは最初、この男があのジェフ・ボガードだとは思いもしなかったが、
よほど人望があるのだろう。
自分には懐かない――
もっとも自ら遠ざけていた節はあるのだが、
他の門下生達が何かの祭りのようにワーワーと騒いでいた。

この男が、ジェフ・ボガード……

何の凄味も感じない、普通の男だとギースは思った。
その普通さが、幸せに見えた。
だが嫉妬したわけではない。
ただ、こんな幸せそうな男にこのオレが負けるはずはないと、自信を刻んでいた。

タンに許可を取り、すぐさま手合わせを挑む。
あのジェフとギースが真剣勝負を行うということで、
他の門下生達も、不謹慎なのだろうがショーを見るような思いで胸を高鳴らせていた。
立ち上がってギースの名を呼ぶ少年を、年長の門下生が苦笑しながら諌めている。

が、

勝負は一瞬だった。

この男を1秒でも早く倒そうと開始と同時に突っ込んで行ったが、
何をしたのかも、何をされたのかも解らずに、痛みを感じる暇もなく倒れ伏していた。


――――負けた。

負けたのか?

醜く吐き出される血反吐を見て、あの時の感覚と重なった。
あの掃き溜めのゴミクズを見るような侮辱的な瞳。
信じられないような速さと重さで打ち付けられた、深い屈辱と痛み……
そして――


ク…… ラ…… ウ……



――――――……

後はよく覚えていない。
何か光に包まれて、そのまま気を失ったことしか解らなかった。
あの光。明るくて、宝石のように綺麗な――


――宝石?

光が光と重なって、少年の日に戻る。
あの時の修羅の闘気が甦った。
もうそこに恐怖はない。

そうだ。ジェフは自分に奥義を使ったのだ。

思い出す。思い出せ。確かに味わったはずの、あの痛みを思い出さなくては。


オモイダセ オモイダセ オモイダセ オモイダセ

オモイダスノダ ギース・ハワード

ジカニ ウケトメタ シュラノ カンカクヲ



掻き毟った傷痕から、生々しい赤色が流れた。



その後、傷が落ち着いた頃を見計らいジェフが申し訳なさそうに現れたことは、
ギースにとっては願ってもない出来事だった。

興奮していた。いきり立っていた。
もう少しで宝石を手に入れられると思うと毒に侵されたように痛みを感じなかった。
もう一度、もう一度見れば確実に奥義をモノに出来る。
そのためにはこの強大な壁にヒビを入れなくてはならない。

ギースはジェフの強さを理解すると、敗北の痛みなどまるで感じなかった。
何も初めて勝負に負けたわけではない。
もっと凄惨な敗北を彼は体験していたし、
自分より強い男がいると知ったからこそ、潤わない強さへの執着を持てた。

ジェフは恐ろしく強いが、ギースもまた強い。
何か目指す物がなければ彼らは止まってしまっていたかも知れない。


――ゴガッ!

バーンナックルと言うらしい。
使い込まれたグローブから打ち出される熱した鉄のような拳に、
ギースは今までの痛みが全て圧し掛かって来たような、激痛と言うのも生やさしい、
発狂せんばかりの熱さに歯を食い縛って耐えていた。

口の中はすでに血だらけで言葉を発するにはそうとうの覚悟が要ったが、
そこから空気を漏らして笑っているのを、彼は痛みの中で、夢心地に自覚した。


宝石が、確かに光ったのだ。


その光る拳は砲弾となって襲い掛かることはなかったが、
ギースの眼の中で確かに広がり、あの輝きと重なった。

これが 修羅のみが持つ ホウセキ

ギースは三度見たそれぞれ別種の波動をイメージし、
今、目の前で見たままに、利き腕の左に闘気を蓄積、圧縮し、
光る掌を呆けたように見つめた後、ジェフの方を向き直った。

瞼が腫れ、ほとんど視界はないに等しかったが、
ジェフの驚く顔を一目見たいと、ギースは芸を覚えた子供のような感情で重い眼を見開き、
満足のいく表情を堪能した。

もっとも、ジェフが驚愕したのはギースが気を発動できたからではなく、
その圧倒的な闘気の密度、凄まじいまでの気の大きさが、
現時点の彼の実力から考えて、有り得ないレベルに達していたからだったのだが。

ギースの左手が地面をなぞるが如く低空から、アッパーカットのように振り上げられる。
ファンタジーのように魔法が使えればこういう映像になるのだろうか。

ザァ――――……

風が騒いだ。
刹那、光の波は大地を奔り、風を友にでもしたかのように空気を滑ると、
男のシルエットを飲み込んでいた。

ゴオオオオォォォ……!!


――やがて一瞬の静寂。

道場は暴風に見舞われたように散々な状況になっている。
だが、腹部に痛みを感じ、嗚咽を漏らしながら太い腕の中に倒れたのは、
暴風の中心に存在する、ギースの方だった。

なるほど、この男、本当に強い。

どうやって躱したのかは知らないが、もともと標的も見えていなかった両の瞳だ。
今日は、この男を驚かせるのは楽しいと知っただけで、収穫としよう。


ヤット ホウセキヲ ミツケタ



【2】

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