「貴方は本当に強いな。それだけ強ければ怖いものなどないだろう」

そんなことをギース・ハワードに言われたことがある。

手合わせをする度に革新的に強くなっている男がよく言う、とジェフは思ったが、
この4才年下の弟弟子は素直にそう思ったから口に出したのだろう。
あまり口数の多い男ではなかったが、彼とはこんな素朴な話を良くしていた。

女中が怖い、とジェフが答えると、
何日も服を着替えずにいては怒られている、
タンの敷地の女中とジェフの相性を知っているだけに、ギースは笑った。

ギースはそんなことで笑うようになっていた。

初めて会ったときの病んだ双眸が嘘のように――
とまでは行かないが、穏やかになったことは確かだ。
ここでの修行が心身を鍛え、同時に癒しているのだろうとジェフは思ったが、
実際はそのジェフの影響が大きかった。

ジェフは優しく、そして何よりも大らかだった。
二人が最も長く場を共にするのはやはり拳を合わせる道場での時間だが、
ギースに備わった長く闘えるだけの実力は、
ジェフの拳に大地のぬくもりを感じ取る余裕を生ませていた。

雄大な構えから発せられる、包み込むような闘気。
地面にしっかりと根を下ろした大木が持つ神聖さに、
拳と瞳に纏わせた殺気や憎しみは吸い取られ、
いつしかギースは忘れていた、心の暖まる空間を無自覚に思い出していた。

その後、八極聖拳の門下にはチン・シンザンという
ギースと同い年ながら小太りの青年が現れ、
そのジェフ、ギースにも劣らない才能で一気に台頭し、
闘神三兄弟とまで周囲に異名されたわけだが、
ギースはチンと口を聞くことはおろか面を合わせることさえほとんどなかった。

もっともこれはチンが門外不出の禁をあっさりと破って、
賭けストリートファイトで八百長までして金を稼いでいた為ほどなく破門となり、
実質の滞在期間が割り合い短い物だったからということもあるのだが。

それを差し引いてもジェフとギースは傍から見ている分には充分親友に見えたし、
ジェフの方は事実、そう思っていただろう。
タンもギースの変化を好ましく見て、ジェフは格闘家の模範となるべき男だと目を細めた。

二人はそんな間柄だったから、ジェフは思い出したくもない、
修行時代に出会った、恐ろしい少年のことをギースに語り出した。

――あの時、私は恐怖したのだ。



ジェフは5年もの間、海外を飛び回り、他流試合を行っていた。
八極聖拳を外の世界で見せてはならないのはその闘気を使った奥義の殺傷力が故、
争いに悪用されることを避けるためだ。

タンが八極聖拳の元となる中国拳法の総帥となったのは
第二次世界大戦終結後間もない、まだ世界に傷痕が色濃く残っていた時代だったし、
その後もまた朝鮮戦争、ベトナム戦争と争いが起こっており、
毎日のように戦災孤児や浮浪者がこのサウスタウンに逃げ落ちて来ている。
八極聖拳創始者であるタンがこの拳を堅く門外不出としているのも頷けるだろう。

だが逆に言えば闘気の放出という大技を使用しなければ、
邪な権力者の目に止まることも少ない。
もはや道場で渡り合える人間がいなくなっていたジェフはなんとかタンに折り合いを付け、
気功を使わないことを条件に武者修行の旅を許された。

どうにも燻っていたまだ若さの残る血気盛んなジェフは飛び跳ねて喜んだことだろう。
タンもジェフの心情を察したこともあって、
今のこの男ならば万一の間違いも起こるまいと彼を信用したのである。
二人は師弟、というより親子に近い関係だった。



旅は順風満帆そのものといった具合で、
それは良いのだが、ややもすると刺激の足りないものとなっていた。
広いアメリカを渡り歩き、タンの祖国、中国や、日本へも行った。

が、ジェフと渡り合える強者などなかなか存在しないし、
居たとして巡り合える確率は高くはない。
それでも飽きずに何年も放浪したのはその旅が単純に楽しかったからだろう。

ほどなくしてジェフはヨーロッパへ渡り、
結果、旅の間の大半をこの地で過ごしたことになる。

タンには言わなかったが、もともとこの旅を申し出た理由に、
噂に聞く『ヨーロッパに伝わる伝説の格闘技』という
ミステリーを追って見たいという思いがあったからだ。
ジェフ・ボガードは格闘技をやっていなければ、探検家などが天職になったことだろう。
彼はたいそう興味を惹かれて、期待と共にヨーロッパの地へ足を踏み入れた。

しかし何年も有力な情報は得られず、
結果、街単位で行われる小さな格闘大会を渡り歩くだけの退屈な毎日。

自嘲気味に笑い、もう諦めようかと絶望した頃に、
すでに常連と化していた食堂の女将から、不思議な武術を使う男が最近、
ある賭け試合に現れるという話を聞かされた。

――見付けた。

運命とは面白い物で、散々探し回った挙句に掴んだ情報はスカばかりで、
何の関係もないような人間から何気なく聞いた話が真実だったりする。
そんなありがちな罠をプラス思考に、
ジェフはシャワーを浴びて頭をスッキリとさせると、話に聞いた舞台へ足早に向かった。


目的地は意外にも近かったが、
夕方だということを差し引いても暗い街だとジェフは感じた。
まるでサウスタウンのようだと自分の生まれ故郷を思い出す。
だが刺青をした男に案内された地下闘技場では、
外の薄暗さが嘘のように銀色の金網がライトに照らされ、眩しく反射していた。
鳴り止まない歓声。
こういう場所にはヒーローがいるものだ。

ジェフは確信した。
伝説の格闘技の使い手が、今リングにいる。



「まぁまぁ、もうそろそろだよー」

ジェフ・ボガードはいつになったら現れる?
そう問われて、この闘技場を仕切っている小太りの中年男性ははぐらかすように答えた。

この地下闘技場を切り盛りし出してからもう10年以上経つが、
ヒーローがこの場所に現れたのはほんの一週間ほど前の話だ。
唐突に現れた40代後半くらいの小柄な東洋人は
ここで一番のファイターを一撃で倒し、賭けを滅茶苦茶にしてくれた。
そのあまりにもあっけない結果に、やれ八百長だ、東洋人は武器を使っているなどと
あらぬ妄言を吹聴され、それはもう迷惑した。

だが強いファイターが現れたことは彼にとっては金が降って来たようなものだった。
自分の商才には自信を持っていたから、なんとかこの東洋人、
聞けば日本人だというこの男を懐柔しようと雑音を吹き流し、それだけを考えていた。

去って行くヒーローをどうにかして引き止めようと話を聞いたところ、
彼は謎の格闘技だか幻の格闘技だか、何かそんな物を探しているらしい。
しかしここにそんな格闘技はなかったから、とりあえず噂に聞いた強い男の名前を、
界隈の格闘大会をことごとく制覇しているらしい、
“ジェフ・ボガード”という名前を教えてやった。

その際、少々の嘘を交え、ジェフはこの地下闘技場にも現れると言ってしまったことから、
先の質問に、この場所を取り仕切っている男はうろたえてしまったというわけだ。

この日本人の名は、不知火半蔵と言った。



半蔵は焦っていた。

飛騨に不知火の里という、400年の歴史を持つ忍術を伝承する一族の集落がある。
その武術の名は不知火流忍術と言い、それは日本に古来より伝わる骨法を、
狭い場所で闘うことが多かった忍のために、
より接近戦で威力を発揮するよう改良した鋭敏な体術と、
思うままに操れる、“不知火の焔”と呼ばれる炎の忍術を組み合わせた、
闇に息づく変幻自在の暗殺術だった。

だが戦国の世に生まれた暗殺拳も時代が機械戦争に近づくにつれ風化し、
今やこの拳を使え得るのはわずか数名のみ。
焔を纏える者は半蔵を含めても5人に満たず、
とうとう護身術として外へ門戸を開こうという動きさえあった。

そんな中にあって、不知火一族傑出の天才と言われた不知火半蔵は、
口惜しい思いを持っていた。

時代が我が流派を消滅させる前に、なんとかこの拳の強さを証明したい。

それは何十年も修行の日々を過ごして来た男の意地と、
いち格闘家としての素直な欲望だった。

もう時間がない。
すでに半蔵は若くはなかった。
不知火流忍術正統後継者の半蔵は有能な弟子を5人持ってはいたが、
それが自分を超えられる存在かとなると懐疑的と言わざるを得ない。

不知火流の俊敏な体術や奇襲的な忍術には並外れた瞬発力が要る。
それは年齢と共にどうしても失われて行く、最たる物だった。
里を離れ、闘いの場へ踏み出すには今しかないのだ。

半蔵は焦っていた。
まだ不知火流が生きているうちに、最強の男をこの手で倒す。

かろうじて残っている忍の情報網から得た最強の格闘家は、
遠くヨーロッパに、伝説的な、謎の格闘技の使い手として存在しているらしい。
それを知ってしまったからには、想いはもう止められなかった。


最強の男を求め、行く先々で様々な武術を倒しながら続ける武者修行の旅は、
半蔵にとって不知火流の強さを確認するに充分すぎる内容だった。
だがその満足感も一時の物に過ぎず、
伝説の格闘技への道が遠いことを次第に理解して行くとそれは再び焦りに変わった。
なにしろ時間がないのだ。ヨーロッパは広すぎる。

表へも裏へも、半蔵は顔を出した。
その場所で一番強い男を瞬時に叩き伏せ、また次の場所へ向かう。
まるで駄目だ。
伝説の格闘技どころかろくに強い男さえいない。

諦めという弱気に心が折れそうになった時、その男と出会った。



何という動きだ。
ジェフ・ボガードは感嘆していた。
闘技者を拘束するはずの金網が、その男の足場となっていた。
相手の大男も弱いわけではない。
八極聖拳の門下にもそうそういない実力を持っているはずだ。

だが動きが鈍い。
いや相手が速すぎるのか。

一瞬で間合いに入られた対戦相手の男は
首筋への掌打一撃で電池が切れたように動きを止め、地面に倒れ伏していた。

王国の御前試合のように湧く、お世辞にも綺麗とは言えないカビ臭い地下闘技場。
その強さから賭けは全く成立していなかったろうが、
それでもこのヒーローを見にやって来る客の落とすお金は大きかった。
支配人の男はウハウハだ。


――と、歓声がざわめきに変わる。

上がっていた。

この闘技場のルールなど解らないし、乱入は認められないのかも知れない。
トーナメントでやっている可能性もあるだろう。
思ったより整備された闘技場のようだ。
ケンカをふっかけるような真似は非難を浴びるかも知れない。

そんなことを考えないでもなかったが、
血の沸き立つ衝動を感じたジェフは、
倒れた大男を運び出すために開け放たれた金網の扉を、
まるで自宅の玄関であるかのように悠々と潜り、リングへ上がっていた。

あれが、伝説の格闘技だ。

「強いな、あんた」

右手、左手と、愛用のグローブをギュッと締める。
言うと黙って眼を見られたジェフは、
この背の低い東洋人に上から睨み下ろされたような感覚を感じた。
身震いする。
武者震いだ。

リング下では小太りの男が慌てふためいて動き回っていたが、
観衆はこの異常事態を歓迎していた。
張り裂けんばかりのヤジと歓声が響く。

互いに認識し、そして構えた。



ふっ!

先に仕掛けたのは意外にも半蔵の方だった。
身を屈めているにも関わらず信じ難いスピードで迫ってくる男に、
先の一撃を見ていたからだろうか、ジェフの防衛本能は咄嗟に働き、体を横へ飛ばす。

が、それでもまだ目の前にいた半蔵にジェフが再度驚いたときには、
もう刃物のような掌打と異様な角度から繰り出される脚打が浴びせられていた。
その右足が大地を蹴る度に目の前に半蔵が現れる。

ガガガガ……!
止まる間のない掌脚の雨に打たれながらも僅かに急所を外しつつ、
ジェフは苦痛の汗を噛み殺して脱出の機を計っていた。
さらに繰り出された首を刈るような半蔵の蹴りをジェフは首をすぼめて躱し
軸足を軽く打つと、相手も呼吸を整えたかったのか、
なんとか間合いを取ることに成功した。

ワアアアアアア――!!

大歓声。


――強い。

接近戦ではまるで勝ち目がない。
異様としか形容出来ないモーションでありながら正確でそして速い。

ジェフほどの達人でも一度や二度見ただけでは到底見切ることは出来なかった。
いや手足で防御することすら難しい。

日本刀で斬られたような肩口の傷をなぞりながら、ジェフは笑った。


ヘヘ……

そんな声が聞こえただろうか。
必殺の連撃を躱しながら反撃まで打たれ、半蔵は動揺していた。
海外へ出て随分になるが、こんな男は今まで存在しなかった。

精悍な若者、といった印象を半蔵は持った。

長髪とまではいかないが、無造作に髪を垂らし、
目元や首筋まで茶色がかった黒髪が汗で張り付いている。
格好もTシャツに色のないGパンと、好意的に見ればラフだ。不精ヒゲも目につく。

ともすれば浮浪者と思われても仕方のないようななりをしていたが、
その情熱的な瞳、顔つきが、男を精悍な好青年に見せていた。

そして何より、強い。
ジェフ・ボガードは不知火半蔵にとって、生まれて初めての強敵だった。

その男が笑っている。
こんなに不安なことはない。
だが不知火流忍術正統後継者としての誇りが半蔵の動揺を一瞬で鎮めた。

ダッ!
身を屈め右足に力を込め、もう一度踏み込む。
相手が何者であろうとこのスピードには対応出来ないはずだった。
現につい先程も相手のこの青年は全く反応出来ずに間合いを取られている。

それだけに今、目の前で空を切った低空から打ち出されたアッパーが、
半蔵には驚愕だった。

カウンターを狙っていたジェフは「あちゃー」と心の中で声に出した。
これはとんだ隙を作ってしまったと反省したときには当然、
もう滑るように踏み込んで来た半蔵の肘が胸板に突き刺さっていた。

が、浅い。インパクトの瞬間、本能的にそれを捕まえた。
“妙な繋ぎ”とジェフは思った忍服の胸ぐらを両手で掴み上げると宙に浮かせ、
そのまま逆方向の地面に力任せに叩き付けた。

すぐに飛び跳ねて起きた半蔵をジェフは逃がさない。
蹴りの間合いを感覚で確認すると半蔵の頭部へ重いハイキックを放ち、
グラついたところで思い切り振りかぶったパンチを浴びせた。

もうケンカだ。
と、ジェフ・ボガードは思っていた。

もともと孤児で、ありていに言えばグレてしまい、
生まれ持った腕力を持て余し、ケンカに明け暮れていたところを
タン・フー・ルーに出会い、諌められて門下に入った。
年はまだ15にも満たなかった、そんな昔の話だ。

掟と誓いにより、八極聖拳の呼吸法すら使えないのならば、
自分には生まれ持った自己流のケンカ殺法しかない。
今使える八極聖拳の基本の型だけで倒せるほど目の前の相手は安くないのだ。

ジェフは好奇心とは別に、もう一度野獣となって闘える相手を求めて、
伝説の格闘技を追っていたのだと今更ながら自覚した。
そしてそれを最後に、自分は尊敬する師父のように大地に殉教しようと決めた。

この目の前の強い男に、俺の過去を捧げよう。


そこからは両者の側から歓声が上がる一進一退の攻防だった。
正面から行ってはまた合わせられると踏んだ半蔵は金網を使い、
別の動物のように側面を走ってジェフに飛び掛かった。
一方のジェフも必殺の打撃を浴びながらも、重い拳を豪快に振り抜き、
振りとは比例しない非常識なスピードでの一撃を、半蔵のガードの上から叩き込む。

ウェイトのない半蔵は玩具のように吹き飛んだが、
空中で体制を整え、四方を囲む金網に足を付き、反動を付けてまた飛び技を仕掛けた。
森の木々を相手に何十年と繰り返してきた忍の奇襲動作だ。

間合いに入れない半蔵と、動きを捉えられないジェフ。

こう着状態に入ったところで半蔵が口を開いた。

「やるな、青年。名は何と言う?」

戦場で口を開くなど、暗殺拳の伝承者のすることではない。
それは解っていたが、殺してしまうかも知れない最後の技を出す前に、
この男の名が知りたかった。

「ジェフ・ボガード。あんたは?」

まるで友達と話をするように話したこの男の名に、半蔵はなるほど、と思った。
この荒々しいケンカファイトの男が伝説の格闘技者だとは到底思えなかったが、
こんなに楽しい闘いは初めてだった。

だが自分の拳は暗殺拳。
死の付き纏う拳を振るうに、強者を生かして倒すなどという選択肢は無い。

「すまんが…… 忍は己の名を語らぬものでな!」

瞬間、光った。

気功を使うのか!?
驚いたジェフだったが、すぐに違うと解った。
これは自分もよく知っている――炎だ。

轟ォォ……!!

目の前の男が燃えていた。
いや、全身から火を放っているだけで、この男は燃えてはいないのか。
リングの外からは耳をつんざくような男の歓声と、女の悲鳴が聞こえた。

どんなカラクリなのかと考える前に、ジェフは間抜けのように凄いと思った。
伝説となる格闘技なのだから、
いくらかの超常現象くらいは起こすだろうと達観していたのか。
ジェフはにやけた口でグローブを噛み、頭を振ってそれを後方に投げ捨てると、
ゴツゴツとした硬そうな両手を剥き出しに、リズムを取りながら構えた。

半蔵は轟々と燃え盛る炎の中で、肘を突き立てて構えていた。
これこそが不知火流の戦士が奥義継承の証として身に纏う、不知火の焔、
そして煉獄の威を誇る、流派の究極奥義だった。
炎の中の男の口は何かを叫んでいたのかも知れないが、
火の勢いがただただ凄くて、何を言っているのか聞き取れなかった。

ジェフを焼き尽くさんと燃え盛る炎を衣に纏いながら、
先程までと全く変わらぬ神速で、半蔵はジェフの心臓を狙う。
やはり人間にも、炎は深層心理の奥で恐怖の対象として焼きついているものだ。
今度は止めたくても止めることなど出来ないだろう。
カウンターを狙うなどもっての外だ。
ジェフ・ボガードは必ず逃げる。

だが、逃がさない。
半蔵にとっては最初にそうしたように、貫くように地を蹴って瞬時に方向を変え、
回避不能の追い打ちをかけることなど容易かった。
そしてそれが、持ち前の瞬発力を最大限利用した、
半蔵の最も得意とする技法でもあったのだ。


しかし次の瞬間、半蔵は、何をやっているんだ、こいつは?と、
不思議な思いでジェフの顔を見上げていた。

「全く一本気な殺気だ! どこを狙うかバレバレだぜ!」

半蔵の視界には炎で歪みながらも口を動かすジェフ・ボガードの顔が、
心臓を撃ち貫いたはずの肘の先には分厚い皮の、ジェフの重なった両手があった。

暗殺拳ゆえに裏目に出たのか、
確かに半蔵は今まで急所しか狙わず、そして急所を的確に突いていた。
ただ力任せに暴れていたように見えたジェフだが、
一撃で致命傷となるそれを確実に外し続けていたのだ。

最後に狙って来る場所は、ひとつしか無かった。

だが、この炎の中である。
受け止めるなどという選択肢が有り得ただろうか。
そんなことを踏まえれば呆けたように隙を作ってしまった半蔵も、
あながち甘いと責めきれまい。
ジェフ・ボガードが、半蔵にとって初めての強敵だったことが油断を生んだ。

「熱い拳はお気に入りなんだ! 生憎今は、燃料切れだがなぁー!!」

唸るような音を上げる炎の中でも、その右拳の音はハッキリと観客の耳に届いただろう。
ジェフは自分の腹部辺りにある半蔵の顔を、
熱した拳でボディーブローを打つように振り抜いていた。
吹き飛んで痙攣し、命を失う炎。

小太りの支配人に頭からかけられた水が勝利のファンファーレだった。



「不知火半蔵だ」

さすがに内功だけでは炎の侵入を防ぎきれなかったようで、
ジェフは医務室で支配人にミイラ男のように包帯をグルグルと巻かれていた。
顔まで真っ白に包まれているのだが、不満気な表情をしているのは態度で解る。

そこに先程の対戦相手が現れて、笑って名を名乗ったので、
こんな手で悪いなぁ、と思いながらもジェフは包帯越しに彼と握手をした。

当たり前なのかも知れないが、半蔵に火傷は一切ない。
不思議な術だ。
さすがは伝説の格闘技だとジェフは感心した。
捨て身でなければ勝てなかったと思えば、この包帯姿も勲章だろう。

「でもヨーロッパに伝わる伝説の格闘技を日本人が伝承しているとは思わなかったな」

少々会話を楽しんだ後にジェフから出たこの言葉を、
半蔵は年齢相応に見えない、キョトンとした表情で聞いていた。
その後、医務室が爆笑の渦に包まれたのは言うまでもないだろう。



ギース・ハワードはジェフの話を食い入るように聞いていた。
特に日本の忍術の話には大いに興味を惹かれたようで、
闘うまで忍者を知らなかったというジェフを軽く責めたりもした。

年はダブルスコアほどに違うのだが、
この後ジェフと半蔵は同じ目的を持つ仲間という以上に、
親友と呼べる存在になったらしい。
常に行動を共にし、何度も拳を交えて腕を磨いた。

その際、何度か負けてしまったと語るジェフをギースは信じたくなかったが、
そんな感情を持ってしまっている自分自身に苦笑し、
「忍者が相手なら仕方がない」と言って笑わせた。
もっとも、ギースはジェフと、
心の裏では自分を慰めるつもりで大真面目に言ったわけだが、
ジェフはギースの日本びいきを知っていたので、その一途さが可笑しかった。


だが和やかなムードもここまでで、話がついに伝説の格闘技の段階に入ると、
ジェフの表情は堅くなり、そしてそれ以上に、ギースの顔が、冷水でも被ったかのように、

――――青ざめていた。


何かに導かれるようだったとジェフは言った。
半蔵と二人で伝説の格闘技を探していると、見えない糸で引っ張られているように
情報が転がり込み、西ドイツへと辿り着いていた。

伝説の格闘技があるという場所は湖に囲まれた古城で、
いかにも何かありそうな雰囲気がジェフと半蔵に期待を抱かせる。

厳格な雰囲気に反して、城へは簡単に入ることが出来た。
ここにいる格闘家と手合わせ願いたいという場所に似つかわしくない野蛮な要望も、
出迎えに出て来た穏やかそうな老執事は、そんなに珍しいことでもないのだろうか、
慣れた手つきといった具合で二人を広間へと案内してくれた。

そこには――
やはりここは城なのだと改めて自覚させるように、
タイムスリップして来たかのような黄金の鎧に身を包んだ長身の男が、
息子と思われる、不器用に染め抜かれたピンク色の手袋をした、
音楽家の服装をした気品のある少年と立っていた。

自分達を待っていたのだろうか?

話の途中で疑問を持ったのか、
そんなことを言ったジェフの言葉はギースには間抜けとしか思えなかった。
そんなはずはない。
全ては仕組まれていたのだ。

オマエタチ ハ イケニエ ナンダ


半蔵が自分にやらせてくれと勢い良くせがんだ。
ジェフはここへ来て何を勝手な事を、と思ったが、
よくよく考えればどちらが闘うかなどこの場が訪れるまで全く考えていなかった、
自分の能天気さのほうが呆れた。
半蔵は初めから自分がやるつもりだったのだろう。全く頭が下がる。

「すまんな、ジェフ。私には、時間がないんだ」

そう言った半蔵の眼は真剣で、その顔つきは20代の青年のように見えた。
まだ若いじゃないか、と茶化そうと思ったジェフだったが、
それがまさしく、この男の最後の炎なのだと気付いた瞬間、
無言で後ろに下がることにした。

――ありがとう。

その言葉は呟くように小さかったが、友情を感謝するには充分だった。
だが、なぜかジェフにはその言葉が、遺言のように聞こえ、ハッとなった。

嫌な予感がする。
それは目の前の鎧の男が踵を返し、15、6の少年だけが残された瞬間、確信に変わった。

何だ、この少年の眼は。


いざ鎌倉と構えたところでいなくなってしまった対戦相手に半蔵は面くらい、
怒りを露わにした。

「どこへ行く! 私と闘うのではなかったのか!」

追おうとした視界の正面を少年が遮ったことでまさかの可能性に気付く。

「私はこの家の当主の子、ヴォルフガング・クラウザー・シュトロハイムと申します。
 是非、お相手を」

馬鹿にしているのかと半蔵はさらに激昂した。

何年も追い求め、やっと辿り着いた先でこの屈辱…… 耐え難い!

本来なら怒りに我を忘れる半蔵を止めていたはずのジェフは、
この少年の虚ろな瞳に呑まれ、抑揚のない声に背筋が凍り、
全く気配のなかった動きに声を失っていた。

馬鹿な。


――怖いのか?


止めるのが遅れた。
その闘いがいつ始まったのか気付く間もなく、
焔を纏った半蔵の右足は捻じ切れそうなほど、有り得ない形に醜く変わり果てていた。

連れて逃げなければ、殺される。
半蔵が殺されるイメージが、自分が殺されるイメージと重なった。

半蔵に肩を貸そうと駆け寄る。
半蔵は全く声を発していない。そればかりか立ち上がろうとしている。

無理だ。無理だ、半蔵。駄目だ。逃げよう。逃げるんだ。
俺達は夢を見ていたんだ。
伝説の格闘技などないし、今のこの瞬間も夢だ。
これからもそれに出会う夢を楽しく見続けよう。
それで良いだろう?半蔵。

尚もクラウザーに飛び掛かろうとする半蔵の肩をジェフは必死に押さえた。
最大限の力で肩を押さえる。押さえたい。
ここまで力を振り絞りたいと思ったことは今まで一度もなかったが、
それでも押さえているはずの肩が浮いたのだから、
半蔵の執念がそれほど凄まじかったのか、自分に力が入っていなかったのか。

いずれにしても次の瞬間、後ろから迫り、ジェフの顔の横を通り過ぎた手は、
半蔵の顔を粘土細工か何かであるかのように押し潰し、ヘコませていた。



――――意識が、遠くなった。


シュウウウウウゥゥゥ―――……

背中から青白い炎のような湯気が昇るのをクラウザーは見ただろう。
身体中が汗をかき、いつもより早い心臓のリズムをハッキリと聞きながらも
決して呼吸は乱さず、八極聖拳の呼吸法に即していることにジェフは自分で感心した。

何だ、俺はまだ闘えるじゃないか。

友を楽な姿勢に寝かせ立ち上がる。
振り返り、鬼神のような双眸で見つめたクラウザーの眼には、
やはり何も映っていないように見えた。

関係ない。
もう恐怖など感じなかった。

闘気が身体中に伝達し、鳥のような軽さで、肉食獣のような獰猛な拳が打ち出された。
弾け飛ぶ、まだ出来上がっていない少年の身体。
だが容赦などしなかった。
起き上がる前のクラウザーをさらに蹴り上げ、左の直拳で弾き飛ばすと、
闘気を纏った拳を一瞬で間合いを詰めて顔面に打ちつけた。

バーンナックル……!
自らそう名付けたジェフの必殺の拳だ。

さらに吹き飛んだクラウザーは壁に叩き付けられ、そのまま隅でへたり込んでいた。

それを確認するとジェフは呼吸を整え、八極聖拳、出勢の構えを取り直した。
尚も充実するジェフの闘気。
闘争本能に任せたケンカファイトに八極聖拳の型が融合する。
それがジェフ流の八極聖拳とも言える、ジェフ流喧嘩殺法の完成形だった。

だが起き上がったクラウザーの、丁寧に服の埃を払うという行動も異様だったが、
何よりもやはり、激痛の打撃を受けても尚、色のない瞳が、どこか狂っているようで、
ジェフに追い打ちを躊躇させた。

僅かばかりの時間が経過し、こめかみから汗がしたたり落ちて来る。
この疲労感は何だ。


ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ
ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ


突然、クラウザーが笑い出した。
壊れた人形のようだった。

ドッヂボールでもするかのようにサイドから振り払われた手は血のように赤く光り、
同時に何かがジェフの頭を掠めて後方の壁を音もなく貫通していた。

――気を、撃ち出した?

それだけではない。
確かに感じた気弾の異質な熱気と髪の焦げ臭さに、恐ろしい予感が脳裏を走った。

そう思った時にはもう第二弾が眼前に迫っていた。
なんとか転がって避ける。速い。まるで弾丸のようだ。

だが躱して安心する暇など与えられなかった。
すぐ第三射が襲ってくる。四射もだ。
未だ鳴り響く気味の悪い笑い声と共に気の弾丸は
シューティングゲームのように撃ち続けられた。

しかも、燃えているのだ。
轟々と燃え盛る炎はもう考えるまでもなく、

――不知火の焔。


馬鹿な!一度見ただけだぞ!?

あるいは伝説の格闘技は初めから焔を持っていたのか?
そんな、今考えるにはどうでもいい疑問が浮かんでは、
頭に響く猟奇的な笑い声に掻き消された。
いや、声を消すためにそんな呑気な考え事をしたかったのか。


「が、あぁ……!!」

ついに喰らった。
熱い。
吐気と共に闘気を発散させ、なんとか炎を消す。
外功、内巧を突き抜けて肉が焼けていた。

燃え盛る魔法使いのファイアーボール。
この場から逃げ出す魔法があるならば即座に唱えたかった。


ふいに笑いが止まった。

――飽きた。

何も映さない瞳でそんな表情をしていた。


瞬間、クラウザーは消えた。
いや走っていた。だが首がない。

気がつけばクラウザーの顔は眼下にあった。
地面スレスレまで身を屈めた神速の踏み込み。
これも、半蔵の――



止まった時間の中で、

ジェフは首だけになり、

かろうじて残る、どこにあるのかも解らない意識の中、

分断された、

自分の四肢を眺めていた――



ドンッ!

衝撃は思い掛けない側面から感じた。
呻くように自分の名を呼ばれ、
覆い被さっている半蔵の顔を直視したところでやっと正気に戻った。

「気が付いていたのか……」

「お前よりは正気だ」

標的を失ったクラウザーは勢いを止められず、30mほど先で背を向けている。
半蔵のカットがなければ自分は幻の中で見たような惨死体となっていたのだろう。
友の機転に感謝の言葉をかけようと思ったが、その右足を見て息が止まった。

皮膚を突き抜け、骨が露出している。

こんな足で自分を……
思えば半蔵は苦痛を全く口に出さない。
忍は腕を斬り落とされても悲鳴を上げぬものと言っていたのは当の半蔵だが、
逆の立場だとして自分に同じ真似が出来るだろうか?

死と隣り合わせのサウスタウンで生きて来たジェフだったが、
こと、生き死にの覚悟という意味では半蔵の足下にも及ばなかった。
そう思った。
そう思ったら、冷静になれた。


――逃げなければ。


この親友を連れてなんとしてでもこの悪魔の城から脱出しなければならない。
こんなところで死ぬわけにはいかないし、それ以上に死なせるわけにはいかない。

再び顎を地に擦り付けるような低空で、
オリジナル以上とも思えるスピードの、空気の切り裂かれる音が迫って来た。
半蔵に肩を貸して立っているジェフにはそれを止める手立ては全くないように見えた。

――それがクラウザーの油断になった。

無防備の姿に惑わされ、一点に集められた闘気を見切り損なった。


「パワーウェイブ!!」


闘気を吐き出すように搾り出されたその音は耳を引き裂き、
クイックモーションで地を拳で打ち、放たれた力の波は大地を泳ぐ鮫が如く奔り、
高速で踏み込むクラウザーの顔面に正面から喰い付いた。


ぎゃあああああああああああああああああああ――――っ!!


甲高い絶叫が響いた。
その取り乱し、嘆くように叫ぶ姿が一番少年を年相応に見せた。
両の掌が朱で染め抜かれる。

額から噴き出す血を押さえながら眼を血走らせて叫ぶクラウザーを尻目に、
ジェフはもう意識のない半蔵を抱え、全力で駆け出していた。

「許さん! 貴様ら許さんぞ!!」

やっと言葉を紡いだ声はどす黒い怨恨が込められ、すでに少年の物ではなくなっていた。
死霊の雄叫びだ。俺達は吸血鬼の屋敷に来てしまった。
そんな呆然とした思考に囚われながら、ジェフは入り口の老執事を突き飛ばし、
悪魔の棲む城から逃げ出した。



病院のベッドで、半蔵は虚空を見つめていた。
その右足はもう、戦士として生きられる物ではない。
ことさら彼の格闘術においては右足はまさに命と呼べる部品だった。

ジェフはガックリと肩を落とした。
何を謝っているのか「すまん」と呟くジェフを滑稽に思いながらも、
半蔵はそのやさしさに笑顔で応えた。

満足、していたのだ。

何はともあれ、自分は伝説の格闘技と相まみえ、そして敗れた。
片鱗さえ見れない力の差がそこには確かにあったが、
それは互いに命を賭けた死合いだったはずだ。
足を一本奪われた程度、代価としては安すぎる。

生きてこの場で寝ていることが恥とさえ思えたが、
命懸けで救い出してくれた親友を思うとやはり感謝の気持ちを持った。
ただ悔やまれるのは相手を子供と嘗めてしまったことか。

だが今はそんな未熟さも遠い昔の出来事のように――
今はただ、自分の闘いの旅が終わった余韻に満たされていた。

何だろう?自分はそんなに疲れていたのだろうか……?

そんな穏やかな笑顔を、だがジェフはやはり気落ちした表情で軽く見ると、
また肩を落とし、俯いた。

もう、半蔵は闘えない。
もう一緒に旅を続けることも、組手をすることも出来ないのだ。
自分がもっと強かったら……
そう思うと、いつ以来だろうか。

――ジェフは泣いていた。


その涙を見て半蔵は、ああ、そうかと思った。
自分はもうとっくに満たされていたのだ。

もともと流派がどうだとか、不知火流の最強を――
などと、そんな物は言い訳に過ぎなかった。
ただ、鍛えた技を全力で振るっても受け止めてくれる、そんな友が欲しかったのだ。

もう満たされていた。
あの金網の城で出会った時に、自分はもう――

「泣くな、ジェフ。男の涙はみっともないぞ」

驚くほどやさしい声が、ジェフの耳に神々しく響いた。

慟哭を噛み締め、ジェフは半身に起きた半蔵の胸で、声を殺して泣いた。
半蔵はそんなジェフを子供のように思い、
いつかこいつより強い弟子を育て上げてやろうと、
そんな意地の悪いことを考えていた。


その後、ジェフは約一年間ほど山に篭り、そしてやっと帰国する。
その前に日本の不知火の里に立ち寄ったジェフは、
菩薩のような表情で2才になる孫娘をあやしている半蔵に、
「大地の気に触れて来た」と、これまた聖人のような表情で言ったという。


だがそんな呑気な後日談など、ギースの耳にはもう入っていなかった。

冷や汗すらかけないほど全身の水分が凍りついていた。
息が出来ない。接着剤でも飲んだかのように唇が張り付いて開けない。
もし開けたならば、そこからは酸臭のする胃液が零れ落ちていただろう。
歯はガチガチと鳴り、足は小刻みに震えている。
目眩を感じる以前に、目の前が漆黒に覆われていた。


ヴォルフガング・クラウザーというその名、

この身に呪いを刻み込んだ男――

ワスレルハズモナイ



【3】

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