何を呑気に遊んでいるんだ? ギース。
気付け。この男のぬくもりがお前を削っている。
お前は憎しみを忘れたら腑抜けたように干からびて、
マリア・ハワードのようになってしまうんだ。

お前は友情なんて持っていないはずだ。
お前にそんな感情はない。
忘れたのではなくて、無くしてしまったんだ。

でも要らないから捨てただけだろ?
何も気に病むことじゃない。
お前に大地なんて必要ない。
お前に相応しい、マグマが噴き出す地底の底に帰るんだ。

さぁ、もう一度、飢えろ――



ギースの様子がおかしいことに気付くと、ジェフは話をやめた。

楽しい話でなかったのは違いないが、
「何でもない」と言うギースの疲弊ぶりはそれだけでは説明出来ないものだった。
その背中があまりにも弱々しく見えたので、遠ざかって行く肩を掴んで名前を呼んでいた。
だが先程までとはまるで違う、初めて会った時のようなどす黒く窪んだ眼が、
無言の拒絶を語っていた。

ギース、どうした――


ギースはおぼつかない足取りで与えられた自室に戻っていた。
綺麗に整頓された部屋だ。
木の机があり、難しそうな本がたくさん置かれてある。
学校には行けなかったが読み書きはマリアに厳しく教えられていたから、
ここでの勉強ははかどった。

と、少年が水を持って来る。
何かと自分に纏わりつく、身寄りのない13才の少年だ。道場で一番若い。
とはいえ少年はあまり身体が丈夫ではなかったから、
治療箱を持ってギース達の稽古をただ見ていることの方が多かった。

別に聞いたわけではないが、ギースと同じくらいの兄がいたらしい。
そのせいかギースを兄のように慕っている。
ギースはまるで興味がなかったので鬱陶しいとも思わなかった。
本当の兄は今はどこにいるのか解らないらしい。
弟を捨てたのだな、とギースはその時こともなげに思った。

少年はギースの様子がおかしいとジェフに聞くと、すぐに水を用意していた。
極度に水分を失っていたギースはそれを貪るように飲んだ。多少は楽だ。
だが少年がいつものように兄とギースを重ね、独り言のように話をし出すと、
また気持ちが悪くなった。


――弟は、キモチワルイ。


ドクン

気が付くと少年の首に手をかけていた。
ギースが自分に触れることはほとんどなかったので、
意味の解らない少年は、キョトンとしていたがどこか嬉しそうにしている。

我に返った。


すぐさま少年を部屋から追い出した。


綺麗に整頓された部屋が、薄暗い拷問部屋のように見えた。

ぬるま湯はオレを駄目にする。
飢えていなければ、オレの形は無くなってしまう。



翌日、ギースは昼間の内に長髪にハサミを入れ首筋の辺りまで切ると、
夜には西のポートタウンまで下り、繁華街に出ていた。

漆黒に染まる世界に逆らうように光る街を、ゆっくりと歩く。
色目を使ってくる女が目障りだったので、煌びやかな大通りから顔を背け、
蟻の巣のような暗く細い裏路地に目をやると、そこでは懐かしい、
暴力の臭いがした。

奪い、奪われ、ドブネズミのように生臭い地面の臭いを嗅ぎながら、
天にそびえ立つ摩天楼に吠えていた日々を思い出す。
浅はかな安らぎに浸っていた自分を自覚すると、どうしようもなく笑えた。

夢が覚める怖さを彼は知っていた。
どうせ壊れてしまう夢ならば、せめて自分の手で殺してやる。

ポートタウンは黒い思い出の地だ。
お前の墓には相応しかろう。


ギースはまず今までに貯めていた金の大半を使い、
一番上等な店で一番上等なスーツを買った。
支給されたチャイナ服を脱ぎスーツに袖を通すと、
金色に輝く長髪はより一層映え、整った顔立ちと共に貴族のような気品が漂った。

そのくすんだ繁華街では浮いた存在となったギースに、
遊女も近寄ることさえ出来なかった。


目的の高級飲食街へ進む――

先程までとは違い、落ち着いた雰囲気がある。
だがその落ち着きも力で押さえ付けた物だとギースは知っていた。
少しでも畳を剥がせば、薄汚い裏路地と何の変わりもない。
この街は、夜にこそ輝く。

ギースはそこでも、一番輝いている店を探した。
レストランが目に止まる。
L'AMORと言うらしい。
そのホテルのように豪華な店は周りとは隔絶された世界を作り出していた。
ポートタウンで最高のレストランだろう。

ドアボーイの服装チェックを潜り抜け、手触りの良い丸いテーブルの席についた。
こんなところに来るのは初めてだったが、誰もそうは見えなかっただろう。
その堂々とした態度は良家の御曹司のようだった。
白く広い帽子を被った淑女達がヒソヒソと噂話をしている。

それだけに注文を取りに来たボーイに言い放った一言は、
周囲の空気を吹き飛ばし、そして緊張させた。

「金はない。ここのバンサーに会わせて貰おう」

金がないのは本当だ。
元々財産があるわけでもないし、それはもうスーツ代で使った。
だがそんなことは嘘でも本当でも店には関係がなかった。
バンサー、用心棒に会わせろとはどういうことだろうか。この優男が。何を言っている。

ボーイが戸惑っているとギースはさらに挑発的に続けた。

「このままただ飯を食わせるのか、バンサーを連れてくるのか、選べ」

その態度が腹の立つほどふてぶてしかったので、
ボーイはここのバンサーが危険な男であることを知りながら、
彼を呼んで来ることを決めた。

この男、死んだな。
それも綺麗な死体にはなれない。


ボーイが呼んで来るまでもなく、その男はヌッと現れていた。
それが大好きな仕事だ。
怪しくなった空気を見てもうスタンバイしていた。

「お客様、少々よろしいでしょうか?」

腹に響く低い声で外に呼ばれた。
あのシュトロハイムの城にも薄汚い空間はあったのだ。
こんなレストランに、しかもサウスタウンのレストランに処刑場がないはずがない。

自分より背の高い、大柄な男の背中を追って辿り着いた先は、
あの自分がドブネズミだった頃によく這い付くばっていた裏路地に似ていた。
いやまだドブネズミか。
だが、これから這い上がる。
摩天楼に邪魔されぬよう、あの頂上に立って悪魔に吠えよう。

バンサーの男はレストランの上品な制服を着てはいるが、
いかにも暗黒街の男といった風貌をしていた。
身体はゴツく、大きかったし、頭は威圧的なスキンヘッド。
目元は黒のサングラスで隠している。

丁寧な物腰はレストランで身に付けたのだろうか?
ずいぶん自然だったが、まるで似合っていないことは確かだ。

さて、始めるか――



この優男が何を考えているのかは全くもって解らなかったし、興味もなかった。

組織にスカウトされ、このレストランに就任した当初は
不潔な格好で店に入ろうとする阿呆や、腕力に訴えて食い逃げを行おうとする馬鹿者が
週に2、3人は現れたものだが、その全てを痛めつけて
二度とまともな生活の出来ない身体にしてやると次第にその数も減り、
今ではL'AMORでだけは無茶をやっちゃいけねぇと、
周辺のチンピラが絶えず口に出すような惨状になっていた。

これでは仕事がない。
何より、自分は暴力がないと満たされないのだ。
“警察より頼りになる無法者”
そんな異名をオーナーに付けられたこの男の名は、リッパーと言った。

すっかり治安の良くなったL'AMORだが、「俺は正義の味方になったつもりはねぇ」
たまにはこういった馬鹿を痛めつけないことには精神衛生上良くない。
そんなことを普通に考えているリッパーにとって、
この頭のおかしい優男はストレスを解消してくれる体の良い人形だった。

「それをしたままで良いのか?」

突然、サングラスを指差し、優男がそんなことを言った。
酔っている風でもない、こいつは本当の馬鹿なのだろう。
そう考えるとこれから行う残酷ショーも、罪悪感を感じずに楽しめると思った。
実際、初めからそんなものはなかったりするのだが。

とりあえず、高そうなスーツの胸倉を掴んで思い切り殴ってみよう。
金持ちのお坊ちゃんだ。さぞかし上品な音がするのだろう。

「関係――」

――ねぇ!と答えながら胸倉を掴んだはずだった。

が、その瞬間なぜか足が弾けて尻餅を付いていた。
それに気が付くともう目の前を優男の足が通り過ぎており、
サングラスが吹き飛んでどこかに消えた。

「関係ないのなら余計なことをした」

そう言って襟元を正して余裕を見せる優男に、リッパーは本気になった。



ただの生贄のつもりだったが、露わになったバンサーの眼にギースは軽く唸った。
ただの野犬かと思ったら、しっかりと狼の眼をしている。

「すまんな、ただの馬鹿だと思っていた」

リッパーはそう言って尻をはたくと2、3歩下がって間合いを取り、
懐から刃渡り10cmほどの折り畳み式コンバットナイフを取り出した。

このリッパーという名前は実は本名ではない。
19世紀末のイギリスで起こった、刃物を使った狂気の連続殺人の犯人、
通称切り裂きジャック、ジャック・ザ・リッパーの名から、
異名としていつの間にか付けられていた名だ。

とはいえそもそも親の顔すら知らない彼に本名などはなかったから、
今では本名のようなものだ。
そしてその名前が表す通り、彼がチンピラ達に異常に恐れられている理由は、
その華麗かつ残虐なナイフ術にあった。

リッパーがナイフを抜いたからには、五体満足で居られる人間はいない。
例え運良く命を取り止めても、失ってしまった肉に絶望するだけだろう。

リッパーが軽くナイフを捌いて威嚇するようにデモンストレーションを行うと、
ギースは今度は大きく唸った。
ナイフを持った男と闘ったことは何度もあったが、
ナイフがこんなにも綺麗に舞う物だとは知らなかった。

月の光が反射し、リッパーのナイフは気高い牙のように見えた。

行くぜ。

そんな声が聞こえただろうか、リッパーは派手に地面を蹴って踏み込むと、
まるで手足のようにナイフを操り、あらゆる角度からギースの急所を狙った。
手は2本しかなく、ナイフに至っては1本しかないはずなのだが、
それが5本にも6本にも見える。

それを八極聖拳の歩法を使って、円を取りながら躱すギース。
ナイフが当たらないのは驚愕だったが、
その足の運びを見てこの優男は何かの武術をやっているのだと解った。

習い事とはお坊ちゃまらしい。
この街のダウンタウンで育ち、我流でナイフの扱いを覚えたリッパーは
それに焦るでもなく、むしろ反骨心を煽られた。
人を刻むのは料理と同じで、少々歯応えがあったほうが美味いもんだ。
レストランに居ついているからだろうか、そんな事を思った。

リッパーのナイフは止むことなく軌跡を描き、ギースに反撃の暇を与えず、
ついには回り込めない壁際まで追い詰めることに成功した。
もう逃げ場はない。

「取った!」

思わず口に出して突き出すナイフは優男の首筋へ――

が、

紙一重、とはまさにこういうことを言うのだろう。
ギースはその首を動かし、ナイフを躱していた。首筋との距離は1mmにも満たない。
リッパーは驚く間もなく、その首を傾ける動作と連動して放たれた右フックを頬に喰らい、
バットでフルスイングされたかのようにきりもみして吹っ飛んでいた。

「折角買ったスーツを切られてはかなわんのでな。少々見切らせて貰った」

その勝利宣言はもう、リッパーの耳には届いていなかった。



リッパーの首根っこを掴んで戻って来た優男の要求は、
自分をこの店のバンサーとして雇うことだった。
料理長も兼任するオーナーは大急ぎで厨房から現れると、
なんとも乱暴なこの要求に当然のように驚いた。

だがこの街ではそれがルールだ。
強い者が生き、弱い者が死ぬ。すなわち弱肉強食。

オーナーがギースを雇わない理由はどこにもなかった。
それにギースはボーイとしても充分使える容姿をしていたので、一石二鳥に思えた。
ちなみにリッパー君には無理、
と言った太ったオーナーの言葉にナイフを構える意識の戻ったリッパー。

リッパーは話の内容を理解すると、再びギースを殺そうと考えた。
だが、オーナーはギースをバンサーとして雇っても
別にリッパーを解雇する気はなかったし、そもそもリッパーは組織から借りた男だ。
勝手に解雇などしたら店どころか自分の命すら危うい。

「それに私はリッパー君を気に入っているからね」
そう言った割り合い良い付き合いをしているオーナーの言葉に毒気を抜かれ、
ひとまずは生かしておいてやろうとギースに寛大な判決を下した。


リッパーを倒した男がいる――

そんな噂は風となって界隈を走り、すぐに組織の使いがL'AMORにやって来た。
不名誉な噂に荒れていたリッパーも、使いが来ると青ざめた。
弱者には――死。
こいつらは自分を殺しに来たのか。

だが、そこでギースが言った、

「お前達などに用はない。もっと上の人間を連れて来い」

という有り得ない言葉でうやむやにされ、さらに青ざめることになるとは、
さすがのリッパーも思いもしなかった。

――この男は、本当に馬鹿だ。


妙な男だった。

その容姿から良いとこのお坊ちゃんだと思って疑いもしなかったが、
控え室ではテーブルマナーの本を読んでいたし、
そもそもお坊ちゃんがなぜバンサーなどになりたがる?
確かにこいつは強ぇが、理屈は全く通らねぇ。
食べ方を知らない高級料理も多いようで、なぜか自分が教えるハメになった。

とはいえ、ギースのことは大嫌いだったので、
いつか殺してやろうという炎は未だ消えずにずっと残っていた。
組織の概要を聞かれる度に、ビビらせてやろうと脚色を加えて教えてやった。


そんな時だった。

もう青ざめるなどという次元ではなかった。

死人のように顔色がなくなった。

このギース・ハワードという男には悪魔でも憑いているのか――


本当に、大幹部が来た。




サウスタウンの組織はただの犯罪組織ではない。

元々はただのチンピラの集団で、弱者からの略奪や、
縄張りを賭けた小競り合いを起こす害虫ばかりだったのだが、
ニューヨークからマフィアが進出して来るとその犯罪も高度となり、
麻薬売買や闇貿易が行われた。

そしてマフィアは多額の利益を得ると市長、警察署長を買収し、暴走。
チンピラ達もおこぼれに与ろうとこぞって媚びを売り、ますます規模が膨らんだ。

が、この時点でマフィアは腐敗した。
あまりにも多くの害虫を吸収しすぎ、無能の集団と成り下がったのである。
内部から食い散らされるニューヨークの犯罪組織。

完全に土着したよそ者のマフィアを今こそ排除すべく、
残されたチンピラの集団が組織となり牙を剥く。
それにチャイナタウンを牛耳るチャイニーズマフィアも加わり、完全な三つ巴となった。

街は、地獄と化した。


やがてそんな争いも三者共倒れし小康状態となった頃に、
この最悪の街に、ある男が仲間を引き連れて悪夢のベトナムから帰って来た。
元陸軍特殊部隊大佐と噂されるその男は、
戦場で身に付けた殺人術で瞬く間に害虫の群を纏め上げると、
それを兵士の軍団に変えた。

その軍団は組織と混ざり合い、土着したマフィア達と手を組んだ。
その男は内部から腐った枝を暴力で切り落とすと、
街で無法の限りを尽くしていた犯罪集団を軍隊へと変貌させた。

街を牛耳るその犯罪組織は、
言うなれば“サウスタウンという国の軍隊”なのである。


かくして組織はただのチンピラでは手の届かない戦闘集団となった。
やがて骨のあるチンピラがチームを築き、それがその男の眼鏡に適うと、
そこには必ず金と暴力が渦巻き、チームごと吸収される。
断れば、死だ。無能でも、死だ。

狼は生きて、豚は死ぬ。

かつて無条件で彼らを受け入れる害虫達の教会だった犯罪組織は、
恐ろしい殺人部隊となった。

ただのチンピラは細々と弱者を虐げて生き、
野望を持つチンピラは小競り合いを繰り返してチームを強化し、
あるいは組織へ喜んで帰属し、あるいは尚も牙を剥いて死んだ。

もはや絶対的な力を持った組織の人間は、
欲望のままに奪い、貪り、暴力の限りを尽くした。

サウスタウンの地獄は、まだ続く――


この街を変えた男は、Mr.BIGと呼ばれていた。




今、目の前に居る、両手の指に煌びやかな宝石をまとわり付かせた、
スキンヘッドにヒゲを蓄え、葉巻を咥えたサングラスの男が
なぜこんな場所に居るのか、リッパーは頭がおかしくなりそうだった。

その男のロングコートがなびき、特別に用意された一際豪華な席へと案内される。
引き連れた部下は3人程度。両肩には美女を侍らせている。

――Mr.BIGが来た。

店はざわめきさえ殺されたように、静まり返っていた。


まさかギースの言葉で?
そんな有り得ないことがリッパーの頭をよぎった。

あるはずがない。
確かに自分は少しは名の知れたバンサーだという自覚はある。
そして不本意ながらギースに敗れたのは事実で、それも組織に知れ渡っている。
その組織の使者をギースは足蹴にした。

再び組織の使い――もはや刺客か。
明日にでもそんな危険な男が自分とギースを殺しにやって来ることは覚悟していた。

だがまさか、あの男が。
武闘派中の武闘派、組織の幹部に座っているMr.BIGが、
なぜバンサーのいざこざ如きでこんなポートタウンにまで現れる理由がある?

考えられる可能性は、自分の知らないところで、
またギース・ハワードは何かをした。
そうだろう。
とんでもないことを平気な顔をしてやる男だ。そうに決まってる。

BIGに睨まれたら豚のように死ぬだけなのに――

奴は本物の馬鹿か!


と、ギースがいない。

どこだ!?

気が気でなかった。あの男は本当に何をやらかすのか解らない。
今は柱に括り付けてでも拘束しておくべき男だ。

そんなリッパーの思いを余所に、ギースは丁寧に、
BIGをボーイとして案内していた。
ギース・ハワードは常に最悪の上に立っている。そんなことを思った。

とにかく、


――最悪だ。



Mr.BIG――
サウスタウンの裏から表をも仕切る、横暴を極めた犯罪組織の幹部の一人。
だが実質はその上のボスまでも掌握する、暗黒の街の支配者だ。

その男は黒服の部下を背後に立たせ、両脇の美女の肩に手を回し、
リラックスしていながらも殴打するような暴力の気配を漂わせていた。

BIGは自分の周りには他に誰もいないかのような大きな態度で
美女との他愛のない会話を楽しみ、低く笑っていたが、
ボーイが持って来た水を口元まで運ぶと、その笑みは醜悪な、
豚を侮蔑する歪みに変わった。

「毒でも入ってるんじゃあるまいな? ヤングボーイ」

「いえ、当店にそのようなメニューはございません」

平然とそんな返答をしたこの若いボーイを目をすぼめて見る。
自分を前にしてこんな態度を取れる人間はこの街にはいない。
いや戦場にだっていなかった。

懐に手を這わす背後の部下を軽く手を上げて止め、BIGは口を続けた。

「ならその殺気は何だ? 俺を殺したくてうずうずしているように見える」

「貴方に会えて興奮しているのでしょう、Mr.BIG」

ほほう、なるほどこの男は馬鹿なのか。
俺をMr.BIGと知っていてこんな口を聞いている。

背後の部下から耳打ちをされる。
名の知れたバンサー、リッパーを倒した男。仲間を足蹴に大口を叩いた男。
気にも止めていなかったが、BIGもこの報告は聞いていた。

ああ、なるほどこの男か。
この店だったとはな――

「――ご注文は?」

ボーイは何事もなかったかのように仕事を続けようとしている。

「全部だ。この店にあるメニュー、全部持って来い」

意地悪く困らせるようにそう言ったのだが、
ボーイは「かしこまりました」と、何も驚いた様子を見せずに仕事を遂行した。
ホストみたいな綺麗な面しやがって。ふざけた野郎だ。

BIGは新しい葉巻を取り出すと、ガスバーナーのような激しいライターで火を点けた。
店の奥で大男と口論が行われている様子が見える。


しばらくして、料理が次々と運び込まれた。

BIGの席は店で一番大きいテーブルだが、
それでもとてもではないが全ての料理を置くことは出来ない。
L'AMORに存在する全てのボーイが狩り出される。総動員だ。

さらに時間が経つ。
ボーイの顔などBIGが覚えるはずもなかったのだが、
その男が現れると気配で解ってしまった。

「久しぶりだな、ヤングボーイ」

多少酔っていたのか、このイタズラ小僧に絡みたくなった。

「ギース・ハワードと申します。お見知りおきを」

「ボーイの名などどうでも良い」

自分の名に誇りを持っているようなそんな毅然とした態度に、BIGは苛立った。
名前などはいくらでも貼り返られる、シールのような物だ。
もちろんMr.BIGという名前は本名ではない。
そんな物はとうに忘れてしまった。
何の役にも立たない、粘着力を失ったシールに過ぎない。

BIGはこのふてぶてしい男を服従させてみたくなった。
その張り紙のような名前をひり剥がして醜い肉を露出させてやろう。

「少し頼みすぎてしまったようでな。どうにも我々だけでは食いきれん。
 ヤングボーイ、お前も手伝ってくれ」

BIGが向かいの席へ首で指図すると、ギースは逡巡する様子もなく、
さも当たり前のようにそこに座った。
オレとお前は対等だ。そんな風に言っているように見える。

それでありながら、

「それは光栄です。私も貴方に話があった」

こんなことを言う。

ふてぶてしい男だ。
背後の部下と、店の舞台裏が緊張しているのが解る。
BIGは無視してテーブルに並ぶ肉を食い千切った。

「……食わんのか?」

食事をする様子もなく、
ただ返答を待ってサングラス越しの自分の眼を見ているギースに、
ぶっきらぼうにそう聞いた。返事はどうでも良い。

「残念ながら、私はテーブルマナーを持っていませんので、
 貴方に不快感を与えてしまうかも知れない」

「テーブルマナーだと?
 そんな物は蛇の血をすすったこともない豚が使うものだ。
 美味い物は、ただこうやって喰えば良い」

機会を得て喜ぶように言い返し、BIGは再び乱暴に肉を食い千切った。
テーブルの上でも、Mr.BIGはその拠り所とする暴力を忘れない。

すると、

「同感です」

と答えたヤングボーイはその綺麗な顔からは想像出来ない乱暴な動作で、
BIGと同じように手元の肉を食い千切った。
BIGの動きが止まった。
美女がワオ、とおどけたリアクションを取っている。

面白い男だ、とBIGは初めて好意的な印象を持った。
話を聞いてみたくなった。

「私を組織の傘下に加えて頂きたい」

――なるほどな。

BIGは黙って背後の部下に目配せをすると、一枚の地図をギースに見せた。

「そこに行け」

入隊試験なのだと、ギースは思った。

元々は組織に飼われていると思われるバンサーを倒し、
そのまま名を上げ続けることで組織へと接触、内部へ入ろうと思っていたのだが、
リッパーが思いも寄らない大物だったことで順序は早まった。

だが自分を見にやって来た組織の使いがあまりにも粗悪な、
チンピラと変わりのないドブネズミだったのでギースはその分、落胆した。
計画が早まったかと思ったらこれだ。これではラチがあかない。
このドブネズミをくびり殺せばもっと上の男が現れるだろうか?

そんなことを期待し、思う様侮辱して叩き帰した。
その結果、今、組織の幹部との接触に成功している。
いや実際はそんな計画には全く成果がなくてただの偶然だったのかも知れないが、
あのドブネズミに下って無駄に牙を腐らせるよりは偶然の運命に感謝しよう。

私は、順調だ。



BIGが帰った後、リッパーはギースを連れ出し、いつかの処刑場へやって来ていた。
自分が切り裂いてきた人間達の怨恨の声が聞こえて落ち着く。
BIGに震えていたリッパーはそこにはもういなかった。

口を開く。

「地図を渡せ、ギース」

「何故だ? お前には必要のない物だろう」

良いから渡せ、と暴力に訴えても良かったのだが、仮にも寝食を共にした男だ。
死ぬ理由くらいは教えておいてやろうとリッパーは思った。

「とりあえず、その地図に記された場所にはお宝が埋まってるわけじゃあない」

その物言いに長い話が始まるとギースは予感したが、興味のない話ではない。
黙って聞くことにした。

「だがそいつは宝の地図にも成り得る、魔法の紙だ。
 お前はBIGに試された。
 その先には組織と対立する跳ね上がったチンピラ共がいるだろう」

リッパーも地元の有力者にその試験を与えられ、見事合格したからこそ今がある。

「今、組織の中で、俺の名前は豚と等価だ。俺の名前は豚小屋の中に居る。
 お前のおかげだ、ギース」

ギースは肩をすぼめ、喉の奥で笑っている。
リッパーも睨み付けるように笑う。
だがリッパーがサングラス越しに真剣な眼をすると、二人の笑いは止まった。

「言わなかったが―― 俺には弟分がいてな。9才だ。
 似合わねぇのは解ってるが、なんだか腐れ縁でそうなっちまった。
 そいつは玩具のガンを本物のように扱う。天才だ。
 本物のガンを握ったら、この世であいつに勝てる男はいねぇだろう」

そのために宝が要る。

――とびっきり高いガンを買ってやりたい。


そこで話の終わりを告げるように、リッパーはナイフを構えた。
刃渡りが以前の倍以上もある。
リッパーのナイフコレクションの中でも最高の一品だ。
その長い刃を眉間に引っ掛け、サングラスを後方に捨てる。

ギースはただ睨んでいる。

「前は髪の毛一本の差でお前に躱された。
 だがあの時、俺のナイフがもう後1mmでも長かったら…… そう考えたことはないか?」

ギースの眼を正面から見据えた後、今度はデモンストレーションもせずに、
「おお!」と息を吐き出して駆けた。

裂いて、突いて、振り下ろす!
いつもそうやってあらゆる角度から急所を狙い、敵をバラして来た。
一撃目は躱された。ニ撃目も奴は身体をズラして躱した。
だが、三撃目は――躱せん!!


――パシィ!

返り血を浴びるはずの視界には、渇いた音と共に、
月明かりを反射する、刃の煌きがあった。

日本で真剣白刃取りと言う、
両手を拝むように合わせて刃を挟み込み、無力化させる動作。
リッパーのナイフは木の棒でも折るかのように、女のような悲鳴を上げ叩き折られていた。

「あ、あ……」

言葉もなく膝を突くリッパー。
透き通るように響く、獲物だったはずの男の声――

「そんなナイフでは私は殺せん。
 ガンの一丁程度で死に急ぐ者はただのドブネズミだ。家畜にも劣る」

想いを踏み躙る、腸の煮え繰り返る言い草に、
獣のような形相でギースを見上げた。
だがそこで見たギースの眼はどこまでも鈍く輝いていて、
思考を飲み込まれた。

「私に従え、リッパー」

こいつは裕福なお坊ちゃんなんかじゃあない。
自分と、自分達と、全然変わらない、渇いた眼をしてやがる。

「お前はわずか一丁の銃のために死ぬような男ではない。
 そんな物は浴びるほどくれてやろう。お前には日本刀を与えてやる」

リッパーは、制服の懐から目の前に投げ捨てられた紙よりも、
去って行くギースの背中の方が煌びやかな宝のようで、まるで視線を離せないでいた。


呆然と、ただ呆然と――

裏路地に輝く、男の背中を眺めていた――




――MAC'S・BAR

BIGの地図に血のような赤い色で印が付けられている場所は、
セントラルシティの中心部にある、そんな名前のバーだった。
ガラの悪い男女と、黒くわななくたむろしたバイクがその店の危険さを証明している。
あくる日の早朝、そんな魔物の潜むバーに、リッパーは来ていた。

とはいえチンピラを狩るのは得意技だ。
ひとりふたり刻んでやればもう戦意を保てる奴はいない。
まだ朝の四時。徹夜で飲んでいるチンピラが一番疲労している時間だ。
こんな楽な仕事で充分な金が入る。

譲って貰ったギースには悪いが俺も組織じゃ少しは知れた名前持ちだ。
この任務が終わればお前に口利きくらいはしてやれるだろう。
もっとも、俺程度じゃ末席に置くのが精一杯だが、お前なら苦労なく這い上がれるさ。

この街は、力が全てだ。


男女の視線を無視して入り口の鉄の扉に近付くと至る所で壁が剥げていて、
無数の落書きを隠すように、それと同じだけ汚い張り紙がしてあった。
自分が勤める高級レストランとはえらい違いだ、とリッパーは思ったが、
この街ではL'AMORの方が場違いなのは重々知っている。

ダウンタウンの日々を思い出したように、
リッパーは必要以上に派手に、乱暴に鉄の扉を引いた。
その耳の割れる激しい音が戦いの狼煙だ。

中々広い店だ。
サングラスの群が一斉にリッパーに降り注ぐ。
そんなに闇が好きなのか、ほとんどが自分と同じ黒いサングラス。
黄色の髪、茶色の髪、黒い髪、その統一性とは裏腹に人種は雑多だった。

店員とおぼしき人間はいない。とっくに逃げたか?
勝手にカウンターに入って酒を飲んでいた男がわざわざ近寄って来た。
趣味の悪い、髑髏に稲妻が刺さったような刺青をしている。

「何だてめぇは?」

その瞬間、口は耳まで裂けていた。

「お客様には、“いらっしゃいませ”だ」

ガタッ!

男の声にならない声に、テーブルに足を乗せていた男達が一斉に起立した。
1、2、3…… 外の奴等を含めても10人ほどか。

楽勝だな、とリッパーは思った。
もちろん10人全て相手をする必要はない。
ほんの2、3人ばかり刻んでやったら、すぐにおとなしくなる。

「野郎、ぶっ殺せー!!」

怒声に踊らされるように向かって来る男の腕を躱しつつ、
目に入った髑髏に稲妻の刺青を切った。
さっきの男もしていたな。これがこいつらのシンボルか。
それがまたチンピラ達への燃料になった。

「ブラックキャッツをなめんじゃねぇよ!!」

そんな怒声が男からも女からも飛んだ。
こいつは宗教のようだな。
だがそんな夢はすぐに覚める。

三人一辺に襲って来た。
一人目のパンチを避ける。頬に刺青があったのでそこに刺した。
二人目は椅子を叩きつけて来た。避けられそうもなかったので頭で叩き壊す。
そのまま腹を蹴って吹き飛ばし、三人目には自信を持った頭突きをくれてやった。
そして、怯まず「このハゲがぁ!」と喚いたチンピラの頚動脈を断ち切った。

「知ってるか? スキンヘッドの手入れはお前達を刻むより難しいんだ」

派手に噴き出す血がチンピラの戦意を殺す。

終わりだ。



――そのはずだった。

だがこのブラックキャッツというチームのメンバーはまるで怯えることなく、
同じように向かって来てはリッパーの餌食になった。
女達でさえ悲鳴を上げない。そればかりか戦士達を鼓舞している。

何だ……?
仲間の死体が転がるこの店の有り様は地獄絵図だろう?

さすがに疲労がかさむ。
騒ぎに気付いた外の男達が入って来た。

まずいな、思ったより数が多い。
それにこの様子だと本当に全員を刻まにゃならん。

と、また向かって来たメンバーの腸に刃を立てる。
瞬間、男が水を吐くようにリッパーの顔面に血を吹いた。

しまった!

サングラスに血反吐がコビり付いて見えない。
ヒャヒャヒャヒャ!という男の断末魔の笑いが生きている耳に聞こえる。
本当に何なんだ、この男達は。背筋が寒い。

サングラスを外している隙に外から現れた黒いバンダナの男にアゴを蹴られ、
同じように現れた熊のように腕の太い男にラリアットで吹き飛ばされた。
口笛を吹いて盛り上がるブラックキャッツ。

殺せ!殺せ!殺せ!殺せ!


――こいつらは、ただのチンピラじゃない。

尻餅を付いたところを羽交い絞めに抱え起こされた。
正面からはナイフを持った男が走って来る。
もう全く余裕はなかった。
リッパーは走り寄って来た男に蹴りを喰らわせて止めると、
羽交い絞めにしている男を背負い投げに投げてぶち当てた。

だがその吹き飛んだ男の背中をジャンプ台に、
瞬時に飛び込んで来たバンダナの男の跳び蹴りが、
リッパーの鼻をナナメにへし砕いた。

「おぐぅ!」

続いて目の前に現れた腕の太い大男の、猪のような突進。
入り口の鉄に叩きつけられて血を吹いたリッパーの意識が向こう岸へ渡りかける。
左手にナイフを刺してとどまった。
鳴り止まない、狂信者達の歓声。

冗談じゃない。
Mr.BIGは入団テストとして地図を渡したんじゃねぇ……
奴はここでギースを殺すためにあの紙を渡したんだ……!

膝を突いた。腹に蹴りが刺さる。
思わず蹲った。

「こいつ、どうする? リーダーに差し出すか?」

バンダナの男が言った。

「こんなチンピラじゃあリーダーの玩具にもならんだろう」

腕の太い猪男だ。

チンピラ扱いか……
こんな連中に信仰されるリーダーとやらは一体どんな悪魔なんだ。
猪男に右手を踏み潰され、ナイフを奪われた。

「良いナイフじゃねぇかぁ。よく切れるはずだ」

油断――


「うがぁ!?」

リッパーは中腰のまま、血の流れる左手で懐から取り出した
2本目のナイフを猪男の足に突き刺した。
伊達にナイフをコレクションしてるわけじゃねぇ。
今度は奴等の嗚咽。

すぐに反応したバンダナの男の回し蹴りを躱し、
反対の潰れた右で殴り飛ばした。

「っぐ……!」


――チンピラか……

そうだな、俺は確かにチンピラなのかも知れねぇ。
ダウンタウンでもがいて這い出して来たつもりだったが、
ギースとこいつらのおかげで思い知った。俺は何も変わっちゃいねぇ。
こいつぁチンピラ同士のケンカだ。

だがな……!

「俺はドブネズミにはならんぞ! ギースゥ!!」

ナイフを左手に持ち、足を押さえる猪男の首筋を狙った。

だがそこまで――

ふらつく足と、血でぬかるむ手で突いたナイフは、ターゲットから遠く外れ、
猪のその太い腕で思い切りカウンターを貰った。

もう動けない。

死んだ、か――
すまん、ホッパー。

死を告げる風を頬に感じる。

好きにしろ。もう何も聞こえない。
鉄の冷たい感触も、もう感じない――



なのに、


「ずいぶんと早寝早起きなんだな、リッパー」



――健康なことだ。



そんな、あいつの声がした。

目を開ける。

猪が鼻から血を吹いて悶えている。
バンダナの男はテーブルの上で伸びておりピクリとも動かない。


背中にあった鉄の感触が、男のスーツの感触に変わっていることに気付いた。

「そんなところで寝られていては営業妨害だ。バンサーとして働かねばならん」

憎まれ口。

「てめぇ何しに来やがった…… ここは俺に譲ったんじゃ……」

「私はただ路地で紙切れを捨てただけだ。それ以上の理由はない」

減らず口。


この野郎…… ギース!!


リッパーは、足にありったけの力を込めると気力を振り絞って立ち上がった。

「本当に早起きだな」

「ベッドがうるさいんでな」

笑う力ももったいなかったが、笑えたのだから仕方がない。
二人が並んで立った頃には、こんなに居たのか、
後から来たのだろう、
入り口を挟んで中と外でさらに合わせて15人ほどの男達が獲物を囲んでいた。

黒人とモヒカン頭のメンバーが側に寄り、猪男も立ち上がる。
鼻血にも腹がたったが、立ち上がるときに響いた刺されたナイフの鈍痛が、
何よりも一番腹がたった。

「おっさんの方は俺がやる!」

そんな耳煩い声がバーに響き、
息巻きながらその場で暴れる猪の巻き添えに二人の男が伸びた。

「あいつはお前の相手をするらしい」
「ああ、失礼な話だ。俺はまだ花の23才だってのによ」
「……本当か?」
「同僚のファイルくらいは目を通しておいて貰いたいもんだな」
「お前は良い秘書になれそうだ」

ジィィ――
擦れるような音がして、リッパーはスーツの切れ端を顔も見ずに手渡された。
手に巻け、ということらしい。
見れば初めて会った時の、あの高そうなスーツだ。

おおおおおおお!

次に外が騒がしくなった。
開け放たれた入り口を境にしてリッパーが中、ギースを外を向き、背を合わせる。
多勢を相手にするには最高のポジションだ。
鉄パイプを持った男が外からギースを狙って振り下ろして来たが、
それよりも早くギースの裏拳が入り昏倒した。

外は何の心配も要らない。
俺はこの猪野郎をバラしてやりゃあ良いだけだ。

その安心感は、リッパーに最後の集中力を与えた。

「ぅがああああああ!!」

まさしく猪突猛進に、怒りに任せて突撃して来る大男。
リッパーも大きい方だが、この猪はそれよりさらに一回りも大きい。
だが自分が飛ばされれば背を合わせるギースも吹き飛び、
奴は狂った黒猫の群に殺される。

右手に歯でスーツの切れ端を巻き、突進を受ける前のカウンターに賭けた。
幸い足の傷が痛むのか、猪の勢いも最初に比べれば弱い。
今!
ギースの背から射し込む、目を覚ました朝日をナイフに焼き付け、
反射光を猪の眼に浴びせた。

「ぐぅ!」

目を瞑り、方向が微妙に狂う。勢いはさらに弱い。
取った!
リッパーは一歩だけナナメに踏み込み、
直線上から反れて向かって来る猪男の首筋を、すれ違い様に切り裂いた。

「ああ……? ああ…… ああああ――……!!」

猪の暴走は止まり、赤い鮮血が暴走する。
猪はよろよろと後退り、女達のいるテーブルを押し潰して倒れた。
ついに、女の悲鳴が響いた。


殺った――
全身の力が抜ける。

だがまだすぐ後ろでは死闘が続いている。
「ギース!」と声を出して振り返ると、いない。
ギースがいない。

まさか!?

動かない足を動かし、すするように走って外に出た。

するとそこでは、刺々しい武器の残骸と、
血の臭いのする男達がドーナツのように円を描き、ギースを中心にして倒れていた。

もう――終わったのか?

ギースは傷ひとつ負ってはいない。
自ら裂いたスーツの袖口が一番の傷だ。
強いとは思っていたが、ここまで別次元の強さだとは気付いていなかった。

だが――

何故この男はあっさりと入り口を離れて敵の中央で大立ち回りをしている?
背を合わせていた時の絶対の安心感を思い出して、リッパーは何か腹がたった。

「コンビネーションはきちんと取れ。組織に入ればいつまでも一匹狼は気取れん」

「必要ならば覚えるさ」

口の端を吊り上げた笑みで、この一匹狼は答えると、
リッパーの頭を狙い、中から出て来たアイスピックを握った最後の一人を蹴り抜き、
戦争を終わらせた。

…………

「よく言う――テーブルマナーも覚えん男が」



後日現れた組織の遣いは、前の粗悪な男達とは違い、
任務に徹し、感情を感じさせないBIG直属の男だった。
ギースは同じくBIGの直属として取り立てられることに決まった。

その際に与えられた金は思い掛けない高額だったのだが、
リッパーが取り分を要求しないことにギースは違和感を感じた。
少なくとも半分は奴の金だろう。

……なぜ何も言わない?

「あの地図をお前は捨てただけじゃなかったのか?
 俺は誤って拾っちまっただけだ。金は全部お前の物だろう」

本気とも冗談ともつかないリッパーの物言いに、ギースの違和感は増す。
何か言おうと思ったが先に口を開かれ、ギースの言葉は消えた。

「組織で伸し上がるには金もいる。
 もし俺の取り分があるというのなら、それはお前への貯金だ。
 俺の金はギース・ハワードという銀行に預けよう。
 いつか利子を付けて返してくれると信じている」

――ニホントウをくれるんだろう?

ニヤリと笑うリッパーに、

「金だけでは足りん、命もだ」

とギースも笑った。

クックックッ、欲張りな野郎だ。
リッパーは首をもたげ、目線だけを残してまた笑った。


L'AMORのオーナーはさぞかし残念がっただろうが、
この日を以ってギース・ハワードとリッパーという、
二人の凄腕はバンサーを止め、闇の中へ消えた。

ギースとリッパーが潰した街の新興チーム、
ブラックキャッツは一時的に勢いを失い、別のチームの台頭を許すと激突し、
勝ちはしたもののやがて疲弊して組織に吸収されたらしい。

その際に新しく組織から遣わされたバンサーが、これまたもの凄い腕利きで、
そしてギースにも劣らない美貌と気品で自然にボーイまでこなしてくれたことが、
L'AMORオーナーのせめてもの救いだっただろうか。


リッパー、私の手足となれるか、ただの捨て石となって死ぬか、それはお前次第だ。


ギース・ハワードという異分子が、犯罪組織の中で蠢き始めた。


【5】

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