八極聖拳の後継者となったジェフは、タンの敷地を離れ、
寂れたアパートメントでの生活を選んだ。

道場へは今まで通り通い、きちんと稽古を付けていたのでタンは何も言わなかったが、
それがギースの破門による傷心での行動だということは重々解っていた。
それだけ、二人の絆はタンには深い物に思えていたし、
やさしいジェフが気に病んでしまうのも仕方のないことだと思っていた。

だが、いつまでもただ焦心苦慮しているだけではないだろうということも
タンには解っていたので、敷地を離れたのも何事か考えのあってのことなのだろうと
大きな心配はしなかった。

タンにそう能天気な判断をさせているのは、今、目の前で、
小さな金色の髪の兄弟に拳を教えているジェフの姿だ。
このジェフが突然連れて来た子供達はテリーとアンディという名で、
何があったのかは知らないが、養子として引き取ったと言う。

ジェフはまだ29だし、結婚を諦めたわけでもあるまいに、
なぜ唐突に子供を自宅に引き取って育てているのか
タンにはややもすると理解に窮する行動だったが、
その、指導とも戯れとも取れる3人のやり取りは、
ジェフを実子のように思っているタンには孫が出来たようで嬉しいものだった。

そして何より、先日まで思い詰めていたのが嘘のようなジェフの穏やかな笑顔に、
タンは子供達に感謝した。
タンにもまた、テリーとアンディがとても愛おしく思えていた。

テリーがジェフのことを「おっさん」と呼んでいるのが気にはなったが、彼らは幸せだった。
テリーがアンディをからかって舌を出しているのを、ジェフが微笑ましく見ている。

穏やかな――
とても穏やかな日々だった。



アパートに帰る。
特別豪華ではないがきちんとした食事と風呂、そして暖かな布団は、
捨て犬のような生活をしていたテリーとアンディにとってはまさしく天国だった。

多少ヒネていたテリーもその暖かみの魔力には勝てず、
すっかり馴染み、意地っぱりだが真っ直ぐに成長していたし、
テリーと出会ったときのことをジェフがうっかりアンディの前で言ってしまったら、
テリーの盗みのことを全く知らなかったアンディは怒り、
やがてそれが自分のためだと知ると泣いて謝った。

「でも、もうやめてね…… 兄さん……」

テリーはその後、二度と盗みをすることはなかった。

本当にこの子達に血は繋がっていないのだろうか――?
そこに確実にある本当の兄弟以上の絆が、ジェフには眩しかった。

――こんなやさしい子供達の未来を、潰すわけにはいかない。

“悪い奴ら”に焼かれたという孤児院の話を思い出す。

悪い奴ら――つまりは、組織。
ギース・ハワードの居る、犯罪組織だ。

何もギースが直接手を下したわけではないだろう。
そう思いたい。
だが、彼が無関係の人間でないことは――もう否定の出来ない事実。

兄弟と言えば、自分とギースも兄弟のような物だろう。

付き合いは2年に満たないが、組手をする度に日に日に強くなっていく
ギースの成長がジェフには嬉しかったし、兄弟弟子という以上のその絆は友情であり、
そして、孤児としてこの街に打ち捨てられ、
タンに会うまでたった一人で生きて来たジェフにとっては、
ぶつかりながら解り合える、4つ年下の彼に肉親の情に似た感情を持つことも、
自然な成り行きだったのかも知れない。

愛しい息子達を見ながら、今更そんなことに気付いた。


ああ――
なぜ自分はこの子達のように、兄弟を救ってやれなかったのか――


ふと、テーブルから顔を出し、
小さい口を目一杯広げてパンを食べていたテリーが口を開いた。

「おっさんって、めちゃくちゃ強いよな」

「――突然だな、テリー」

穏やかに笑うジェフだったが、この人の強さをテリーはしみじみ実感していた。
ケンカでは負け知らずだった自分がどんなに突っかかってもビクともしない。
初めて会ったあの時もそうだし、八極聖拳の道場でだってそうだ。

それがテリーには気に入らなかったわけだが、
道場でジェフが神仏が如く崇められているのを知ると、なぜだか得意になった。
うちのおっさんは世界一強い!
それはもう、ケンカ自慢のテリーにとっての誇りと言って良い、確かな感情だった。
つい先日も年上の道場の門下生に自慢して回り、ジェフに怒られたばかりだ。

だが、それだけに疑問が浮かぶ。

「なのになんでこんなショボい飯を食ってんだ?」

口をモゴモゴさせながらテリーが言う。
横でアンディが心配そうな顔をしてテリーの名を呼んでいる。

「別にショボくはないだろう。普通じゃないか」

テリーの疑問に答えながら、アンディを安心させるためにいつもの笑顔で言った。
どうにもアンディはいつまた追い出されるのかという不安に怯えている節がある。
テリーは遠慮がないが意地っぱりで、まだ一度もお父さんとは呼んでくれない。

本当の親子になれるのはもう少し先か――

そんなことを苦笑交じりに思っていたが、テリーの無垢な追求は止まなかった。

「だってさ、オレ知ってんだ。
 イーストアイランドにはすげぇでっかいビルがあって、
 そこでは強ぇ奴がすげぇいっぱいの肉とかを食ってんだぜ」

そいつぶっ倒せよ、と言葉を続け、テリーは空気にパンチを繰り出している。
アンディは心配そうだ。

「テリー、強いからと言って、人の物を奪って良いということにはならない。
 本当の強さというのは、もうお前が持っている、大切な人を守りたいという気持ちだ。
 あの時のお前は本当に強かったぞ?」

意味のよく解らなかったテリーは最後の一言だけを頭に入れて高揚し、
「あったりまえだぜ!」と鼻の下を人差し指で撫でて椅子の上に立った。
アンディはオロオロしている。
こらこら、とジェフがたしなめてテリーも座り直す。

得意になったテリーは止まらない。

「そうだ、おっさん。あのカッコ良いグローブくれよ」

「グローブ? あれが気に入ってるのか?」

ジェフが闘うときにいつもしている古ぼけたグローブだ。
特別思い出のある物ではないが、武者修行時代から愛用している一品。
ジェフのお気に入りである。

「おう! あれは最強の男が持つべきもんだ!
 おっさんより強いオレが持ってなきゃおかしい!」

アンディはもう泣きそうだ。

「なら、まだまだ譲ることは出来ないな」

それを安心させるように、ジェフはまた笑った。
今度は本当に可笑しかったので、大きく大きく笑った。

「ちぇ」

と、口を尖らせるいつもの表情をしたテリーの頭を右手で、
アンディの頭を左手で撫でた。
安心したようなアンディと、恥ずかしくて暴れ出すテリー。

可愛い可愛い息子達――
こんな街でなければ、本当の親の元で幸せに暮らせていただろうに――

ジェフの中で、サウスタウンを食い荒らす組織への怒りは日に日に大きくなっていった。
今日もまた、ギースの動きを掴むべく闇へ潜る――



1978年、4月――
ギース・ハワードの組織内での躍進は火の出る勢いだった。

BIGが戦場から連れて来た私兵とサウスタウンのゴロツキを纏め上げた組織は、
確かにニューヨーク流れのマフィアと共存合併ということになってはいたが、
その規模は当然、イタリア本国の権威もあるマフィアのほうが圧倒的だ。
7対3、あるいは8対2ほどの比率でマフィアが押している。

だがそれはただ人数が多いというだけで、
彼らは所詮、ニューヨークを追われ、サウスタウンに左遷された無能の集団である。
Mr.BIGの統率力があれば、あるいは戦争になれば敗れるかも知れない。

もっともその場合、チャイニーズマフィアが漁夫の利を得るのは目に見えているので、
互いに疲弊するだけの争いを今の彼らは起こす気はないが、
無能は無能なりに、無能を自覚している。
彼らは有能な男が欲しいのだ。
粗悪なチンピラを手広く吸収して腐敗するという失敗を、彼らはすでに犯している。

そういう思いがあるから、Mr.BIGはマフィアの幹部二人と並ぶ権力を与えられ、
ボスの下の三幹部として、実質はそのボスをも自在に操れている。
それでもBIGの横暴をボスが許しているのは、先程の無意味な戦争を避ける為と、
何とか使いこなせているという思い上がり、そしてやはり、
有能な男を手元に置いておきたいという無能なりの知恵だった。

その為、組織の超新星、若く秀麗で、そして圧倒的に強く、
すでに組織内で異質なカリスマを浸透させているギース・ハワードという男を、
ボスが気に入らないはずがなかった。

ギースは今、才気煥発に幹部候補の地位にまで上り詰めている。


「――ギース様」

イーストアイランドにある、サウスタウンを一望出来るほどの
巨大なビルに与えられた一室で、リッパーに呼ばれた。

ギース様――
そう呼ぶ男達も今や無数に居たが、リッパーにそう呼ばれたのは初めてだ。
それが可笑しかった。

「今まで通りで良い」

「いえ、ギース様」

照れを隠すようにフンッと鼻で笑い、ギースは椅子を回転させて窓の外を見た。
血の上に成り立っているとは到底思えない、美しい街だ。

「ギース様、少し雑談をお許しください」

無言だが、肯定の無言。

「貴方は、私に何もかもをくれた。
 ただのチンピラだった私を拾い上げてくれた。
 こんな、立派なスーツを着れるようにしてくれた。
 もう、飢える心配もない。欲しい物は何だって買ってやれるし、何だって買える」

ギースは黙っている。

「だが、貴方はまだ望む物を手に入れてはいない。
 それは、私達には想像も出来ない夢なのでしょう。
 その為ならば、この肉体、ネズミのように打ち捨てられても本望。
 喜んで捨て石になりましょう」

「――リッパー」

ギースが立ち、振り返った。
リッパーは礼儀正しく起立して口を結ぶ。

「捨て石ならば他にも居る。だが私の右腕は一人しか居ない。
 それだけだ」

「は」

サングラスの裏側は、濡れていただろうか。
ただ彼には、ギースの信頼が何よりの誇りだった。
最悪だ最悪だと思っていたが、自分は最高の男に巡り合っていた。
それが、何よりも嬉しかった。

「――チャイナタウンはどうだ?」

再び椅子に座り直し、ギースが問う。

「は、リー・ガクスウの養子、リー・パイロンの台頭で一族の勢いは衰えず、
 八極聖拳もまたジェフ・ボガードを頭に立てて抵抗、
 マフィアも未だ、活動を停止してはおりません」

「そうか――まぁBIGに任せるさ。
 チャイナタウンなどに興味はない」

興味はない――それは嘘だ。
一瞬の沈黙は、ジェフ・ボガードとの直接の対立を避けたかったが故の逡巡か。
ジェフが自分のことを嗅ぎ回っているのは知っている。
だが何を考えているのかは解らない。

信じていると言った男が対立するつもりなのか――?
そんな、ジェフのまた別の裏切り行為を想像すると、腸が焼け付いた。
奴のことは考えたくない。
それがギースの真実の思いだった。
組織で上り詰めた自分に残った唯一の弱さを、ギースは認めたくない。

「――タクマ・サカザキの方はどうだ?」

ポートチャイナタウンに現れたという、不敗の格闘家、
タクマ・サカザキの行方は依然、ようとして知れなかった。
あるいはその噂自体が根も葉もないデマだったのか。

タクマ・サカザキは10年ほど前、自動車事故で妻を失い失踪している。
だがその事故は限りなく黒く、
何者かの手によるタクマ・サカザキの暗殺だったのは明白で、
それによって妻を失い、失踪した彼がどこで何をしているのか知る者はいない。

だが、全く手がかりがないわけでもない。
実は、ポートチャイナタウンでのタクマの噂と同じ様な物は、
まるで幽霊でも目撃したかのようにサウスタウン中、至る所で上がっているのだ。
そして、その度に周辺の組織の会社――アジトが、嵐に遭ったように潰れる。

ギースの推理はさほど驚くでもない、自然な物だっただろう。
つまり、タクマ・サカザキは事故を起こしたのが組織だと断定し、
ここ、サウスタウンに未だ潜伏、そして復讐の為にたった一人で組織を崩そうとしてる。

――ますます好みだ。

ギースはそう思った。
たった一人で巨大な組織に牙を剥く男――それは、つまり自分の影。
何も持たずに、組織を手に入れ、シュトロハイム家と戦うという、
気でも触れたような未踏の野望を持つギースにとって、
タクマ・サカザキは一度会ってみたい男だった。

そして、是非とも欲しい。

タクマの強さも、極限流空手という、
今までのギースの生涯で見た中で、間違いなく最強の拳も。


「――それが」

リッパーは言い難そうに口を開いた。
待ちきれない。

「何だ?」

期待と、いくばくかの不安がギースの言葉を乱暴にした。

「は、タクマ・サカザキが10年前に経営していた道場に張らせていた
 部下からの報告が、途絶えました」

「何だと、何故だ?」

「解りません。完全に行方不明で――恐らくはもう」


――可能性は、あるな。

「良かろう、車を出せ。私がそこへ行く」

「ギース様! 危険です! せめて原因が判るまでは――」

「私を誰だと思っているのだ? リッパー。
 例え不敗の格闘家が待っていたとて、私の拳で服従させてやるだけだ」

「……は」

もしタクマを我が手に握れるのならば、組織を私の物とすることなど容易い!
あの男でさえ恐れるに値せんわ!
ハハハハハハハハ!

ギースはスーツの上着をひるがえしながら脱ぎ捨て、リッパーを背に部屋を出た。

かつて、彼の母はこんなことを言っていた。
ギースは玩具を与えると一時的に熱狂するのだけど、飽きると目もくれない。

ギースは今、熱狂していた。
極限流を、手に入れる。



ポートタウン――

道場の命とも言える、『龍神館』と書かれた看板が無造作に転がっている。
ギースの好きな日本風の建物だが、屏風の和紙は醜女の化粧のように剥がれ、
天井の瓦も、稲妻にでも襲われたかのように何個も大穴を持っている。

このお化け屋敷にギースが来るのは、生涯二度目だ。
一度目はまだ成人もしていない18才頃、幼き日に見た宝石を持った修羅が
極限流空手という流派のタクマ・サカザキという男だと知って、
まだ未成熟な身体で街中を捜し回り、そして見付けた。

だが、その時、すでにタクマ・サカザキは失踪後であり、
彼の命だったはずの極限流道場は色を失い、今と変わらぬ廃墟だった。
彼は絶望した。

その時の絶望の場所が、今は希望に感じる。

ギースは左手に気を収束し、地を撫でるように振り上げた。
風と擦れ合い、力ずくで従わせた轟音が轟く。

パワーウェブに端を発して身に付けたギースの技だったが、
それを地を伝い、相手を飲み込む大地の魔法とするならば、
ギースのこの技は風を吸収しながら空気の上を滑走して地を伝う、
風の魔法とも言うべき物だった。

飲み込まれた瓦礫が、暴風に巻き込まれたかのように、さらに砕けて四散する。

――修羅の、残り香を感じる。

微かに残る極限流の闘気に、ギースは昂ぶっていた。

「まだ近くに居るはずだ! 草の根を分けてでも捜し出せ!」



一月が経ったが、部下からの報告はギースを落胆させる物ばかりだった。
さすがに10年間も見付からずに潜伏し、組織と敵対し続けている男である。

ギース・ハワードによるリー・ガクスウの暗殺未遂が関係しているのだろうか、
不敗の格闘家出没の噂は飛躍的に頻度を増し、立ち昇る度に尾ひれが付いて、
今や彼は地獄からやって来た閻魔なのだという風潮が、
まるで真実であるかのように信仰されていた。

リー・ガクスウ不在のポートチャイナタウンは、
彼の養子であるリー・パイロンの手によってすぐさま復興し、
回復したガクスウもまたサイクロプス刑務所の所長に戻っている。

セントラルシティのチャイナタウンはタンを超えたとされる男、
ジェフ・ボガードが後継者となったことによりさらに権勢を増し、
これは彼らにとっても望むことではないのだが、
チャイニーズマフィアも息を吹き返しつつあった。

組織はタクマとチャイナタウンにより、確実にグラつかされていた。


「Mr.BIG、タクマの方は私に任せて貰おう」

ギースは同じタワーの最上階付近にあるMr.BIGの事務所で、立って話をしていた。
BIGは片肘を付いて横柄に座っている。
BIGの左右には黒服が二人ずつ、ギースの背後にはリッパーが居る。
雰囲気は決して良くない。

「またリー・ガクスウと闘うのは怖いか?
 討ち漏らしたうえに貴様も酷い有り様だったそうじゃないか」

サングラスの裏でリッパーの剃り込まれた眉が動く。

「いや、また私に手柄を立てられては貴方も困るだろう。
 私はタクマの方で良い」

「――何だと」

今度はBIGの眉間が険しくなった。
向かいに座って食事をしたあの時と同じように、私とお前は対等だ、と言っている。
いやそれすらもBIGの思い上がりで、
お前はすでに私より下だ、と言っているのかも知れない。

BIGにもう、ギースの大口を聞き流す余裕はなかった。

だが、ギースの言は正しい。
もしチャイナタウンをギースに任せるような真似をすれば、
今度こそこの男はリー・ガクスウにトドメを打ち、
リー一族からチャイナタウンを崩すだろう。

しかも元八極聖拳の男だ。八極聖拳の内情にも詳しい。
時間はかかるかも知れないがチャイナタウンの全てを滅ぼすことも、
この男には可能にBIGは思えた。

そしてこの男がチャイナタウンを沈めた暁には、
マフィアのボスはギースのために第四の幹部の席を設け、
事実上自分を失脚させるだろう。
だからこそBIGはあの暗殺依頼の後、ギースがチャイナタウンと関わらないように
様々な手を施して来ていたのである。

――もっとも、そのギースもチャイナタウンには
積極的には関わりたくなかったわけだが。

だが、タクマ・サカザキとなれば話は別である。
リー・ガクスウは確かにタクマと龍虎と呼ばれ、互角に争っていたのかも知れないが、
彼はもう、高齢も高齢。
リー・ガクスウとてただの人間だということを、他でもないギースが証明したのだ。

しかしタクマ・サカザキは違う。
彼はデータによると47才。
高齢には違いないが、全盛期に近い実力をまだ有しているだろう。
それは彼一人に落とされた組織の関連会社の数を見ても明らかだ。

このギースという男はマフィアの気質も、
自分のような軍人の気質も持ち合わせてはいない。
ギースは武術家なのだと、BIGは気付いていた。
ギースがタクマを狙うのなら、必ず奴は愚かにも正面から拳を合わせる。
そして死ぬだろう。

ギースはタクマに殺される。
不敗の格闘家には勝てない。

それは、タクマの情報を多少なりとも知っているBIGにとっては確信と言える結論だった。
ギースがタクマに専念すると言うのなら、これほど都合の良い事はない。

BIGはリー・ガクスウ不在という絶好の好機をリー・パイロンに阻まれ、
未だにチャイニーズマフィア掃討を果たせないでいることに苛立ち、
この仕事に執着を持っていた。
チャイニーズマフィアもリー一族も必ず討ち滅ぼす。
彼にタクマ・サカザキなどという一人の人間に構っている暇はないのである。

「良かろう、俺の兵も貸してやる。戦場で生き延びて来た精鋭部隊だ。
 貴様はタクマを捜し出して殺せ」

「サービスが良いな。人の情けに触れたのは久しぶりだ」

貴様ほどサービスの良い悪党も他におるまいよ、
と、これからたった一人で不敗の格闘家と死合うのであろう若造を、
BIGは声には出さずにせせら笑った。

せいぜい一匹狼の殺し屋を気取っているが良い。



サウスタウンは開発都市であり、
無数の高層ビルとその裏のスラムでだいたいの形を形成しているのだが、
セントラルシティの北東側には、まだ自然が残っている。

その貴重な自然は国民公園、ナショナルパークと名付けられ、
サウスタウンの観光名所となっている。
そして奥へ進めばモンクホーシャファームという広大な牧場があり、
さらに奥へ進めば完全なる大自然に囲まれた山中である。

BIGの言う“マフィアのお坊ちゃん”やスラム育ちの組織の人間に
この地の探索は困難だが、BIGの私兵達はいとも容易くこの密林へも入れる。
それはBIGの私兵達がいかに鍛錬された傭兵であるかを意味し、
そしてタクマ・サカザキ探索の能率を飛躍的に上げていた。

その密林に生まれていた自然の空洞の中に、

不敗の格闘家は居たのだ。



「――誰だ」

座禅を組んでいる、殺気に満ち満ちた男の背が先に口を利いた。

「さすがですね。どうやら私は殺気を消すのが苦手らしい」

綻びた空手着に身を包んだその男は、
あの頃からタイムスリップして来たかのような雄々しさで、
今のギースにさえも、軽い憧れを抱かせた。

向き合ってもいないにも関わらずのこの威圧感、圧迫感。
息苦しい――さすがは極限流の男。

「組織の人間だと言えば、お手合わせ願えるでしょうか?」

タクマがピクリと動いた。

「殺し屋が、一人で来たのか」

「道案内はして貰いましたがね」

修羅が、黒髪を纏った空手着の鬼が起き上がった。
その背中から溢れ出す闘神のオーラを直視し、ギースの舌が一瞬で渇く。

――これほどとは……

自分は子供だったからこの鬼が怖かったのではない。
この鬼があまりにもヒトの身を超えた力を持ってしまっているから、
自分の足は震えたのだと、ギースは気付いた。

ギース・ハワードに、ついに振り向いたこのタクマの身長が、
自身の身長よりも低いと教えてやったならば彼は目を丸くして驚くだろう。
あまりにも、あまりにも巨大。
2m――いや、3m。

今、ギースは間違いなく遥か上方から頭を見下ろされていた。
世界が――歪む。
暑いのか寒いのかも解らず、ただ冷や汗が流れる。

バチッ!
眼光を浴びると身体が弾けた。身体中が軋む。
闘気だけでこれか――修羅よ!


この時もう、ギース・ハワードはタン・フー・ルーは凡人だと思っていた。
ただの凡人が、何かの間違いで秘伝書を手にしてしまった。

タン・フー・ルーはただ秘伝書を拾っただけの凡人である。
凡人だから、すでに力が枯れているにも関わらず総帥の座に固執し、
ジェフ・ボガード、ギース・ハワードという天才が門下に居るにも関わらず、
長々とトップの座に居座り続けた。

それは、天才が秘伝書を手にするのが怖かったからだ。
タン・フー・ルーは凡人で、そして臆病者だ。
八極聖拳など臆病者の草臥れた拳法に過ぎない。

それに比べて、この目の前の男はどうだ。
極限流の気の力は八極聖拳に似ている、とギースは思った。
だがタクマ・サカザキは魔法の秘伝書など持ってはいない。
秘伝書も持たずして、タン・フー・ルーを超える闘気を鮮烈に放っている。

これぞ、地上最強の拳だ。
ギースは喜びに打ち震えた。

――欲しい。

これこそ私に相応しい拳だ。

構える。

タクマ・サカザキよ!私はお前を手に入れる日を待っていた!


――勝負!




「ファ!」

首筋が熱い。

気迫とは裏腹に、踏み込むのが躊躇われたギースは左手に闘気を溜め、
風を薙ぐ蒼い気の光を修羅に放った。

「気を使うか――だがまだまだ軟弱……!」

それはタクマの仁王のような踏み込みでいとも容易く潰され、消えた。

「な!?」

ギースでさえ唸る。それは有り得ない防御法だった。
この男、対気の力用の防御も身に付けている。

タクマが踏み込んで来た。地獄の鬼でも粉砕するであろう剛拳。
躱した後に空気に押し潰され、バランスを崩して手を付いた。

首が、熱い――
あの日に宝石と共に刻み付けられた呪いがわなないている。
赤い線が発光し、燃え盛っているように感じた。

だが熱に魘されている暇はない。
今度はタクマの剛脚が、立ち上がったばかりのギースに飛んで来た。
闘気を纏い、何倍にも見えるタクマの巨体が全身でぶつかって来る。
ガードなど、存在しない。

「っあああー!!」

さらにそのまま空中で放たれた二段目の蹴りが顔面に入ると、
ギースは悶絶して吹き飛び倒れた。
リー・ガクスウのような空中多段蹴りだが、その重さは段違いだ。

顎が真っ赤に染まり、息をする度に血が痰のように飛ぶ。
八極聖拳の気功防御ですら大した役に立たない。

――強い…… これが、不敗の格闘家……

それでもギースは震えていた。
無論、怯えではない。
期待を裏切らないタクマの、極限流の強さに全身が喜びで包まれる。

「――虎煌拳!」

そんな音がして、ほんの一瞬前まで自分がいた場所に気が飛んで来る。
必死で躱した先はもう洞窟の外だった。
虎煌拳が突き刺さり、洞窟は土砂の雨を流して崩壊へと進んでいる。

タクマがゆっくりと歩いて来た。
接近して拳を打ち合えば、良くて相討ち。
離れていては、自分より遥かに卓越した気功が飛んで来る。

圧倒的な不敗の格闘家の力、そして単純な力以上の威圧感。
それらを全て飲み込む、精神の集中が必要だ。
タクマはゆっくりと歩いて来る。
ならば、ゆっくりと気を練ろう。
目を閉じ、自分の中に眠る生命の光を左腕に集め、大気の命も吸収する。
自分の周りの全てが死せるイメージを頭に描く。

風が、吹いた――


「死風をその身に刻め! タクマ! おおおおおおお!!」

ギースが利き腕の左を、天を衝くように振り上げる。
最初の一撃とは比べ物にならないほどの気の衝撃が、
地を伝い、空気を飲み込みながらタクマへと向かった。

ゴゴオオオオオオオオオオ!!

「粉ッ!」

再び仁王の踏み込み。
だが、止まらない。

踏み込みを越えて獲物の身体を駆け上がった気の波動は、
十字に腕を組み、タクマに防御の姿勢を取らせることに成功した。


――が、

「軟弱だと言った! 小僧!」


――っ!?


十字に組まれた腕は防御ではなかった。
タクマの肉体に今までとは比較にならないほどの闘気が収束している。
これが極限流の呼吸法――
あまりの輝きと、巻き起こった風が荒れ狂わす土砂の弾丸がギースの視界を不快に遮る。

気が一際、跳ね上がった。

これは、あの時に見た――


「覇王――翔吼拳!!」


ゴ、ドガァ――――ッ!!


身の丈を越える中世の大砲のような闘気の波動が、
ギースの身体を完全に飲み込んだ。

「っおあああああ―――っ!」

かつてない衝撃。だが、食い縛る。
闘気を制する技があることはタクマの極技で知った。
――ならば、止められる!
両手に気功の全てを集中し、受ける。
何十メートル飛ばされても構わない。これを受け止めねば自分はここで死ぬ。

「私に止められぬはずはない!」


うおああぁ――――!!


閃光――

そして、熱風。


天空に舞い上がったのは宝石のように煌びやかに輝く、
タクマの放った闘気だった。

ギースは、受け切った。


その様子を見て不敗の格闘家がまたゆっくりと近づいて来た。

「――見事だな、小僧。
 覇王翔吼拳を初見で止めた男は貴様が初めて。
 その名くらいは聞いておこう」

「ギース・ハワードだ、タクマ・サカザキ。
 お前と闘える日を、ずっと待っていた。私と共に来い」

「――何の冗談だ」

その返答と同時に、タクマは再び虎煌拳を放った。
だが、カァ!という閃光と共にその波動はギースの振り払われた腕に消され、
煙となって消えた。

「ここからは対等だ、タクマ。
 お前の家も潰れてしまったことだ、続きは私のホームで行おう」

そう言うとギースは何かを投げ渡した。
それを握ったタクマが手を広げると――鍵。

「お前もよく知っているだろう、イーストアイランドにあるタワーのキーだ」

物々しい装飾が施されている。

待っている――

そう言い残してギースは消えた。
銃も持たず、たった一人で自分を殺しに来た男――
組織の膝元に労せずして入り込めるのはタクマにとって悪い話ではない。

ギース・ハワードという男が何を考えているのかは知らないが、
中から叩き潰すには絶好の機会だ。

と、鍵が落ちた。


――両腕が、痺れている。

ギース・ハワード


リー・ガクスウを倒した男の名だ。



観光島的な意味合いを持つ人工島、
イーストアイランドには、多くのレジャー施設がある。
海へ進めば抜けるような青に包まれたビーチが、すぐ隣りには公園と、
サウスタウンで最大の遊戯施設であるアミューズメントパークがある。

だがそのどれもが、組織の資金によって存在を保ち、
そしてその資金源ともなっていることは言うまでもない。
これら表向き綺麗な施設に金を落とす、
愚かな人々を笑うために、その巨大なタワーはあった。

だが、今この不遜なタワーは緊張に包まれている。
いや、緊張と呼ぶのも生やさしい。
何か軽く選択肢を間違っただけで死が浮かび上がりそうな、
そんな、張り詰めた戦場のような空気が豪華なタワーを支配している。

正面玄関から、不敗の格闘家が来たのだ。

タクマの周りには、リッパーを含む5名のギース直属の部下が、
その緊張を一身に背負っていた。

「大切な客人だ。丁重に案内しろ」

そう言ったギースの命令を忠実に守っているのだが、
その死のイメージを無造作に放っているのが他ならぬ客人であるため、
周囲を警戒し、さらにタクマ・サカザキという修羅までも警戒しなければらないという、
神経が極限まで磨耗するような時間を彼らは過ごしていた。

長身の黒服の男達に囲まれ、外からは姿の見えないタクマだったが、
その殺気は例え武の心得がなくとも近付くだけで
槍で刺されるような闘気を感じ取ってしまう。

不敗の格闘家が組織のお膝元へ来たことは皆、頭では解っていたのかも知れないが、
警備に付いているギースの部下以上に、
その殺気がタクマを討とうなどという考えを完膚なきまでに殺していた。
例えばこちらが銃を持っていたとして、突然現れた猛獣に発砲出来るだろうか?

半端に触れれば――死だ。

やがて、閻魔を乗せたエレベーターは蠢き、
ギースの事務所までそれを運ぶことに成功した。

タクマ・サカザキが来た。
ギースはデスクに肘を置き、手を組んで笑みを浮かべている。

ドン!
タクマはまずその机に、受け取った鍵を乱暴に叩き付けた。
タクマの背後を固める部下達は、その行動に、主の身を案じることさえ出来ず震えた。
ただリッパーだけが、ギースを信じ切った様子で場を窺っている。

「この事務所のキーだったのだが、
 やはり礼儀として案内を出すべきだと思ったのでね」

「そんなことはどうでも良い。貴様、何を考えている」

「二度目になるが、私の元で働く気はないか?タクマ。
 私はお前の腕を見込んで言っている」

「まだ下らぬ問答をするために呼んだのか?」

タクマの殺気が一層鋭くなる。

「そうだな、ならばお前にもメリット与えてやらねばなるまい。
 ロネット・サカザキのことだ」

亡き妻、ロネットの名を呼ばれ、タクマの闘気は本物となった。
リッパー以外の部下達は、ある者は無意識の内に歩を下げ、
あるいは凍り付いて動けない。

「聞け、タクマ。
 ロネット・サカザキの事件は、恐らくはお前の目算通り、この組織の仕業だろう。
 だがな、タクマ。お前は知らぬかもしれんが、組織も一枚岩ではない。
 お前の敵は、私の敵ということも有り得る。
 私とお前が組めば、我々の目的など容易く遂行出来よう」

――どうだ、悪い話ではあるまい。

「――私と共に来い、タクマ」

「カァァ!!」

タクマが吠えた。
その手刀と呼ぶにも荒々しい刀拳はデスクをナタのように二つに裂いた。
ギースは微動だにしない。踏み出そうとするリッパーを目で制する。

「どんな大言壮語を並べ立てようと、貴様に協力する気はない」

置き場を失った肘をダランと伸ばし、立ち上がったギースは、
落胆する風でもなく前に出た。

「それは残念だ。
 いつか貴方が目的を果たした後、酒を飲み交わせる日を待っている。
 私がお送りしよう」

「不要だ」

「いや、少々デリカシーに欠ける男もこのビルには居る」

タクマはギースを阿修羅の形相で睨み、もう一度、同じことを言った。

「――不要だ」

ギースは肩の力を抜くように笑った。
タクマは背を見せ、地面を焼き焦がしながら去って行く。
蒸発する闘気が、しっかりと視認出来た。


鬼が去ったギースの個室。
そこには無残に両断されたデスクと、焼け爛れた絨毯だけが残った。

――取り付く島もなかったな。

ギースが薄く笑っていると、沈黙を破ってリッパーが声を発した。

「――ギース様、よろしいので?」

「構わん。初めからそんな安い男だとも思っていない。
 あれは――必ず手に入れるさ」

最後は自分に言い聞かせるように、ギースは言った。
遠くで強化ガラスの割れる音がする。

「――ギース様」

再び意を求めるリッパー。

「構わんさ、どうせ大したことは出来ん」

あの腕ではな――

ギースはダラリと下げた自分の腕を見る。
覇王翔吼拳を受け止めた腕。未だにそこだけが死んだように、力が入らない。
ならば程度の差はあれタクマも同じだと、この傲岸不遜な男は確信していた。


それより――


お前も殺気を消すのが苦手なようだな、BIG――

【7】

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