ギースタワー――

人工島、イーストアイランドの東端に聳え立つ、
サウスタウンで最も高いタワーは、今はそう呼ばれている。
その言葉にはギース・ハワードという男に対する畏怖が、怨念のように込められている。
血と硝煙の臭いばかりが鼻を突く、この暴力の街を天空から見下ろす男。
その名はすでに、街中の人間の恐怖の対象だった。


瞑想のような演舞を終えたギースを、リッパーの黒いサングラスが映している。

ギースの片腕として敏腕に秘書をこなすリッパーはすっかり口数が減り、
彫像のような男になっていた。
余計なことは何も言わない。考え事があれば、それは心の中で行う。
外の世界へ干渉するのはギース・ハワードを通してだけ――

今、リッパーは考えていた。
日本から戻って来たギースは、今までとどこか違う。
今まではクールな反面、強者を前にしたときには燃えるような熱さを持った男だった。
だが今は、氷の中に炎を閉じ込めたような、矛盾する痛みを放っているように感じる。
完全に凍結した自分に近くなったようで、また遠くなってしまったようでもある。

ギース・ハワードは人を殺したことがあったのだろうか? と、ふと考える。

千人は殺しているような殺気を持ちながらも、一人も殺していない神聖さも感じる。
直接闘ったリー・ガクスウも、タクマ・サカザキも、リョウ・サカザキも生き残った。
Mr.BIGでさえその強靭な生命力で一命を取り留めており、その後は内密に処理した。
偶然の結果にしても、全員、生きている。
ブラックキャッツを襲撃の際にも生き残りが居たと聞く。
死んだのは自分が手に掛けた人間だろう。その他に死人は居たのだろうか?

この男は帝王だ。自分のような殺人鬼でないことはよく解っている。
だがこの男が全く殺しを行っていないとなると、どうしても違和感がある。
ことさら、戻って来たギース・ハワードにはその違和感が強い。

あの手紙を見た後のギースの行動は、まるで殺人鬼のそれだった。



10才になったテリー・ボガードは、おっさん――
ジェフ・ボガードの表情が張り詰めていることに気付いた。
だんだんと解って来たことだが、それは今が特別なのではなく、
この1年ばかりが妙に穏やかだった、ということのようだ。

2年ほど前の話になるが、突然に厳しい顔をし、
アンディと一緒にタン先生の道場へ預けられたかと思うと、
数ヶ月後にはそれが見間違いだったかのように優しい顔で迎えに来た。
一仕事終えた男の顔、というのが一番表現に堅いだろうか。
自分達の安心感とジェフの安心感が一体となって、安息を作り出しているように思えた。

それから1年はただ穏やかで、いつもの様にジェフやタンに稽古を付けて貰い、
いつもの様に三食食事を取って、いつもの様に暖かい布団で寝る。
街は相変わらずサイレンの音が絶えないが、チャイナタウンは至って平和だったし、
本当に特別なことは何もない、ただ穏やかな毎日だった。

だが最近のジェフ・ボガードを見ていると、
テリーには彼が、2年前のあの時の顔をしているように思える。

いや、よくよく考えれば、穏やかだった日々の中でも、ジェフはそんな顔をする時があった。
とはいえそれは一時的なことだし、あまり考えたくもないことだったので、
テリーは考えないようにしていたのだが、最近になってそれが無性に神経に触れる。

――嫌な予感がするのだ。

何か、どうしようもなく大きな力で今が無造作に引き裂かれそうな、
そんなひどく重い予兆が、ジェフに打ち込むテリーの拳を荒くしていた。

それをアンディが、どこか遠くを見るように、座禅を組んで見ている。



サウスタウンへと戻り、ギースタワーの頂上に位置する事務所の椅子へ鎮座し、
ズラリと並んだ黒服を満足そうに口元を歪めて見ていたギース・ハワードには、
以前にも増した存在感があった。

ギースが日本で何をして来たのかは誰も知らない。
共に日本へ行った部下も知らなければ、リッパーでさえ知らない。
ギースは日本でジャパニーズマフィアからの情報をまとめたリストに目を通すと、
何人か候補を絞って部下に詳しく調べさせた。
そしてそれだけで、全ての部下が帰還させられている。

その後はたった一人で修行を行い、やや雰囲気を違えて戻って来た。
いや、目的は修行だったはずだが、本当にそれをしたのかも解らない。
ともかく、戻って来たギースはさらなる自信と、落ち着きを手にしていた。

そのまますぐさまボスと他の幹部を消して組織を全て手に入れ、
同時にこの街さえも手中に収めるものだと、リッパーは思っていた。
ギース自身もそのつもりだったはずだろう。
それだけ戻って来た当初の彼は自信に満ち溢れていた。

ギースが溜まった書類にうんざりするように目を通す。

留守中のこういった雑務は全てリッパーがこなしていた――
いや、実際には並外れて記憶力の良い彼の弟分である
ホッパーの力が大きかったりしたものの、
それでもどうしても、ギース本人にしか解らない書類も多い。

その威勢を削ぐ書類の山をつまらなそうに処理するギースだが、
それさえも自分を焦らして楽しんでいるように、リッパーには思えた。


だが、そんな様子が一変してしまったのが、小さな、
本当に小さなギース・ハワード個人宛ての手紙だった。
その握り潰せるような手紙が、ギースの雰囲気を決定的に変えた。

その手紙を読んだ後、ギースは悪霊が降りたかのような青く、恐ろしい形相で、
突然、気が狂ってしまったかのように慌しく人を払うと、
自宅にも帰らず、そればかりか一食一睡さえもせず、
ただ日が昇り、そして落ちるまで、また日が昇り、落ちるまで、
青白い顔に眼光だけを血走らせて、彼は図面に取り組んだ。

それは、外からでは決して埋まらないパズル。
ミリ単位、秒刻みで猟奇的に練り上げられた狂気の魔道書。
ギースは出来上がったそれをリッパーに乱暴に渡すと、

「――やれ」

とだけ言った。

その様子には、リッパーでさえ怖気を振るった。

図面に目を通すと、その何から何まで彼らしくない様に、
リッパーはまた、恐怖でガタガタと動きたがる肉体を、
舌を噛み、潰れるほど眼を瞑って必死に殺し続けた。
ここで震えたら、殺されるという確かな確信があった。
今まで築き上げて来た信頼さえも、“死”という答えで清算されそうな、
そんな確信があった。

ギース・ハワードは明らかに、殺人鬼の貌をしていた。


ギースを変えた悪魔からの手紙――



親愛なるギース・ハワード様へ

随分久しぶりになるのだろうが、そんな気がしないのは私だけだろうか?
貴方の父が残念ながら他界してしまったので、今は私が当主をやっている。
毎日が大変だ。
その分、貴方の躍進も耳に届いている。
貴方の名が大きくなる度に、私はその血を誇りに思っている次第だ。

だがそろそろ貴方の役目も終わる。
素晴らしい悪役ぶりはもう充分に楽しませて貰った。
これは私からのお礼だ。
新たなる闇の時代が来る。貴方には舞台を降りて貰う。

――ヴォルフガング・クラウザー


記された場所には、部下の惨死体があった。



――燃えていた。

地獄という世界が本当にあるのならば、こういう世界なのだろう。
ただ煌々と、炎の猛りが全てを飲み込んでいた。

テリーとアンディがこの世界へ来るのは二度目だった。
報せを聞いて駆け込むようにやって来た世界はまるで現実味がなくて、
ぼんやりとしていた。
時に綺麗にさえ見える炎だが、この炎は違う。怖いだけだ。
ただ怖くて、恐ろしいだけの風が頬を撫でて行く。

――お前もこっちに来い……
――お前もこっちに来いよ……

そんなことを囁きながら、ただ目の前に広がる赤いシルエットが、
呆然とした瞳の中で揺れている。
赤い世界の中に点在する黒は、かつて確かに生きていた命。

でも、この世界では誰も生きられない。
怨念の詰まった、人間の生が許されていない世界。
昇って行く煙は、地獄を離れ、天国へ還って行く魂なのか。

次の世界には幸福があると良いな。
そんなことを外から思いながら、テリーは自分も黒くなったかのように立ち尽くして、
弟の嗚咽と、力無く両手を突く養父の慟哭を聞いていた。

治療箱が転がっている。
浮いた魚のように開け放たれたままの口は、誰へ助けを求め叫んでいたのか。
その声は、その人の耳には届かず、ジェフ・ボガードの心にだけ、嘆くように響いていた。


「ギィィィィスゥゥゥゥゥ――――ッッ!!」



――かつて、八極聖拳という流派が栄えていた地は、
――黒ずんだ弱々しい木が寄り添うだけの、ただの廃墟となった。




その報告を聞いたギースには何の感情も浮かんでいない様に見えた。
成功を喜ぶでもなく、あるいはその凄惨な結果に恐怖するでもなく。

ただ、何も語らぬ眼で、

「よくやった」

とだけ言った。


かつてギース・ハワードが八極聖拳の中に居たことはリッパーも知っている。
だからこそ、広い敷地を全て焼き尽くす、綿密に計算し尽くされた計画を練れたのだろう。
親を殺す子供などこの街では珍しくない。子を捨てる親はそれ以上に茶飯事だ。

だがここまで完膚なきまでにかつての家、友、師を残酷に焼き殺して、
尚、何の感情も見せないギースは、リッパーには別人のように恐ろしかった。

ギース・ハワードという男は、敵を殺すにしても、
常に自ら乗り込み、自らの手で仕留めることにこだわりを持っているように見えた。
言わば、自分の手を汚したがる男だったのだ。
そしてそれが、この男の異質なカリスマともなっていた。

だが、ギースは焼き払った。
家も、友も、師でさえも、何の感情も見せずに焼き払った。

ある意味、汚れていなかったギース・ハワードという男の手が、
決して拭いきれない醜悪な黒に、汚れ果てた様に思えた。

これからこの人は何の躊躇いもなく同じ事を繰り返すのだろう。
ギース・ハワードは殺人鬼になってしまったとリッパーは震えた。

このギースタワーという摩天楼の頂上には、
無表情に大量殺戮をやってのける殺人鬼が居て、
次は誰を殺してやろうかと考えながら眼下を眺めている。

自分は一番安全な場所に居るのか。
自分は一番危険な場所に居るのか。

それでも付き従わねばならない現実と、
それさえを受け入れている自分自身が怖かった。

――もう引き返せない。
そんなことは当たり前だ。とうにその場所は過ぎている。
だがリッパーは今になって、その現実が、鉛となって覆い被さるのを感じた。


――これから自分達は、何万人の人間を殺すのだろうか。


それさえも、ギース・ハワードの名と共に受け入れている、自分自身が怖かった。


ただ一人、タン・フー・ルーだけが重傷ながら生存していたとの報にも、
ギースは何の反応も見せなかった。



第二回キング・オブ・ザ・ファイターズを開催したい。
ギースのその進言を、ボスは待っていたように受け入れた。

八極聖拳の死は、チャイナタウンの死でもある。
高齢を理由に、今や薬学へ専念しているリー・パイロンはもはや驚異ではない。
元々リー・ガクスウほどの器を持った男ではなかったから、
リー一族の復興も所詮は付け焼刃だった。

今はまだしぶとく生きているリー・ガクスウが一族を取り仕切っているが、
もはや死に損いである。
チャイナタウンの八極聖拳へ頼る比重は果てしなく大きかった。

チャイニーズマフィアも根気強い制圧でもはや死に体。
後はジェフ・ボガードの命さえ奪えば、チャイナタウンは組織の物となる。
それはそのまま、サウスタウン全域を組織が支配した、ということだ。

ギース・ハワードによる八極聖拳の焼き討ちは、
チャイナタウンに手も足も出なかったボスには願ってもない成果だった。

その男が、再び金を生む魔法の大会を開きたいと言っている。
失敗の可能性など考えもしない。
全てをこの男に委ねれば何もかもが上手く行く。

ボスがこの申し出を受け入れないはずがなかった。



演舞を終え、最後の精神集中をしていたギースが、
全てが終わったことを告げるように目を開いた。
それを待っていたかのように、ホッパーがタイミング良く報告を持って来る。
ギースはそれを、眼と口元を歪ませて聞いた。

ホッパーは、若干13才という年齢ながら早熟で良い体格をしており、
病的な記憶力の良さもあってすでにギース直属の秘書をしていた。
サングラスで目元を隠したその姿からは幼さは見えない。

銃もかつてリッパーが天才と称した通りの腕前で、
完全実力主義であるギースの政策の元ではコネ出世とは言い切れない物があった。
ギース・ハワードはリッパーとホッパーという、強力な右腕を手に入れた。

だが、その彼に足りないのは未だ手に出来ないでいる肉体的な強者である。
組織力、政治力はこの街を手に入れ、さらに周囲へと手を伸ばせば
合衆国という権威もある。決してシュトロハイム家に反抗出来ない物ではない。
現にシュトロハイム家は世界中に勢力を持つにも関わらず、
アメリカは全くの白紙なのである。

しかし、闘いとなった際に対抗出来る人材が、今は自分一人しかいない。
表立っての戦争では世界中を巻き込む規模になる。
そんな無意味な事は互いに望んではいない。
この闘いを制するのは、原始的な、肉体的な強さを持つ殺し屋の数なのである。

あの手紙を読んだ後のギースは、
何としてでも強者を手にせねばならないという焦燥に囚われていた。
組織のボス程度、力で制圧出来ない戦力では、組織を手に入れても何の意味もない。

それ故に再び開いたキング・オブ・ザ・ファイターズ。

だがその優勝者は――


「ジェフ・ボガードか……」




「ギィィィス! 貴様ぁー!!」

ギースタワーの一室で、命を吐き捨てるような咆哮が響いていた。
複数の大柄の黒服達に身体中を掴まれても、その勢いは収まることを知らない。

「優勝を成し遂げたにしては随分とご機嫌が悪いようだな、ジェフ」

「ふざけるなぁぁ!!」

ジェフ・ボガードの怒気と共に、黒服達は力ずくで四方へ四散させられた。
銃に手を伸ばすホッパーをギースが止める。
ジェフは烈火の如く直線にギースへと奔ると、へし砕く勢いでデスクに手を突き、
20cmほどの距離まで顔を近づけてギースを睨んだ。
その背を起き上がった黒服達が再び押さえ付けている。

「何をそんなに怒っているのか私には解らんのだが?」

片肘を突き、邪悪に頬を吊り上げるその様はジェフには肯定に見えた。
いや、そもそもタンの広大な敷地内を隈なく炎に包める人間など、
よほど内部に精通した人間しかいない。
そしてそれを行える武力を持っている男など、この世界に一人しかいないのだ。
黒服では、止められない。

「立て! ギース! この場で俺と闘え!
 死んで行った道場の皆の痛みを、貴様にも刻んでやる!」

「断る」

――何ィ!!
ギースの即答にジェフの神経はさらに逆撫でされる。

「そもそも不慮の事故で古びた敷地が燃えた程度、何だと言うのだ?
 八極聖拳など老いぼれの草臥れた拳に過ぎん。
 すでに秘伝書を手にしたお前があんな物に囚われる必要もなかろう。
 お前は解放されたのだ。もっと喜ぶが良い。ハッハッハッ」

刹那。
ジェフの拳がギースの顔があった場所を通過して、背後の壁に突き刺さった。
眼前に迫ったジェフの顔は、怒りを押し殺した静かさを感じる。
何とか冷静さを保ち、言葉という理性を紡ぎ出そうとしている。

「――ギース。いつも治療箱を持って道場に居た子供を覚えているな?
 いつもお前の背を追っていたあの子だ。
 ――死んだぞ。お前に助けを求めながらな、ギース……」

ジェフの眼は怒りに充血しているのか、哀しみに濡れているのか解らない。
だがギースにはそれが弱さに見えた。
そんな取るに足らないことで暮れているこの男やはり幸せ者だ。
殺したいほど憎んでいるのかと思えば、そんな小枝に絡まっている。

「あのような煙霞痼疾な所で安穏と生きているから死ぬことになる。
 何の波風も立つまいよ」

「貴様! そこまで堕ちたか!!」

ジェフ・ボガードの第二撃目が飛んで来た。
利き腕の左で受ける。
その渇いた音と共にジェフの歯軋りが耳を刺激する。

――耳障りな。
不即不離と言えた縁もこれまでだ。

「ジェフ、そんなに私と闘いたいのならお前も相応の物を用意しろ」

「何だと!」

――そうだ。

「――秘伝書だ。後日、改めてお前の家へ行ってやる。
 あれは八極聖拳などが持っていて良い物ではない。
 あれを賭けて私とお前が闘うことを、秘伝書も望んでいる。そうは思わんか?」

手前勝手な言い草に、ジェフの拳に力が篭る。
それを押し潰すように、ギースの左拳も握る力を強める。

ギリギリとした音と、それ以上の緊張感が優勝者を賛美するはずの部屋を包んでいた。

「それともお前はただ座っているだけの私を殺してそれで満足なのか?
 私は勝負してやると言っている」


――逡巡の後、

苦痛を噛み締めるような吐気と共にジェフの腕が下がる。
ギースはおどけたジェスチャーを取りながら手を離した。
ジェフはギースの眼を正面から睨むと何も言わず、背を向けて歩き出した。

「賞金の小切手は後で送っておく。
 灰になったタンの道場でも建て直すが良い。ハッハッハッ」

その言葉に唇を噛み締めながら、ジェフは去った。
激しく怒る男の背というのは何故か伝わる物だ。
その背中を見た者は、慄き、凍りつき、戦慄の鳥肌に支配されるだろう。

だがジェフ・ボガードの背は、怒りの刺青が掘り込まれたように猛り狂いながらも、
どこまでも哀しく、天へ嘆くような顔をしていた。

ギース・ハワードをその手で殺す運命を受け入れたように――



子供は大人を完璧な人間だと思い込む習性を持っている。
自身が大人に近づくに連れ、それが幻想であったことに気付くのだが、
サウスタウンの打ち捨てられた子供達の多くは、それにすでに気付いている。
自身の成長ではなく、大人の裏切りで強引に気付かされる。

テリー・ボガードもその一人だった。
だが、そんなテリーの目にさえ、ジェフ・ボガードは完璧な人間に映った。
本来の子供が持っているはずの幻想を、テリーはジェフに与えられていた。

そのジェフが、慟哭を響かせながら顔を崩して泣いている姿は、テリーには衝撃だった。
手紙を置いて出て行ったきり戻って来ないジェフに、
何かが壊れてしまう予兆を、テリー・ボガードは強くしていた。

手紙を見ながらむずかっているテリーに、
字が読めないのだろうとアンディが寄って来て読み上げる。
きちんと戻ると書いてあるからか、アンディの声は沈んではいない。
自分達が捨てられるなど、微塵も考えていない信頼がそこにはあった。

だがテリーには間近のそんな声さえ、遠くにしか聞こえない――


ジェフ・ボガードはほどなくして戻って来た。
その何か吹っ切れたような笑顔を見ていると、テリーはただの少年に戻される。
今までの鬱屈はこの人に会えない日々が続いたための、
らしくもないマイナス思考だったのだと、薄っぺらな理性で覆い尽くされた。

ジェフ・ボガードは完璧な大人で、自分達の親である。

彼らはすでに、本当の親子になっていた。



一週間ほどが過ぎた。
平穏が戻って来たかのように、穏やかな日々だった。
見舞いに行ったタン・フー・ルーも、包帯に包まれた姿は痛々しいが、
何事もなかったかのように優しく微笑んでくれる。
テリーとアンディにはそれが全てに思えた。

あの炎は孤児院で見た絵本の悪い魔法使いが見せたただの幻だったんだ。

そんなことさえ、半ば信仰するように思えて来た。

その日も、何もない日々だった。
朝ご飯を食べて、朝の稽古を3人でする。
昼食を取って、遊ぶために外へ出る。
稽古も嫌というわけではないが、アンディと遊ぶこの時間がテリーには楽しい。

充満する廃棄ガスが気持ち悪いが、空は至って快晴だ。
伸びをすると稽古の疲れが全て抜け落ちるようで気持ち良い。

アンディもまた同じ気持ちだった。
ジェフが戻って来てからの生活は、あの何もなくて、その全てが幸福だった頃と同じで、
このままの日々が永遠に続くのだと無垢に思っていた。

目の前でだらしなく伸びをしている兄の帽子を後ろから奪うと、走り出す。
笑顔で追い掛けて来るテリーの後ろに帽子を投げ捨てたが、
テリーの標的はすでに自分のようで、全速力で追い掛けられた。
ほのかな緊張感と、何とか撒いてやろうという野心が交差し顔が綻ぶ。

テリーは全力で追い掛ける。
だが生意気にもアンディの足も速くなっており、そう簡単には追いつけない。
それが多少、勘に触ったので、捕まえたらどんなお仕置きをしてやろうかと、
そんなことを考えながら走っていた。
それが、楽しくて仕方ない。

交差点へ差し掛かる。
アンディはすでに向こう岸だ。テリーは一気にスパートを掛けようと思った。

だが、その気勢を削ぐように、黒塗りの高級車が、テリーの前を横切った。


――黒い。どこまでも黒い漆黒。
黒光りする車体に反射する太陽光は、全てを飲み込んで、
大切な人達をあの炎の中で見たような、黒い塊にするように思えた。

身体中の神経が、おぞましい波に侵されて行くのが解った。
息が出来なくなり、立ち眩みがして、心の奥の方から吐き気がした。

――戻らなくちゃ。

早く、戻らなければ。


そんな二人を、やれやれといった面持ちで窓から見つめていたジェフがアパートから出て来た。
転がっているテリーの帽子を拾う。
愛用している帽子をほっぽり出してまで遊ぶのが楽しいらしい。
その微笑ましさにジェフの頬も自然と緩む。
青いチャイナ服を、太陽の熱が包んでいる。

そんな心地良い暖かさを引き裂いて、黒い車は現れ、目の前で止まった。

スキンヘッドに薄いヒゲを蓄えた男が車から降りて回り込み、
ゆっくりと後部座席のドアを開いて行く。
得体の知れない幽鬼が地上に降り立つように、その男は、ゆっくりと、ゆっくりと、
大地に足を突き、屈めた背を伸ばすと、凍てついた氷が如き視線を、
突き刺すようにジェフ・ボガードへと向けた。

風が、荒れている。


「――ギース……」




「遅れてしまってすまなかった。大会の事後処理の雑務が思いの外多くてな。
 お前が倒してくれた組織のファイター達の処遇に頭を悩ませていた」

「随分、お喋りになったものだな、ギース。
 昔のお前は口数の少ない男だった」

テリーの帽子を懐に仕舞い、ジェフはギースを見た。
黒い革のベストを着たスーツ姿。眼も黒く淀んでいる。
初めて会った頃の比ではない、濁りに満ちた、芯まで悪に染まった眼だ。

「お前は昔から昔話が好きな男だったな」

地を嬲るように突き刺している足からは、自然を腐敗させる粘液が溢れ出ていて、
ギース・ハワードという男の周囲だけ大地が死んでいるようなイメージが見えた。
怨霊のような大地の悲鳴を、貪りながら邪悪が近づいて来る。

「――秘伝書は?」

ジェフは無言で懐に手をやると、30cmほどの巻き物をゆっくりと大地に置いた。
ギースがそれを目を細めて見る。

ジェフは右手、左手と、愛用のグローブをギュッと締めた。
これから手を汚すことになるのならば、最後まで――

「今のお前にはこの秘伝書は決して渡せん」

――構える。
八極聖拳、出勢の構え。

「渡して貰う気などない。――奪うつもりで来た」

対して、ノーガード。
ただ、誘うような邪悪な笑みと凍りついた殺気を放っている。

構わず、ジェフは右の突きを打つ。
上体を反らし、ギースはそれを躱す。続いて左の直拳。
これもスウェーだけで躱す。

さらに続けて打ち込まれた右の直拳をギースは回り込むように躱すと、
無防備な頭部へ、鋭く振り抜く左フックを放った。
ジェフはそれを屈み込んで躱す。
そしてそのまま流れるような流麗さで起き上がり際に右のハイキックを放った。
それを今度はギースが屈み込んで躱す。

ギースはもう一度、今度はスピードを重視した左フックを放った。
当たらない。それを躱したジェフの上段回し蹴り。再び屈んで躱す。
だがそれを見越したかのような下段回し蹴りがギースを巻き込む。
素早く反応し、軽く跳んで躱す。
両者とも間合いを取るべく後方へステップした。

――構える。

全くの互角。ギースも笑みを殺し、殺気だけを瞳に宿して構えた。

一瞬の攻防。

先に拳を当てたのはギースだった。
ジェフのフェイント気味の突きを弾き、左の裏拳を当てる。だが浅い。
すぐに返される左フックをギースはまたもスウェーで躱す。
続けて放たれた左の回し蹴りも上体を逆に反らして優雅に躱した。

徐々に、ギースが見切り始めている。

さらにギースは右の直突きを上体を下げて躱すと、
そこを狙ったジェフの下段からの突き上げを右手で押し返すように反らした。
左フック、そして振り戻す裏拳。躱されたが掠った。続けての右拳。
ジェフはそれすらも躱す。

――ギースのボディが空いた。

身を屈めて踏み込みながらボディに虎僕子と呼ばれる両掌打を打ちつける。
当たったが――浅い。すぐに頭部へ反撃の左裏拳を深く浴びた。

――わざと打たせた?
ジェフが気付いたときにはもうそのまま左のハイキックが突き刺さっていた。
致命的な隙の出来たジェフに、ギースはゆっくりと力を乗せた右の上段回し蹴りを放つ。

バチィ!

初めて大きなダメージを刻む音がし、ジェフは脳を揺さぶられるままに倒れていた。



テリーは走っていた。
アンディを追い掛けていたときは決して切れなかった息が、嘘のように苦しい。
足が重い。悪夢の中で怪物に追い掛けられているときのように、足が動かない。

――もっと速く、もっと速く。

そう思えば思うほど、黒い怪物が両足に鉛を刻む。

テリーが追い掛けて来ないことに気付いたアンディも、
嫌な予感が脳裏を過ぎり、走って来た道を全力で戻っていた。

何か、絶望的なことが起ころうとしている。
赤いレンガの建物が、血が染み込んでいるように見えた。



ジェフは風を受けていた。
リョウ・サカザキに速射したそれではない、しっかりと気を練り込まれた烈風拳。
熟練した内外功を以ってしても、そのダメージは身体中を切り裂く。

だが、撃ち返す。
パワーウェイブ。力の波がギースに喰らいついた。
ガードしたギースの肉体からは焦げ臭い煙が立ち昇っていた。

「さすがに威力が増しているな。秘伝書のお陰か?」

ダメージは受けたはずだが、ギースはまだ余裕有り気に見えた。

――出来れば、八極聖拳で倒したかったが……

ジェフの呼吸音が5mほど離れたギースの耳にまで届いた。
大地が、震えている。
だがそれは嘆きではなく、振り絞るが如くジェフに力を与えているようにギースには見えた。

大木のような男だと、ギースはジェフを評していた。
今、その大木は自分を倒すために、大地の養分を撫でるように取り込んでいる。
静かで、暖かい闘気。
あの時から何も変わらない、あの時のままの――

刹那、ジェフの身体が跳ねていた。
距離を一瞬で詰める跳躍。
そこから振り下ろされたハンマーのような拳はギースの防御を崩し、
ジェフに力の乗る間合いを掴ませていた。

「チィ!」

力任せな左のボディブロー。
そして右はスーツを着込んだギースの襟首を抉るように掴み、
裂帛の気合と共に反対側の地面へ投げ付けていた。

受け身を取るので精一杯の、瞬間の荒業。
だが止まらないジェフは獣のような咆哮を上げながら倒れたギースへと
全力の拳を打ち下ろしていた。
死の危険を察知したギースの肉体が俊敏に転がって狙いを外す。
ジェフの拳は手首までコンクリートの地面に突き刺さっていた。

ギースの意識が思わず、そこに動く。

それが隙になったと気付いたときには、右の肩口に覚えのある熱が打ち付けられ、
身体に焼印が如く熱線を刻みながら、巻き込まれるままに吹き飛ばされていた。

――バーンナックル。

ジェフ・ボガードが最も得意とする、必殺の闘気を乗せた拳。

これは、ケンカだ。

死んで行った道場の仲間達の恨みを背負って、八極聖拳で倒したかった。
だが、それを本当に望んでいるのかなど、生者である自分に解ろうはずもない。
少なくとも、あの治療箱の少年が望んでいないことは確かだろう。
タン先生も、弟子同士がその技で殺し合うことで、心を痛めないはずがない。

ならば、ケンカだ。
ジェフ・ボガードという男と、ギース・ハワードという男が単体で、意地をぶつけ合う。
正義もなければ悪もない。
この男の目が覚めるまで、拳を打ち付けてやるだけだ。

「クックックッ、お前も八極聖拳が無力であることを認めたか。
 秘伝書の力を使った喧嘩殺法――今の方がよっぽど強いぞ、ジェフ」

「秘伝書は何も教えてはくれん。ただその恐ろしさが記されてあるだけだ」

「恐ろしい? お前も所詮、タン・フー・ルーと同じ臆病者だったということか?
 ――笑わせる」

「――話は終わりだ、ギース」

バーンナックルで右のグローブに纏った闘気が、
そのまま手首を伝い、肘を伝い、肩まで伝って蒼く発光している。
ゆっくりと、ゆっくりとジェフは標的へ向けて足を進めた。

それを一瞥するとギースはただ、歪んだ笑みを浮かべた。


――周防辰巳という男を知っているか? ジェフ。
日本で妖の者、闇天狗などと形容される奇妙な術の使い手でな。
長身で線の細い男なのだが、大南流合気柔術とやらの達人だった。
殺気のまるでない、棒きれのような男だった。

――だがその男に殺気を打ち込むと、その細い腕に吸い込まれるように呑まれてな、
気が付くと私はいつも受け身を取る間もなく地面に打ち付けられていた。
その拳は明らかに殺人術であったにも関わらず、その男は殺し合いはしないと言う。

――勿体無いとは思わんか?
私はその技を奪い、殺し合いに使ってやった。
――周防辰巳本人の身体を使ってな。

あの鮮やかに広がる赤色はとても美しかった。
拳を鍛えるということは、その血を鍛えるということなのだな。いや魂か?
ドブネズミの血とは明らかに違ったよ。

――お前はどうだ? ジェフ。



ジェフの光る拳は、時間が止まったかの如くギースの左腕に受け止められ、
そして、突如、時間が動いていた頃の勢いを思い出したように、
そのまま後方へ、頭から大地に捻り込まれていた。



赤――広がる。


何とも、思わない。

綺麗だとも、汚いとも。
嬉しいとも、悲しいとも。

ジェフ・ボガードという命が燃え尽きようとしているという事実さえも、
それを望んだ自分の心さえも、何も、感じない。


――意識は13年前の拷問部屋へ居た。

今度は、自分が鞭を打っているような気がした。
お前が生きているから自分は救われないと醜く喚きながら、肉を打っている感触がある。
同時に、打たれている感触もある。
あの時と同じ、痛みは感じない。
ただただ無様に、踊り続けている感覚だけがある。


赤い血を見た。
まだ広がっている。

こんな小さな身体のどこにこんなにも水が入っていたのか。
そう思うと喉が渇いて来た。
赤黒い血反吐は、自分の中にも見える。

倒れている男が、ギース・ハワードに、
それを眺めている男が、ヴォルフガング・クラウザーに見えた。

でも、今度は逆。

瞬きをしたら、倒れている男がヴォルフガング・クラウザーに、
それを眺めている男が、ギース・ハワードになった。

これで、正解だ。
これが正しい。

その正しさだけが、ギースの理性を保っていた。

秘伝書を拾い上げる。
何故こんな物が欲しかったのか、今は解らない。
でもすぐに思い出すだろう。

投げ捨てるように、部下にそれを渡す。
車へと戻った。
部下が入れと言わんばかりにドアを開ける。
言われなくても解っている。お前に急かされる筋合いはない。

何か、声がする。
ジェフ・ボガードには、死体に虫が集るように、子供が付着していた。
眼が合う。


――くだらない。


用事は済んだのだから、後は帰るしかない。

ギース・ハワードは車に乗り込み、無表情に、その場を去った。


――本当にくだらないことをした。




走る目標が染み渡る赤になっていることに気付いてからは、
もう足の鉛が溶けて、そのまま足までなくなってしまったかのように、
ただそこへ倒れ込むしかなかった。
呆然と立っていることさえ、残酷な重力は許してくれなかった。

「――おっさん!」

何か、赤い絵の具が零れてしまったんだと、
テリーはそう信じ込むように上着でそれを拭いた。
顔の赤は取れて行くが、地面の染みは広がっていく。
テリーは必死に地面を拭き取った。

車のエンジン音がした。
誰かが助けてくれるのかと祈るように振り返った先には、
冷たい、凍るような冷ややか眼があって、身体が凍結し、
エンジン音に揺さぶられるままに心臓が揺れていく感覚に襲われた。

黒い車は再びすれ違い、テリーの前を横切って去って行く。

目の前が真っ赤になった。
その色の熱に溶かされでもしたのか、身体は動きを取り戻してくれた。

また、赤が広がっている。
あんなに拭いたのに、まだ広がっている。

「ちくしょう! ちくしょう!」

拭かないと。全部拭き取らないといけない。
全部拭き取って、おっさんに返してやらないといけない。

赤が、歪んでいた。
段々見えなくなる。
壊れてるのは自分の目だと解ったら、気持ちは楽になった。
笑いが込み上げる。必死に拭き取った。

――と、頭に感触が触れた。

帽子。

ジェフはゆっくりと懐から帽子を取り出し、テリーの頭に乗せた。

「――泣くな、テリー…… 男の涙は、みっともないぞ……」


泣く――

泣い、てる――?


目が壊れてるんじゃないの?

この笑いは、嗚咽?


逃げ出したい理解が、テリーに言葉を叫ばせた。

「おっさぁん!!
 嘘だろ! 何やってんだよ! しっかりしろよ!!」

ジェフは何も言わず、優しい、どこまでも優しい、いつもの笑みを浮かべていた。

「――そうだ」

呟きにすらならない、か弱い呼吸のような声――
ジェフは痙攣する腕をゆっくりと持ち上げると、もぞもぞと、グローブを外した。
一緒にテリーの手を握る。

「――なんだよ……」

「これが、欲しいって、言ってたな、テリー……
 これは…… 最強の男が持たないと、いけないんだろ?
 これからは、お前が……」

「なんだよ! いらねぇよ!!
 オレまだ一回も、一回もおっさんに勝ってねぇよ!!」

ジェフの大きな手が、テリーの頭を綿毛に触れるように撫でた。

「なら、強くなれ……」

帽子がずれ、目の前が見えなくなった。
でも、ジェフが笑っているのは解る。
目を開いても、世界は歪んだままだから、同じことだ。

ただ、歯を食い縛った。
食い縛っている間だけ、時間が止まることを祈るように。
――ただ、食い縛った。


アンディの声がした。
父の名を呼びながら泣きつくアンディの頬を、ジェフの手が優しく撫でていた。
流れ付くジェフの血が、アンディの綺麗な顔を赤く染めた。
見えているのかいないのか解らない目で、ジェフが申し訳なさそうに笑う。
アンディの高い声が、現実という子悪魔の囁きに聞こえた。


――時間は、確実に絶望へ向けて動いている。


右手で、テリーを、左手で、アンディを、
それぞれゆっくりと、ジェフの手が撫でた。

「――雄々しく生きろ、息子達……」

触れた手が、もう冷たい。

泣けない。この人は泣くなって言ったんだ。
泣いたらそのまま、この人の命も零れてしまう。

嫌だ。そんなのは嫌だ。
やっと大好きな大人ができたんだ。幸せなんだ。
アンディと二人だけの生活は辛かった。
盗みだって、本当は嫌だったんだ。
冷たい地面に凍えながら寝ていた自分達に暖かい毛布をくれたのはこの人だ。

なのに、なんで――

自分はただこうして、最期を看取ることしか出来ない――


「――父さぁぁーん!!」



涙が――零れた。


「――テリー…… やっ、と、父さんと、呼んだ、な……」



もう一度、穏やかに微笑んで、ジェフ・ボガードの大きな手は、力を失った。



立ち上がったテリーは、泣き崩れるアンディの声を聞きながら、
形見となったグローブを握り締め、天を見上げて、狼のように吠えた。

何度も、何度も、何度も――


飢えた、狼のように吠えた――


Devastatingly hurt wolves
smeared with wickedness.
Their howling cry echo in the town.



西暦1981年――
白昼堂々と行われた、ジェフ・ボガードの暗殺だった。




――お前の呪いは、俺では解いてやれなかったな…… ギース……


【12】

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