借金苦による両親の自殺という壮絶な体験をしてから、何年が経っただろうか。
幼い兄妹を巻き込まなかったのは、あるいは彼らの愛だったのかも知れないが、
それで残された子供達に、幸福という道は有り得なかった。

顔色を窺うようにヘラヘラと接してくる親戚の家をたらい回しにされた
ブロンドの髪の子供達は、やがてイギリスからアメリカへ流され、
やっとゴミ箱を見付けたとばかりに、犯罪都市、サウスタウンへと笑顔で投げ捨てられた。

自分が生きるだけならば、腐ることも出来るし、それを放棄することも出来る。
だが兄には8才も年下の、幼い妹が居た。

どんなに荒れても、どんなに汚れても、そこには常に妹の無垢な監視がある。
それを苦痛と思えるほど彼は絶望してはいなかったので、
どんなに荒れても、どんなに汚れても、妹の前では優しい兄で有り続けた。

それは決して嘘ではなく、演技でもなく、
本来ならばその姿のままで大人になるはずの、当たり前の姿だったのだろう。

だが、この街で生きて行くためには自分一人の力だけではとても無理だったので、
彼は狂気という、もう一人の自分の力を借りた。

武器を手に、殴打し、殴打し、殴打し、金を手に入れる。

食糧を手に入れ、優しい笑顔でそれを妹に渡す瞬間には、
彼は血のついたスイッチを切り、過去の自分と繋げることが出来た。
何人死んだか解らないし、何人殺したのかも解らない。
相手が死のうが生きようが関係がなかったので、
百人殺したかも知れないし、一人も殺していなかったかも知れない。

ただ、適当に武器として使った鉄パイプがとても手に馴染むことだけが、
彼には確かな物として解った。

それは、二重人格などではなく、どちらも本当の自分。
妹の笑顔を見るのと、血を見るのが大好きな、とても健全な自分だった。
生きて行くのは、とても苦しい。



西暦1983年――
ジェフ・ボガードが暴漢に襲われて死亡したと新聞に出てから、すでに2年が経った。

回復したタン・フー・ルーはこの事件に心を痛めて、
生涯現役を誓った後、もう弟子は取らぬと隠居生活に入り、
チャイナタウンの八極聖拳という勢力は消えた。
強力な隠れ蓑を失ったチャイニーズマフィアは沈黙を余儀なくされ、事実上、消滅。
リー一族も頭となれる人材を欠き、すでに無力と化した。

もはやサウスタウンで組織に反抗出来る勢力は消え失せ、
時代は組織の完全独裁体制へと突入した。

賭博、麻薬、密輸、売春、贈賄、買収――
枷が外れた無能の集団達は有りとあらゆる犯罪に手を染め、
街はかつてないほどの暗黒へと引き摺り込まれていた。

――銃声が聞こえない夜はない。

この未曾有の事態を内から目の当たりにするギース・ハワードは、
未だ“組織の幹部”という地位に甘んじていた。
いや、自らそこから動こうとしない。

ギースがやることと言ったら、毎年KOFを開いたり、
何を思ってか自らマーシャルアーツの大会へ出たり、
長かった髪をバッサリと切ったりなど、
傍から見ている分には地位に甘んじ、すでに野心を満たしたかのように思えた。

だが、リッパーは信じない。
この人は何かを待っているのだ。

プロジェクトGという、彼がサウスタウンを手中に収める計画の、
最後のピースの登場を――



さらに何年か経った気がしたが、兄妹の生活は変わらなかった。
ポートダウンタウンの、屋根のない廃墟を自宅に構え、今日も夜の街を徘徊する。
あれから一歩も外へ出していない妹は、
それしか出来ない人形のようにいつも微笑んでくれる。

妹の瞳はいつだって無垢だ。
こいつはこのままで良い。いつまでもこうして、その笑顔を守ってやる。

三日ぶりの獲物を見つけた。殴打し、殴打し、金を奪う。
鉄パイプはとうとう赤黒く錆びてしまったが、綺麗な血は今日も昂ぶらせてくれた。
この血をもっと見たい。新しい武器が要る。

彼は、何かの習性を持った虫のように金属音へ吸い寄せられ、鉄鋼所へと足を運んでいた。
鉄パイプがたくさんある。それら全てが真っ赤に見えて、彼は興奮した。
一番赤い物を新しい武器としようと考えた彼は、一個一個丁寧に、
宝物を扱うように選んで行った。

その様子が、工場長の目に止まる。
少年が作業を手伝ってくれているように見えた。
見ればなかなか良い筋肉を持っていたので、労働員として働かないかと誘ってみる。
この工場は出来たばかりで、まだ人手が足りない。

少年は仕事をやらないかと言われても、全く意味が解らなかった。
自分はただ武器を選んでいただけだし、
そもそもなぜ自分が仕事などをしなくてはならないのか。
仕事をするのは大人の仕事だから、子供は仕事をしなくて良い。
それは当たり前のはずなのに、何故か自分に仕事をしろとこの男は言っている。

1983年、少年は17才になっていた。
毎夜の過激な運動で肉体も鍛えられ、引き締まった良い身体をしていた。
だが、少年は子供だった。
両親が自殺したあの日から、時間は全く進んでいない。

自分はあの時のままだし、それに妹もあの時のままだ。
子供は仕事なんかしなくても、親が仕事をしてお金を持って来る。
そんな当たり前のことをこの工場の男は解っていなかったが、
駄賃のような軽い日銭は彼にはとても高価で、
少々良い物を買って帰ったら妹は喜んでくれた。

いつもより嬉しそうな笑顔。いつもとは違う笑顔。
妹は大きくなっている。彼の知らない所で時間は動いていた。
仕事をしようと思った。
たまに妹を連れて外に出るようになった。
一日に一食もパンが食べられるようになった。

相変わらず家の屋根はない。
生きて行くのは、とても苦しい。



ギース・ハワードという名前をよく耳にするようになった。
この工場の経営者らしい。
最近よく現れて工場長と話をしている。
以前から夜の街でよく聞いた名前だったことを思い出した。

その名を出す時は皆、不自然な顔をしていた。
工場では媚びを売るような、夜の街では恐怖するような、そんな不自然さだった。
この暴力の街で最も恐怖される支配者の名前を、彼は記憶した。

季節は冬になった。

まだ差し掛かったばかりだというのに、凍るように寒い。
仕事もはかどらずに、またろくに食事が出来なくなった。
屋根のない家で凍え死なないよう小さな毛布を買った。
益々金がない。寒さのせいで、夜の街にも血を流してくれる獲物は少ない。
その熱で、少しでも暖まりたいのに。

いつもお腹が空いていたが、食べ物は全部妹に渡した。
妹は遠慮して、兄にも食べさせようとした。
この優しい妹が大好きだった。
一枚の毛布を、ドレスのように着せてやった。人形のように可愛い。
本物のドレスを着せてやりたい。自分はどうなっても良い。

よくよく考えれば金を持っている獲物はすぐ近くに居た。
工場の男を殺して奪えば良いだけの話だった。
元より他人など誰も信用はしていない。
大人は勝手にあの世へ逃げるのだから、どこで殺してやろうと同じだろう。

そんなことを考えていたから、ほんの些細ないざこざで、彼のタガは外れた。


――ぶっ潰してやる!



「――何だと?」

傘下の鉄鋼所の全機能がストップという報は、
ギースが宿泊していたホテルへ助けを求めるように迅速にやって来た。
来たる日のための足場固めの一つとして用意した工場が、
たった一人の人間が暴れただけでその全てを停止した。

ギース・ハワードはその報告を無表情に聞くと立ち上がった。
自分の計画を邪魔する人間に対するこの人の動きを、リッパーは重々知っている。
今日も、血の雨が降る。


ギースが到着した工場は、命を失ったように光を失い、
ただ暗いだけの世界で、泣いているような不気味な金属音を鳴り響かせていた。
充満した血の咽ぶ臭いにリッパーですら顔をしかめる。
すぐに工場長の男が泣きながらギースの足に縋り付いて来た。

ギース様…… ギース様……
そう言いながら助けを求める彼の顔はヘコんだピンポン玉のような形をしていた。
ギースのスーツのズボンに血がねっとりと付着する。
ホッパーが乱暴にそれを咎めようとするまでもなく、
工場長の頭は弾ける音と共に醜く潰れた。


「ヒャーヒャッヒャッヒャッヒャ! 潰れやがったぜ! トマトみてぇによ!
 ヒー! ヒー! キヒヒヒヒヒ…… ヒャーッハッハッハッ!!」


――狂人。

半顔、刈り込まれた髪までもどす黒い赤で染めた化物が居た。
心底可笑しそうに腹を抱え、上体を痙攣させている目の前の男を前に、
ホッパーの銃を握る手はぬかるみ、助けを求めるようにギースの顔を見上げさせた。
怒気に震えるような、静かな無表情。
何よりも怖い、ギース・ハワードがそこに居た。

「ギース様……」

ギースは無言で狂人の眼を睨んでいる。

「――ギース?」

狂人は血でベッタリと粘着力を持った鉄パイプを頬擦りするように抱えながら、
ギースという名前を認識した。
それが自分を睨んでいるのが解ると、その不快感のままに睨み潰そうとした。

だが、――怖い。

この暗闇の中にあって、尚も邪悪な光を発しているように見えるその瞳に、
狂人はただの男に一瞬で戻された。
近くでギース・ハワードを見たのは初めてだった。
眼を見たのも初めてだ。
彼は今、凡百の人間達と同じように、不自然な表情でその男を見ていた。

――殺される。

ハッキリと解った。
だが、それが解ったからこそ、彼は怯えを殺すことが出来た。
死ぬわけにはいかない。
自分が死んだら、妹はどうなる。
ここで殺されるわけにはいかない。

毛布に包まって震える、どこまでも無垢な妹が彼に牙を与えた。
鉄パイプの感触がなくなる。
完全に自分の手足だ。

ギース・ハワードの頭を、貫く。

「イヤァアア――ッ!!」


――握り、潰す。
ギースは閃光のような鉄パイプの一撃を左手で掴んで止め、捻り込むように曲げた。
男の身体も曲がる。
捻じ切れそうな体勢で、男の顔が目の前にある。

ギース・ハワードはこの男の眼を再び睨みつけるように見た。
狂人だ。
確かに狂っているが、虚無ではない。飢餓が故に狂っている。
全てを捨て去った狂地ではない。何かの誓いが、この男の牙になっている。

この状況になっても尚、猛禽類のように鋭い狂眼をしているこの男は、
あるいは同じ年の頃の、自分自身に思えた。
全霊で、右の拳をその顔に打ちつける。
肉体が吹き飛ぶには充分な威力だったが、
ギースに握られた鉄パイプによってそれすらも許されない。

いや、手を離さないのだ。この男が。
悲鳴も上げずに再び同じ場所へ顔を戻し、精一杯の抵抗とばかりに眼を見開いている。
もう一撃、繰り返す。男も、繰り返す。

無表情でこれを繰り返す二人の男に、リッパーとホッパーは戦慄した。

ギースは左手の鉄パイプをついに離し、
勢いで浮いた男の顔面に右の裏拳を叩き付けた。
支えを失った肉体は今度こそ弾け飛び、背後の鉄骨に悲鳴の声を上げさせる。
男の意識はそこで途絶えた。



「――お兄ちゃん」

妹の声がした。
何故ここで妹の声がするのかは解らないが、
どうやら自分は今日も仕事を終え、屋根のない家へ帰り着いたらしい。

ごめんな。今日もパンはない。
お前だけでも、食べさせてやりたい。

泣くように両腕を抱きしめると、いつもとは違った、暖かい感触があった。
――懐かしい。
かつてはそこで寝ていたことがあった気がする。

――ベッド?

ベッドで寝ているような気がした。
なんて、みっともない嘘だ。
こんなベッドがあるならば、リリィを寝かせてあげている。
自分が寝ているわけはない――

そんなことを思うと、目は覚めていた。
確かな、布団の感触。白く、柔らかい布団。

「お兄ちゃん!」

もう一度聞こえた。

――リリィ……


呆けたのも一瞬、すぐにハッとした。
時間が止まったような息苦しさを感じた。

妹のいつもの笑顔の横に、大きな、
灼熱が如き冷気を放つ手が置かれてあるのが見えた。
早鐘のように鳴り響く鼓動を抑えて、泣くような苦しさで顔を上げると、
そこには、あの恐ろしい、ギース・ハワードの顔があった。

震える。
殺されるとまた思った。
しかも、自分だけじゃない。

虚ろに愕然とする兄に、妹はいつもの笑顔で語り掛けて来る。

「お兄ちゃんは怪我をしてたから、この人が病院に連れて来てくれたんだよ。
 もう三日も寝てたんだからー」

違う。――違うんだ、リリィ。

「気分はどうだ、ビリー・カーン君」

ビリー・カーンはただ顔をそむけて、嗚咽するように震えた。
眼は、見れない。


連れ出されるままに車に乗せられた。
これからどうなるのかは解っていたが、常に妹の肩に置かれているギースの手が、
ビリーを金縛りにした。
いつでも殺せると、この男は言っている。

到着した場所は、どっしりとした雰囲気の、大きな店のようだった。
薄暗い家に居ることが多かった妹は、遊園地に来たようにはしゃいでいる。
KARUTAと看板が掛かっている。
中に入ってやっと、そこが食事をする場所であることが解った。
見たこともないような高級料理が流れ出て来る。

何が起こっているのかは解らなかったが、
妹の「わぁ」という、目を輝かせた声だけが彼の意識を支配した。

「――食え、リリィ…… 腹いっぱい食え……」

声が震えた。向かいの席で元気よく頷く妹に、次々と皿を与えた。
口元を汚して、ペチャペチャとそれを食べるボサボサの髪の妹は、
この高級料亭では場違いな存在だっただろう。
だがビリーはそんな視線も、目の前の男の存在も全て忘れて手を伸ばし、
泣くように笑いながらリリィに皿を渡していた。

気が付けば自分は全然食べていない。
自分の腹も、極限まで消耗している。殴られた顔も痛むし、動けないほどの疲労もある。
なぜ自分はこんなに疲れていて、こんなにも痛いのだろうか。

それを考えてしまうと、

――現実が、帰って来た。


顔を上げ、口を開けたまま再び震えた。
目の前の男は、頬を吊り上げた笑みを浮かべたまま、自分を見ている。
手はまだ、妹の肩に置かれている。
それは、家畜に飯を与えて太らせてから喰う、支配者のそれだった。

「――ビリー・カーン」

「な、なんだ……」

擦り切れた声が、振動のように出た。
再び見てしまったギース・ハワードの恐ろしい眼は、
どこか遠くを見るような、虚ろな暖かさがあった。

「私はお前のような無茶な男が大好きだ」

それだけ言うと、ギース・ハワードは妹の肩から手を離し、食事を始めた。
呆然としていたビリーも、釣られるように食事を口に運んだ。

美味い……
こんなに美味い飯は、初めて食べた――

豪勢な高級料理は、水で歪んだように見えた。



食事が終わると、ギース・ハワードはそれだけで去って行った。
異風な門を出て、自分の時間だけが止まったように、
ここの社長は行方不明だったとか、奥さんが美人だとか、娘さんも上品だとか、
そんな他愛の無い噂話がビリーの耳を足早に駆け抜けて行く。

9才の妹が丁寧にお辞儀をしているのに、ビリーは全く動けずにいた。
強引に時間を振り絞る。

「ま、待ってくれ!」

やっとその一言が押し出せたが、一歩踏み込めた所で彼の時間は再び硬直した。
自分が何を言うのか、解らない。

ギース・ハワードは口の端を吊り上げて笑うとそのまま黒塗りの車に消えた。
残されたのは手渡された、ほんの少しの重みがある封筒だけだった。


屋根のない家にゆっくりと歩いて帰った。
妹が美味しかった食事の話を嬉しそうにしている。
何故こんなことになっているのかは未だに解らないが、
ビリーにはそれが、何物にも変え難い幸せだった。

妹が一枚しかない小さな毛布を巻きつけて来る。
馬鹿なことをしている。
この毛布はお前の物じゃないか。

脱ぎ捨てて、妹に毛布を巻き直そうとすると、リリィはむずかってそれを拒んだ。

「お兄ちゃんは怪我してるんだから、今日はお兄ちゃんが使わないとダメ。
 ごはんが暖かかったから、わたしは大丈夫だよ」

そんな事を言う。
少し怒ったような表情だったが、すぐにいつもの笑顔を見せてくれた。
本当に馬鹿みたいに、優しい妹を持った。

ビリーは涙ぐむ瞳を隠すように、顔をそむけて舌打ちした。
そこにはまだ開いていない、ギースからの封筒があった。
その封筒に、何が入っているのかは解らない。
希望かも知れないが、絶望かも知れない。
この街に希望などはないのだから、それならば開けない方が良いのかも知れない。

だが不思議とギースという男が信用出来たビリーは、もうゆっくりと封を切っていた。
肩口から覗き込む妹の顔がある。

そこには、ひとつの鍵と、一枚の地図が入っていた。
何のことだかは解らないが、そう遠くない、同じスラムの居住区だ。
そして、鍵。そこには宝箱でもあるのだろうか?

外はもう夜だったが、ビリーは妹を毛布に包んで置き、
誘導されるようにその場所へ行っていた。

古びたアパートがある。
変色し、ヒビが入った汚らしいアパートだが、ビリーには貴族の城のように見えた。
地図に書かれている番号の扉の前までやって来た。
ここに誰が居るのかは解らないが、持って来た鉄パイプさえあれば不安はなかった。
ゆっくりと、螺旋階段を上がる。

鍵はそこのドアの物だった。
まるで力を入れるでもなく簡単に、耳障りな音と共にそのドアは開いた。

――そこは、別世界だった。

天井の電灯が太陽のように輝き、狭い部屋を永遠に広がる大草原のように照らしていた。
家具が散乱し、殴れば砂が落ちて来そうなアパートなのに、
そこには残り香のような暖かさが、抱き包むように充満していた。
暖かく、どこまでも哀しい穏やかな空気が、そこを支配していた。

散らばっている紙を何気なく手に取る。
引き裂かれた写真のようだった。
大切な物には持ち主の魂が宿ると言うが、そんな圧迫感をビリーは感じた。
自分が持っていてはいけない物だという感覚が、それを再び地面へと返す。

小さな机に、手紙が置いてあった。

Geese Howard

その文字がクッキリと目に映り、引き寄せられた。
今度は震える手で、破るように封を切る。
そこには彼の短いメッセージが入っていた。


ビリー・カーン。
この場所は好きに使って構わん。
お前にその気があるのならば、私のビルへ来い。


掃除をし、妹を連れて来た。
ここには屋根がある。布団がある。
もう寒さに凍えることもない。あの人は城をくれた。

ふかふかというわけにはいかないが、そのベッドは何よりも暖かい。
転がりながらその感触を楽しんでいるリリィの姿が幸せだった。
バタバタさせている足を行儀が悪いと叱りながらも、ビリーはどこか上の空だった。

まるで夢のようで――
このベッドで寝て起きたら、
また冷たい地面に叩き落されていそうで――


妹を寝かせた後も、ビリーは眠れなかった。
ただ、ギース・ハワードという男のことを考えていた。
何を考えているのか解らない男だ。
だが、その男が自分を呼んでいるのだけは確かな事実としてある。

ギースタワーは遠い。
ビリーは外へ出て、手当たり次第の獲物からありったけの金を巻き上げると、
大量の缶詰をリリィの枕元へ置いてイーストアイランドへと走った。

早く、ギース・ハワードに会わなくては――



「――ビリー・カーンが来ました」

その報告を、ギースは頬を吊り上げながら聞いた。
椅子は後ろを向いており、リッパーに表情は見えない。

ほどなくして、ホッパーがビリーを連れて来た。
ビリーは肩で息をしながらもホッパーを押し退け、
駆け込むようにギースの前で両膝を突いて座った。
この豪華なタワーには相応しくない汚れた服が、部屋の絨毯を汚す。

だが、スラム上がりのリッパーもホッパーも、そしてギースも、
そんなことは気にも止めなかった。
ゆっくりと椅子を回転させ、ギース・ハワードが顔を向ける。

今は別の理由で、この人の眼が見れない。
昇った陽がガラス張りの窓に反射し、まるで後光が射しているように見える。
この人は自分とはまるで格の違う、遥か上の世界の人間だと憧れるように思った。

「――ビリー」

「は、はい」

自分に掛けられた声も、どこか遠くの世界からの声のようで、
ビリーは魂を奪われたかのように礼儀正しく返事をしていた。

ギースは壁に立て掛けてあった赤い棍を手に取ると、
ビリーの前に歩み立ち、言葉を続けた。

「お前にこの棍をくれてやろう。汚れた鉄パイプよりは馴染むだろう」

そう言われて、自分が鉄パイプを持って来てしまっていることに気付いた。
とても無礼なことをしてしまったようでビリーがそれを受け取れないでいると、
ギースは一瞬笑って目の前にその棍を置いた。

美しい、どこまでも美しい赤。
鮮やかな鮮血で彩られたが如く、高級な陶器のような赤だった。

「ビリー、日本に立川虎蔵という男が居る。
 そこへ行って、その男を殺して来い」

「なっ」

驚き、ギースの顔を見た。

「その男はお前のように棒を手足として操る。
 その男を殺せる腕になったら、再び私の所へ来い」

ビリーは、ギースに何を言われようと何をされようと、それに従うつもりでこの場所へ来た。
だが、それだけは――出来ない。

彼は絶望を感じながら、言葉を紡いだ。

「お、俺には、妹が居る…… 今も、一人で置いて来てる。早く帰ってやりてぇ……」

土下座するように俯くビリーを一瞥するとギースは椅子へ戻り、
そんなことか、と笑ってリッパーを呼んだ。

黒いトランクがビリーの前に置かれる。
慣れた手つきでリッパーがそれを開けると、
中には札束がカーペットのように敷き詰められていた。
ビリーはそれが何を意味しているのか解らず、それが何なのかもすぐには認識出来ず、
ただ呆然とするしか出来ないでいた。

「その金と、そこにいるホッパーという男をリリィ・カーンのガードに付けてやる。
 後はお前が一刻も早く帰って来れば良い」

驚いたのはビリーばかりではなかった。
あまり表情は崩さなかったが、ホッパーも、なぜ俺が?という顔をしている。
ビリーも当然、黒いシルクハットを目深に被り、
サングラスで顔を隠したこの男を信用する材料が何もないし、
ギースの言葉にも戸惑うばかりだった。

だが、

「その男の年はお前とさして変わらんが、腕は無能な大人とは比べ物にならん。
 これ以上のガードはいない。
 後はその金でヘルパーでも雇えば今よりは安全だと思うが?」

そうかも知れないと、ビリーは不覚にも思ってしまった。
リリィを守るのは自分の役目であるはずなのに、
このギース・ハワードの神の世界からの声を聞いていると、
それが正しいような気がして来た。
ホッパーという男を信用する材料も、この人の声だけで充分に思えて来た。

ただ、一つだけ聞いておかなければならないことがあった。

「――何故、俺なんかにここまでしてくれる?」

「狼だ」

「え?」

「私はお前のような男が現れるのを長らく待っていた。
 ドブネズミの群の中で足掻く、気高い狼をな」

呆然としているビリーを見ながら、
リッパーはこの男がギース・ハワードの求めていた最後のピースなのだと理解した。
そんな器のある男には見えないし、組織に合う人間とも思えない。
狂気的な粗暴さを持つ、むしろ危険な男だ。

だが、自分だとてこの男とどこが違っただろうか。
ビリー・カーンという男の膝を突いてギースを見る、その陶酔したような目は、
あの路地裏の処刑場の、自分のそれと同じだった。

ギースの命令もなしに、ビリー・カーンの肩に手を置いた。

「あの人に任せておけば全て大丈夫だ」

それを見上げるビリーの顔は、決意に輝いていた。

ただ一人、ホッパーだけが釈然としない思いを描いている。
リッパーの手伝いとして連れて来られ、そのまま居着いただけの組織。
ギース・ハワードという男の強さは側に居て重々理解しているが、
リッパーのように信仰しているわけではない。

リッパーは彼の事を弟分だと言ったが、ホッパーは天才肌の男で、
ただ共存して来た腐れ縁の仲間だとしか思っていない。
その絆が深いことには違いないが、彼が信仰しているから自分も信仰する、
などという安易な思考は持てなかった。

そして、左遷のような今回の命令。
理由は恐らくこのビリー・カーンを捕えに工場へ行った際に、恐怖してしまったからだろう。
助けを求めるようにギース・ハワードに縋った自分の弱さを、この人は責めていると思った。

――屈辱だ。

ホッパーはどんなに才が有っても、まだ15の少年だった。
目深に被ったシルクハットと、大き目のサングラスの裏には、
誰にも見せたがらない童顔が隠されている。

この屈辱は、耐え難い。



ビリーはアパートへと送られ、リリィに事情を話していた。
勿論、人を殺しに行くなどと言えようはずもないのでそこはぼかして伝えたが、
これから暫く会えなくなるから、良い子にしてろと、それだけは何度も伝えた。

「なんで? なんで?」

そう聞き返して来る妹の視線が痛い。
だが、やらなければならない決意は、何も揺るがなかった。

「――あのお兄ちゃんが、お前を守ってくれる。
 お兄ちゃんがいない間は、あの人に助けて貰うんだ」

ホッパーはすでに入り口で護衛をしている。
何を勝手な事を、と心の中で舌打ちをした。

ビリー・カーンが近寄って来る。
正面に立った。背は同じくらいか。
やや自分の方が細いが、体格もそう違いはない。

手を握られた。

「――頼む」

頭を下げて、そう言われた。
あの工場で狂ったように暴れていた男とはまるで繋がらない、弱い姿だった。
その万感の想いと、少女の無垢な視線が苛立つ心を掻き毟る。

「俺はプロだ。主の命令に従うだけだ」

感情を抑えて言った冷たい言葉にも、ビリー・カーンは感謝の言葉を述べながら、
ずっと頭を下げ続けた。


この街でなければ友人関係にも成り得ただろう少年達の磨り減った邂逅が、
一年後のサウスタウンを変えることになる。



ビリー・カーンはとうとうヘルパーも雇わずに日本へ行ってしまった。
よほど自分を信用しているのかただの馬鹿なのか、
ふざけたことにガードだけではなく身の回りの世話まで自分がやるハメになってしまった。

金は預かっていたからヘルパーを雇っても良かったのだが、
本社に頼って紹介を得るのはどうにも矜持が許さなかった。

ホッパーは思う。本当にガードは自分だけしかいない。
まぁこんな要人でも何でもない9才の子供に何人ものガードが付く方がおかしいのだが、
その分、別にこの少女は誰に狙われているわけでもないため、
本当に何もすることがなく、自分でヘルパーを探す間は完全にただの子守りと化していた。

お兄ちゃんはいつ帰って来るの?と、そればかり聞く少女がうるさくて堪らない。
知らない、と答えながら食器を洗う。
自分が情けなくて仕方がない。
あの時、この少女の兄に恐怖などしてしまったがために……
そう思うと憎くさえ思えて来る。

のだが、阿呆のようにいつも笑っている少女を見ていると、
そんな気も馬鹿馬鹿しく感じて来るのが不思議だった。
相手をするのも馬鹿馬鹿しい。
適当に子供の好きそうな本を買って来てそれに相手をさせるのが一番だと思った。

成果は上がったようで、少女は食い入るように本を見ている。
字が読めるのかどうかは知らないが、本がよほど珍しいのだろう。
そういえば自分もスラムでは拾った本を今の少女のように読んでいた。

だがそんなことはもう思い出す必要もない。
自分は自分の才能で、ここまで伸し上がった。
リッパーのコネだと思われるのは屈辱で、それを考えるとリッパーにさえ腹が立った。
そもそも自分がリッパーだから俺がホッパーだというのはあまりにも安易ではないのか?

それに疑問を持った頃にはもうコンビとして定着していたので、
解消するにも出来なかった。
自分に名前も付けずに捨てた顔も知らない親を恨むばかりだ。

そんな考え事を苛々しながらしていると、
少女が頭を突き出して何事が口を動かしていた。
指差す先の本には三つ編みの女の写真が載ってあった。
同じようにやれ、と言っているらしい。

「――出来るか……!」


ホッパーは瞬時にプライドを捨て去り、
リッパーに連絡を居れてヘルパーを派遣して貰った。



黒ずんだ赤が上塗りされた真っ赤な棍を、頭を下げて両手で差し出す。
ギース・ハワードはそれを一瞥しただけで、顔を上げろ、と言った。

ビリー・カーンは一年で帰って来た。

とても良い、自信に満ちた自分好みの眼をしている。
この男は闘いとなればギース・ハワードにさえその眼に殺意を灯すだろう。
リョウ・サカザキにもジェフ・ボガードにもなかった致命的な欠損。
ギースは自分の目利きにひたすら感嘆した。

「申し訳ありません。一年も掛かりました」

そんなことを詫びるビリーだったが、ギースにはもう何も聞くことは無かった。

「後でお前の家へ行く。お前も妹の所へ帰るが良い」

「え? いや、ギース様がわざわざ……」

「構わん。あそこは私のホームだ」

それだけ言うと、ギースは自然と溢れる笑いを噛み殺すように椅子を後ろ手に回した。
リョウ・サカザキと言えば、あの男もかつて妹のために闘っていたか、と軽く回想する。
二度闘った男だが、今はどこで何をしているのかも解らないし、もはや興味もない。
道場は流行っているようだから、今も幸せに温い闘いをしているのだろう。

だが、ビリー・カーンは同じような身の上を持ちながらも、まるで違う。
リョウ・サカザキが絆と言い切った物をもし自分も持っていたら――
などと一瞬だけ考えたこともあったが、
このビリー・カーンこそがリョウ・サカザキの可能性だったのだろう。
リョウ・サカザキが陰に呑まれていたら、ビリー・カーンになっていたはずだ。

さて今、Mr.BIGのような男が現れて、リリィ・カーンをさらったりすればどうなるだろうか?
タクマ・サカザキのように道化となるのか、リョウ・サカザキのように立ち向かうのか。
一つだけハッキリとしているのは、その男は後悔の内に惨たらしい、
ズタズタの死体になっているだろうということだ。
ビリー・カーンは正気を得るために生きたままその腸を喰らう。

本当に大切な物の為に闘う男は、その為にいくらでも残酷になれる。
そうでなければ、命は干からびるのだ。

ガラス張りの窓から見える、美しくも淀んだ風景。
ちっぽけな人間達が、生き抜くために牙を剥いている。
彼らにもそれぞれ守る物があるのだろう。
人であったり、物であったり、形さえない、誓いであったり。

それら全てをこの手に握る日が、ついに来た。
プロジェクトGを完遂する。



ビリーは妹の居るアパートへ足早に急いだ。
実のところ、ビリーは先にギースに報告を済ますのか、リリィに会ってからにするのか、
少々頭を悩ませていた。

結果、先にギースの所へ行ったのは、彼に認めて貰い、
価値のある新しい自分として妹に会いたかったからだ。
それはビリー・カーンの、洗礼の儀式と言って良い、神聖な物だったのだろう。

その儀式が済んだ今、妹に早く会いたいという衝動はもう抑えきれない。
用意された車へ駆け込む足すらも、速く、荒い。
それで時間が短縮されるわけでもないのに後部座席でカリカリと貧乏揺すりをしている。

それを見兼ねたように前の席の男が口を開いた。

「ビリー・カーン、妹は無事だ」

「解ってる」

そう言う返事さえも荒い。

「ギース様を信じろ」

「信じてねぇわけじゃねぇよ。ただ早く……」

そこまで言って、ビリーはこの男が日本へ起つ前、
自分に最後の決心をさせたあの男だと気付いた。

「アンタ……」

何か言おうと思ったが、何を言うかなど考えていなかったので、言葉が詰まった。
前の座席の男は助け船のように、リッパーだ、と手を出して来た。
軽く握り返すが照れくさい。
仲間、というのが出来たのだろうか?

今まで他人を信用などしたことは無かったが、
気付いたらいつの間にかギース・ハワードを信用していた。

上辺の言葉など、何の意味もない。
親戚達は上辺だけは同情し、優しい言葉を掛けながらも、
いつも自分達を捨てる口実と場所を探していた。
ギース・ハワードを信用出来たのは、この人が自分を認め、
信頼してくれていることが無意識に解ったからだろう。

そう、ビリーは自己分析した。

だがギースは“仲間”という対象には成り得ないと解っている。
広い意味では仲間なのだろうが、あの人はいつも、違う場所に居る。
自分は戦士としては一人だという思いが、ビリーの中には消えずにあった。
そういう意味では、彼はまだ誰も信用していない。

“仲間”という対象に対する戸惑いが、
ギース・ハワードという主を見付けても尚、彼の居場所を削っていた。


リッパーは握った手が、あまりにも血豆に覆われている事に眉間をしかめた。
血豆という寄生虫に侵されたような、そんな手だった。
日本での彼の修行の壮絶さが容易に窺い知れた。
強くなりたいという純粋な欲求と、
ギース・ハワードへの忠誠は確かにその理由の一つではあるだろう。

だがビリー・カーンをそこまでさせた最大の理由は、
やはり今こうして彼が苛ついているように、妹の為に思えた。
だからこそこの男は、僅か一年で日本の棒術を手に入れられたのだろう。

ギース様はビリー・カーンにそうさせる為に、リリィ・カーンを人質に取った。

ふと、そんな穿った見方をしてしまう自分が居た。

だが、ギース・ハワードはビリー・カーンを利用しているのは確かだろう。
信頼という物の代価として、その力と命を利用されているだけだ。
無論、それはリッパー自身も同様であり、それがギース・ハワードとの主従関係だ。
長い付き合いになるが、生ぬるい“友情”などは有り得ない。

自分はギース・ハワードの為ならば命を投げ出すが、
彼が自分よりもギース・ハワードの為になる人間と認識しない限り、
“仲間”であるビリー・カーンの為にそうすることはないだろう。
途中で倒れれば、見捨てて行くだけだ。

闘う時は一人だ。
誰も信用してはいけない。

ここはそういう場所だし、そういうのが自分達のような跳ねっ返りには一番やり易い。
“仲間意識”はあっても、闘いの場では“仲間”では有り得ない。
連携が必要ならば、あの人が神のように操ってくれる。

俺達は一人でただ、牙を剥けば良い。

「すぐに馴染む」

戸惑いが見えるビリーに、リッパーはそれだけを言った。



駆け出すように車から降りると、ビリーはそのまま全力で走った。
螺旋の階段が無限地獄が如く延々と続いている。
それがあまりにも長くて、不安が募っていく。

リリィの身に何か――嫌な予感がして――

やっと駆け上がった先の目的のドアの前では、
肩口の辺りまでボリュームのある髪を整髪剤か何かで後ろに回し、
サングラスで顔を隠した男が内ポケットに手を入れて立っていた。
艶を与えられた黒髪が太陽光でキラキラとしている。

――ホッパーだ。

名前を覚えていた。
一年前と変わらず、今も警備してくれている。
こんな古びたアパートの住人に黒服が付いているのは異様な光景には違いないが、
ビリーにはそんなアンバランスなどまるで感じなかった。

「すまねぇ、助かった。ホッパー」

「ああ」

感謝の気持ちはあったが、会話はそれだけだ。
元々丁寧に感謝の意を表現出来る男でもない。
今はただ早く部屋へ入って、リリィの無事を確認したかった。

結局自分はほとんどそこで生活することは無かったのだが、
今でもその独特の雰囲気は覚えている。

別世界だと、最初に思った。
暖かくて、でもどこか哀しくて、激しい憎悪すら感じる、不思議な世界。
とても居心地が良い。
本当に僅かな期間、時間にすれば10時間にも満たないだろうその間に、
その部屋の残像はこの一年間、網膜に記憶され続けていた。

今も、何も変わらない。
物が増えて、いささか女の子らしい部屋になってはいるが、
そこの空気は、今でも暖かくて、柔らかく、哀しい。
何もしていなくても涙が溢れて来るような、そんな雰囲気のままだ。

そんなことを感じているのは自分だけかも知れないが、
この部屋はやはり、あの時と何も変わらない、別世界のままだった。

なのに――


リリィが、いない?

リリィ?どこだ、リリィ?
隠れてお兄ちゃんをからかってるのか?
そういう冗談はやめろよ。お兄ちゃん笑える自信ねぇんだよ、今は。

早く出て来いよ、リリィ……

「リリィ!」


捜した。名前を呼びながら狭い部屋を隈なく捜した。
いない。どこにもいない。
この一年で、妹がいなくなってしまった。何故だ!?

リリィに何があった?
誰がこんなことをした?
誰がこんな酷いことをした?

――アイツだ。ホッパー。

あの野郎だ。
あの野郎は警備なんざしてやがらねぇ。
リリィがいねぇってのに、外でのうのうと日向ぼっこしてやがる。

――ブッ殺す。


「てめぇコラァ!!」

ビリーは片腕でホッパーの胸倉を掴み上げ、
ブルブルと震えながら狂相を浮かべて怒鳴った。

「妹を…… リリィをどこへやりがった、クソがぁ!!」

ホッパーはまるで表情を変えない。

「いない、今は――」

「んだと、テメェ!!」

言うと、後ろ手に持っている血塗られた棍を握る力を強めた。
だが、行使に及ぶ前にこめかみに気配を感じた。
ホッパーが音もなく、銃口をビリーのこめかみに押し当てている。

「――やってみろよ…… その前にテメェの心臓ぶち抜くぜ……」

ビリーはいつでもそれを行えるように、筋肉に力を伝わせた。
ホッパーの人指し指が動き切る間に、今の体勢から心臓を貫ける。
今の彼にはそういう確信がある。

お互い一つ年を重ねた、18と16の少年。

「アンタが落ち着かないからだ」

武器を収めたのは、ホッパーだった。
強制的に落ち着かせようと思っての行為が、逆に興奮させてしまったらしい。
そういえばビリー・カーンとはこういう男だった。
リリィ・カーンと長く接して来たせいか、
兄もその延長線上の人間だと間違った認識を刷り込まれていたようだ。

ビリーは棍を握る手を緩めない。
確かな殺気が、まだホッパーの頬を貫いている。

「――もう一度聞くぞ…… リリィをどこへやった……?」

「さっきも言おうとしたんだが、今はエレメンタルスクールの時間だ」

「何?」

「俺も帽子を持っていかれて困っている」

呆然。

「――リリィが、スクールに行ってるのか? お前が?」

もう棍を握る手に力はない。

「俺は関係ない。ギース様のお考えだ」

ギース様が、リリィをスクールに……?


まるで――

まるで、夢を見ているようだ。
この異世界の毒気が、自分に夢を見せているようだ。

だって、そうだろ?
いつも笑って家の中に居たリリィが、スクールで勉強をしている。
自分は家に閉じ込めて、時間の成長を拒否することでしか守れなかった妹が、
今はスクールで笑っているのだろう。
きちんと、人並みの幸福を手に入れて、そして大人になっていく――


――ありがてぇ……


棍の転がる音がした。

ギース・ハワードへの恩は数え切れないくらいあるが、
このご恩だけは一生かけて必ず返さないといけない。

――ありが、てぇ……

絶対の忠義が、彼の中に深く深く刻まれた。

やっと解放され、スーツの襟元を正しているホッパーが目に入った。

「――あ、すまねぇ…… 早合点しちまった、俺の悪い癖だ。
 この一年、世話ぁかけた」

「いや、リリィ・カーンはアンタとは違って、たいした世話はかからなかった」

そう言って些細な復讐をしながら笑うホッパーを、
苦虫を噛み潰したような、自嘲気味な笑みで見やると、彼は親指で左方向を指していた。

「お兄ちゃん!!」

走って来る振動で黒いシルクハットからはみ出た金色の三つ編みが揺れている。
一番見たかった、一年振りの笑顔。
綺麗な服を着た、最愛の妹の姿だった。

気配を感じ、ヘソの辺りに顔を埋める妹の頭の上から正面を見やると、
その後ろで、ギース・ハワードが頬を吊り上げていつもの笑みを浮かべていた。
そんな物はないと信じていたが、この街には、ギース・ハワードという“希望”があった。


有り難う――

――有り難う御座います……


有り難う御座います……


【13】

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