「待っていたぞ、テリー・ボガード。どうやら私の招待状、喜んで貰えたようだな」

巨大な、金で彩られた厳格な扉を開くと、
そこには今までの静けさが幻であったかのような、異様な空間が広がっていた。

死者を弔うように揺れる蝋燭の両脇、壇上へと続く階段を舞台に、
百名はくだらないであろう管弦楽団員が、バイオリンを構えて静座している。

中央に立つ、黄金の鎧に身を纏った、
伸ばせば天界へと続く高逸な天井にすら手を架けられそうな、長身の男――
ヴォルフガング・クラウザー。

その背後に並べられる、薄気味悪い髑髏のオブジェ。
暗く窪んだ空洞の瞳と、クラウザーの眼がゆっくりと重なった。

「クラウザー…… 何故、俺達兄弟を狙った?」

その色のない瞳を睨みつけ、テリーが聞いた。

「この城に居ると随分と退屈でね。
 君達と遊びたくなった、という答えでは駄目かな?」

なるほど、とテリーは笑い、両手の青いグローブをきつく締めた。
これからも、父、ジェフ・ボガードと共に闘って行くという決意であり、誓い。
それを見てクラウザーの目が細く笑った。

「ジェフ・ボガードの…… フフフ、覚えている。覚えているぞ」

クラウザーの口から思い掛けない名前が出たことで、テリーの構えが怪訝に緩む。

「君の父上とはちょっとした因縁があってな。
 彼と出会ったのもこの会場だった」

気付いたクラウザーが口を開いた。
額を触り、言葉を続ける。

「この傷は彼に付けられた物だ。だが誤解しないでくれよ、テリー。
 君との闘いをそんな陳腐な感傷で汚したくはない」

「――OK。俺もあんたと遊びたくなって来たよ」

「最高のショーにしよう! テリー・ボガード!」

構え直したテリーの前で、クラウザーが勢い良く両腕を開いた。
それに弾かれ、黄金の鎧が石畳に散らばると、
盛大な歌に彩られた、オーケストラが開始された。

レクイエム ディエス・イレ「怒りの日」――

それはここには居ない、誰かの怒りのように――


テリーのパワーウェイブがクラウザーへ奔った。

――思えば、ジェフ・ボガードは私を消すためにルドルフが雇った、
――殺し屋だったのかもな。

立ち尽くしたまま、溢れ出る闘気でそれを打ち消したクラウザーが、
ゆっくりと、もう逃げられない獲物を追い詰めるが如く歩いて来る。

その刺すような重圧に身の毛がよだち、息が詰まる。
それだけではない。
無言のままに肌に打ち付けられる衝撃は、
それ自体が凶器となり、確実にダメージを刻んで来る。
対峙しているだけで無数の拳を浴びているに等しかった。

――ケタ違いだ……!

テリーの笑みに、焦りの色が混じった。
だが、こんな男と闘えることを嬉しく思う、壊れた本能もある。

「バァァンナックル!!」

クラウザーの闘気を一点から切り崩すべく、拳に気を纏って飛んだ。
それは動いたクラウザーの生身の胸を擦り、出血を促す。
だが同時に叩き付けられた水平に薙ぐチョップの衝撃が、テリーを地に滑らせた。

石の地面をシューズで擦り、なんとか直立を保つ。
向き直って見た、泳いだように虚ろなクラウザーの眼には、明らかな狂気が浮かんでいた。

「ハハハハ! 良いぞ、テリー! こうでなくては面白くない!
 さすがはジェフ・ボガードの息子! そしてギースを倒した男だ!!」

振り払われた腕から生まれた炎の球体が、弾丸を凌ぐ速度で撃ち付けられた。

――気か!? だが、速すぎる!!

走っていたのでは、もうすでにそれを躱すことは出来ない。
バランスを犠牲にして地面に転がり込み、テリーはなんとか回避に成功した。
だがそこにもう第二射が放たれている。

「ぐぅあ!」

気功で防御しても、炎の苦味が焼き付いて離れない。
湯気を上げる両腕を庇いながらテリーは弾き飛ばされていた。
すぐに起き上がろうとした頭の上を、いつでも殺せると言わんばかりの第三射が、
嘲笑するように通り抜けて行った。

「ブリッツボール…… フフフ、君の父上はもう少し上手く逃げ回ったぞ」

炎の弾丸を躱し切る自信はない。
パワーウェイブも通用しなかった。

ならば、それがあまりにも危険であることを誰よりも理解しながら、
それでも接近して拳を打ち込むしかないと、テリーの中の狼が誘惑していた。
死と隣り合わせの緊張感を求めて、狼は疾駆した。

左のボディブローを打ち込む。
絡め取るように回避され、掌打が顎に刺さった。
だが後方に倒れる勢いを利用し、クラウザーの肩口に蹴りを浴びせる。
一瞬、揺らめいたのは錯覚か、そのまま回転したテリーは身を屈め、
クラウザーの長い足に、再び思い切り蹴りを打ち込んだ。

この好機を逃す手はない。
テリーはさらにジャブを打つと、本命の膝蹴りでクラウザーの脇腹を狙った。

だがそれはクラウザーの両掌によって止められた。
いや止められたのを理解した瞬間にはもう、
石の地面へと身体をしたたかに打ちつけていた。

この時間の狂った感覚には覚えがある。

「――それは、ギースの……」

「ギース? そういえば奴も当て身投げを覚えて得意になっていたようだが、
 あれは元々シュトロハイム家に伝わっていた技の亜種なのだよ。
 君達の技の源流の中にも、私達の血が生きているのを知っておくと良い」

「秘伝書、か?」

クラウザーは否定も肯定もせず、ただ薄く笑った。

「亜種だか何だか知らねぇが、これならギースの方がまるで上だな。
 あいつの技はこんなもんじゃなかったぜ!」

「何……」

常に余裕のあったクラウザーの表情が一瞬、強張った。
と、同時にもうテリーは宙を駆けている。
空中で回転し、遠心力を充分に乗せた踵の一撃――

「クラックシュート!」

踵が額に突き刺さり、赤い噴水が舞った。

「ぐわぁあぁ!!」

十字の傷が鮮やかに割れ、クラウザーの悲鳴が演奏に乗って流れる。
それは透き通るように綺麗な、天使の歌声のように、会場に響き渡った。

「おおおおおおおおおおお!!」

額を押さえ、無防備になったクラウザーの胸を、腹を、渾身の拳で打ち抜く。
勝機がここにしかないことをテリーはすでに悟っていた。
全霊の気を拳に伝わせ、倒れるまで殴りつける。
形も何もない。ただ両の腕を振り絞った。

だが、倒れない。
何度打ち込んでも、全力の拳を打ち込み、それで倒れないクラウザーに、
それ以上の力を乗せ、それでも尚、倒れないこの男にさらに振り絞った拳を浴びせた。
それでも、それでもクラウザーの牙城は、まるで崩れようとはしない。

クラウザーは片手で額を押さえたまま、
テリーの牙を受け入れるかのように、棒立ちに立ち尽くしている。
その肉のぶつかり合う音さえも演奏の一部のように、酔いしれるように拳を受けていた。

ビリーの言葉が脳裏を走り抜けた。

――化物か……!?

喉を掴まれる感覚を感じた瞬間、拳は空を切り、そして身体が浮いていることを自覚した。
長身のクラウザーに掴み上げられ、地面を失った無防備なテリーの腹に、
今度はクラウザーの拳が刺さる。

一撃、二撃、三撃――

それは全てが砲弾のように激しく、テリーの身体を振動させた。

「お、ぐぁあ……」

やがて投げ捨てられたテリーはすでに、使い込まれ、飽きられた子供の人形のような、
無慈悲で、無残な姿だった。
演奏者達の美しい歌声が、今はピエロの狂った笑いに聴こえる。

「なかなか良い攻撃だった。おめでとう、すでにジェフ・ボガードを超えたな。
 まだ息が出来るなら、父を超えた感想を是非お聞かせ願いたいものだ」

手を払いながら悠然と、微かな怒気を孕んでクラウザーが聞いた。
芋虫のように石畳を這い、咳き込んで血を吐いているテリーには答えられない。

「やれやれ、闘いの場においてもまだ女々しく形見に縋っているお前には、
 酷な質問だったかな?」

「こ、こいつはな、クラウザー……」

両手を地に突いたまま、必死に起き上がろうともがく。
掠れたその声は自分の声からは遠かったが、それでも握り締めた拳は言葉を紡がせた。

「最強の男が身に付ける、血の通った命なんだぜ……!
 てめぇの秘伝書なんざとは比べられねぇなぁ!!」

再び、微弱だったはずのテリーの闘気が爆発した。
今までにない速度で一瞬に間合いを消す。
油断と驚愕で対応の遅れたクラウザーの胸に、それは深々と突き刺さった。

――バーンナックル……!

だが、それも一瞬。
すぐに顔を蹴り上げられたテリーは、さらに頬へと巨大な拳を浴び、
紙のように吹き飛び、壁に激突した。
そこに追撃のブリッツボールが、二発、三発と連続して浴びせられる。
濛々と立ち込める煙とその爆音が、
惨劇の中でも乱れることなく続けられる演奏の音色すら掻き消した。

やがてクラウザーの両腕が黒薔薇の紫に輝き、
密閉した空間の中の、限られた大気を恫喝するように震わせた。
その熱風に煽られたのか、演奏も激しさを増す。

頭上から振り下ろされ、放たれたその闘気の波は、
2mのクラウザーの身長をすら凌駕する、あまりにも巨大な、虐殺の砲弾。
それはすでに、気で作られた武力兵器だった。

耳を引き裂く爆裂音がし、石の裂け崩れる煙と共に、城の壁に大穴が空く。
そこから覗いた空はどこまでも青く澄んで、一人の男を見守っていた。

「ハァ…… ハァ……」

胸から流れる血に触れ、それで染まった左手を見た後、
顔を上げると煙の向こうで気を躱し、片腕を突いて呼吸を荒げている、
テリー・ボガードの姿が目に入った。

それを見て、クラウザーの口元が嬉しそうに歪む。

「よく避けてくれたな、テリー。殺してしまったのではないかと心配したよ」

「――冗談……」

なんとか同じ様に笑おうとするテリーだったが、すでにその力さえ奪われていた。

「だがもうこれで終わりにしよう」

再び、クラウザーの両腕が紫に輝いた。
それが放たれたならば、もはやテリーには何も打つ手がないことを、
互いの理解が知っている。

「最後に聞こう、テリー。お前の持っている秘伝書はどこにある?
 君は下らないと笑うかも知れないが、あれはなかなか興味深い代物でね。
 意味を理解出来ない人間に持たせておくのは惜しいのだよ」

「知らねぇな…… そいつは多分ビリーに聞いた方が早いぜ」

「――それはおかしいな。ビリーがお前が持っていると言った」

「悪いがクラウザー、ビリーはあんたに忠誠なんざ誓っちゃいない……
 あんたは嵌められたんだよ……!」

その言葉に、クラウザーは軽く俯き、やがて低く笑った。

「ククク…… ギースの仇を討ちたいと言ったのもデタラメという訳か。
 なるほど、君を倒した後でゆっくりと尋問するとしよう。
 ――さようなら、テリー!」

輝く両腕が振り翳され、再び五体を引き千切る殺傷力を持つ、気の砲弾が打ち出された。

「――カイザーウェェイブ!!」

テリーの身長を裕に超えるその波は、軽くその姿を呑み込み、
かつて人であった原形を留めない、無残な肉叢を作り上げる。
演奏者達の歌声が一層、高さを増した。

その瞬間、カイザーウェイブで完全に包み隠されたテリーの姿が、
光の柱となってそれと重なった。

聴覚を壊す轟音が鳴り響く――

「――!?」

クラウザーをして、眼を見開いた。
そこには何事もなかったかのように立っている、テリー・ボガードの姿があった。
地面に大穴が穿たれ、右の拳から煙が立ち昇っている。

「な、何をした、テリー……」

「何だろうな…… ただ今はあんたと思い切り闘いたくて仕方がない……
 パーティーに誘ったのはあんただ。最後まで付き合ってくれよ……!」

縺れる足のまま、テリーは無防備に拳を振り被って駆けた。
肩口にカウンターを貰うが、あれだけの気を二発も放出した疲労か、あるいは動揺か、
その威力は相変わらずの重さを持っていたが、
テリーのパンチを消すほどの強さはなかった。

テリーのさらに重い拳が、クラウザーの顔面に叩き込まれる。
軽く呻いたクラウザーも拳を打ち出し、蹴りを打ち出した。
それをガードし、踏み縛った足を捩ってバックスピンキックを放つ。
まともに浴び、仰け反ったクラウザーに吼えながら拳を打ち付けた。

「うぅおおおおおあああああ!!」

もう、何も考えてはいなかった。

何度も交し合ったクラウザーの拳からは、何も感じない。
ただ殺されるという恐怖のみを打ち付けられた。
その悪魔の世界に引き摺り込まれるように、呼応して拳を返す。

死にたくないという怯えか、あるいは殺してやるという殺意か。

意識は傾いて消え、最後に残ったのは、それのみとなった、狼の野生だった。
思考はすでに、何の役にも立たない。
背負っていた重りが消えてなくなり、そして生まれたのは、何よりも軽い身体。

あの時と、同じ感覚――


餓狼が居た。
二匹の、餓狼が居た。

血に彩られた狼達は、眼には殺気を、口元には笑みを張り付かせながら、
一歩も退かずに牙をぶつけ合う。

その骨の磨り減る音は、すでに楽団の元を離れ、
それだけで神を唄う、祝福された、神々しいオーケストラだった。


後から追いかけて来る意識がまるで追いつかない、裸の拳。
あるいはクラウザーも同じなのか、どちらが多くのダメージを受けているのか、
すでに誰の理解の中にもその答えはなかった。

気付けば、その壮絶な打ち合いの中で、オーケストラが止まっている。
このまま死ぬまで殴り合うのだろう、頭の壊れた狼達の闘いをこれ以上見るのは、
人形のように仕込まれたシュトロハイム家の管弦楽団といえども
正気の範疇を超えていた。

一人が楽器を落として逃げ去ると、それに追われるように、
やがて堰を切って数名が、数十名が、その全てが、血塗られた魔王の間から逃げ出した。

もう、二人しかいない。
いや初めからこの部屋には二人しか存在しなかった。

穿たれた城壁から射す光と重なるように、テリーの拳が輝き、
その眩しさが眼前の狼を圧倒した。
その瞬間、クラウザーには感情が甦っていたのだろう。
いや、初めから彼は感情で闘っていたのか。

テリーの拳から眼を焼き包む眩い光が生まれ、クラウザーは、楽しいと思った。
こんな暖かい光を浴びたのは、初めてだったかも知れない。

祝福されない子供。忌み嫌われる為に、無意味に繋がれた世界。
それら全てを覆い尽くす光の間欠泉が、この闘いを終わりに導いた。


「――パワーゲイザー!!」




「見事だったぞ、テリー……」

「クラウザー……」

クラウザーは倒れない。
闘いが終わったというのに、ついぞ彼は一度も倒れなかった。

「私は、この城でずっと、お前を待っていたのかもな……」

こうやって、素晴らしい闘いを演出できる、強い男を……

尊敬できる、友を――

夢中で殴り付けた拳の先には、自分の眼を見据えて笑う、屈強な、
テリー・ボガードという狼が鮮明に存在して、
今までの孤独が、まるで嘘だったように、充実した生を感じさせてくれた。

傷を押さえ、不確かな足取りでクラウザーが歩く。
両の拳を振り上げて、シュトロハイム家の最強の歴史が、
皮肉にも歴代最強の男の代で崩れたことを、天に宣言した。

だが、それを誰も笑ったりはしない。

最強であるが故に退くことを許されず、力に取り憑かれ、
悲劇に魅入られ続けた呪われた家の呪縛が、緩やかに解けて行く。

険が落ち、少年のように無邪気に笑うクラウザーの背後には、
自らが空けた大穴があった。
差し込む光が瞳を照らし、そこに色が浮かび上がるのが、テリーの目に映った。


有り難う、テリー・ボガード……
君と闘えたことで、私は喜びをもって土に還れるよ……


「クラウザー!」

天を仰ぐように両手を広げ、背に体重を傾けたクラウザーの身体が、
ゆっくりと、光の中に消えて行く。
それは、神聖な儀式のように、優美で煌びやかな消滅だった。


――これでやっと、解放される……


彼が空へ向けて呟いた最期の言葉は、父と同じ、安らかな笑みと共に――

歓喜の唄に、送られながら――


燃え尽きた肉体が、流星となって流れて行く。

舞に肩を借りたアンディが、それに気付いた。
橋を駆け、城へと向かうジョーの目にも、流れ落ちて行く光が見える。
そして、ビリーも――

それは、撃たれた鳥のように優雅で、狼達の目を奪った。

黒薔薇が散る――
穿たれた三ケ所の穴から、崩壊が始まった。
半壊する古城は、永年受け継がれた最強の伝説、シュトロハイム家の終焉を示していた。

解き放たれた怨念達が微笑みを浮かべて天へ昇って行く。
妖精達の黒い翼がはたはたと、喜びを伝えに耳元へやって来た。

ありがとう――
ありがとう――

知らない声と、知っている声が混ざった、とても哀しい囁き。

テリーは表情を傾けたまま、仲間達の元へ歩み出した。
自分の名を呼ぶ、暖かい声がする。


――これでお前は、ぐっすりと眠れるのか……?


「――悲しいな」

呟いたテリーを心配そうにアンディが見詰めた。

「――いや……」

テリーは微笑して、かぶりを振る。
先を促して、軽く振り返ると、そこには神に祝福されたように
太陽の光を浴びて輝く、透き通った湖があった。

――バイバイ…… クラウザー

投げ入れた帽子が、川の流れに導かれ、かつて悪魔が棲んでいた城へ流れて行った。
その平和で、静かな流れが、確かに最強だったこの城の主への、
レクイエムのように、ゆっくり、ゆっくりと――



「随分、遅くなっちまったけどな」

父が眠る、丘の上の墓地にテリーが花を置いた。

「色々あったからね…… そういえば父さんも、クラウザーと闘ったことがあるらしい」

その後ろでアンディが言った。
テリーは墓を見たままで言う。

「ああ…… クラウザーから聞いた」

その言葉はどこか寂しそうで、アンディの顔にも不安の色が混じる。
それを察したのか、振り返ったテリーがアンディの胸を小突いた。
知ってたなら教えろよ、と言うテリーに、アンディは苦笑する。

「まぁたお前に美味しいとこ持っていかれちまったな。
 だが、次からはジョー伝説で行かせて貰うから覚悟しとけよ!」

さらにその後ろでジョーが沈んだムードを盛り上げるように言った。

「部外者は黙ってるの!」

感傷を引き裂くその大きな声はジョーなりの気遣いだったのだが、
場違いであったのはその通りで、舞が非難の声を上げる。
テリーとアンディは振り返ってそのやり取りに笑った。

「んあぁ!? お前だって部外者じゃねぇか!?」

「私は部外者じゃないわよ! ねぇアンディ?」

「そうなのか?」

「し、し、知らないよ……!!」

非難を返すジョー、主張する舞の視線と、
兄テリーのいやらしい質問を受けてアンディの声が上ずった。
ちゃっかりアンディの横に移動し体重を預けるように腕を組む舞に、
テリーの笑みと、アンディの困惑は深まる。

「うわぁー! リリィちゃんはどこへ行ってしまったんだぁー!!」

その一方で深い溜め息をつくジョーから、また場違いな叫びが踊り出た。

ひとしきりの笑い声の後、テリーが場を引き締める気合の声を発した。

「よしっ! それじゃパオパオに戻ってパーティーの続きと行くか!」

「に、兄さん、これ以上ツケで盛り上がるのはまずいよ……」

今度は途端に能天気な兄へアンディの困惑が向けられると、
その腕を抱き締めている舞が妖艶な笑みを浮かべて言った。

「あぁら大丈夫よ、アンディ。こちらにはムエタイチャ・ン・プが付いてるものねぇー」

「おまっ! また俺にたかる気か!?」

「あらやだわ、ホホホ。私は自主的な“友情”に期待したかっただけなんですけどぉ」

舞はどこからか取り出した扇子を開き、口元を隠すが、その目元は明らかに笑っていた。

「ったく、都合良く次から次へと……
 それはそれとして舞、お前は俺に借金があるのを忘れるなよ!」

「まぁ! ムエタイチャンプのクセにケチー」

「タイの給料はお前が思ってるほど多くはないの!
 外大行ってるならそれくらい知っとけ!」

顔を見合わせて笑うテリーとアンディの前で、二人の漫才はいつまでも続いた。
やがて巻き込まれたアンディがさらに困惑の度合いを深めると、
テリーは一人で大笑いし、彼らの肩を抱いて歩き出した。

振り返れば、父の柔らかな笑みが降り注いでいる。
どこまでも広がる青い空を、絵画のようにハトが飛んでいた。


「ヘイ、リチャード! どんどん持って来てくれ! 腹が減って仕方がねぇぜ!」




目を覚ました場所は木の匂いのする地面だった。
あの時の姿のまま、肌に直接伝わる木の冷たさが、意識を覚醒させて行く。
見開いた瞳の中で揺れているのは、どこか父の面影を持った、道着の男だった。

「私の身体で試した秘孔だ。貴様ならもう起き上がれるだろう」

「――お前に生かされるとはな……」

手術台から降りるように、ゆっくりと立ち上がる。
肉体のダメージはすでになく、以前より力の湧き出る感覚さえ感じた。
鼻に心地良い木の香りは、この場所が日本風の道場であることを示していた。

「秘孔…… 私の秘伝書か。よくお前に解読出来たものだ」

「拳技の書…… 活孔以外は何の役にも立たんな」

「秘伝書から燻り出した技はすでに我らの中で生きているのだよ。
 その活孔さえも、刹那的な物にすぎん。だが――」

額に赤みを増した十字傷を刻んだ男、
ヴォルフガング・クラウザーがその傷を撫でて続けた。

「三本集まればその祖に成れる」

不機嫌そうに腕を組む道着の男は、侮蔑の笑みを浮かべた。

「――下らんな」

「テリー・ボガードと同じことを言うのだな、ギース」

ギース――ギース・ハワードが、その名前を聞いて眼光をギラ付かせた。
空いた胸元にははっきりと、拳で裂かれた横傷が見えた。

「――フフフ、始めるのだろう? 血に操られた道化の闘いを」

クラウザーは自虐するように言い、眼に気を灯すと、直立のまま闘気を震わせた。

「貴様との決着がこんな形になるとはな」

互いに、テリー・ボガードなる他人に割り込まれ、地に伏すことになるとは、
今までが壮大な茶番だったようで、ギースには笑えた。

「随分と長い間、ただ睨み合っていたからな。
 どうやら互いに兄弟で殺し合うのは避けたかったらしい」

「口の減らん奴だ」

「私は本音だよ、ギース。テリー・ボガードがお前を倒してくれて本当に嬉しかった。
 いや、それでもどこかで悲しかったのかな。
 少なくともお前と睨み合っている時間は腸は煮え繰り返ってはいたが、
 孤独を感じることはなかった。思えば私のお前への感情は、ただの嫉妬だったのだろうな」

「よく喋る……」

ギースは無表情のまま、それだけを言った。

「遺言くらいは聞いてくれても良いだろう、兄上」

「――虫唾が走る!」

ギースの左手が虚空を薙いだ。
それは気で形作られた烈風を呼び起こし、クラウザーを飲み込んだ。
刻まれた血飛沫の中から飛んで来た炎の球を握り潰す。
踏み込み、裂帛の気合を込めた裏拳を浴びせると、
クラウザーは巨体を傾け、板張りの床に転がった。

クラウザーの脇に屈み込み、その首に掌を打ち込む。
だが、そのまま首を握り締めてもクラウザーは、優しさすら感じる、
悟り切った笑みを浮かべていた。

それが勘に触り、そのまま片手でクラウザーを持ち上げ、地面に叩き付けた。
クラウザーは受け身すら取らず、無抵抗に転がる。
ギースの不愉快は頂点に達した。

「暗黒の帝王が聞いて呆れる…… たった一度の敗北で牙を失うとはな」

「私はお前と違ってデリケートなのだよ」

ゆっくりと起き上がったクラウザーにはしかし、やはり戦意がないように見えた。
十字架に磔られた神の子ように、両腕を広げ、喜悦の表情で口だけを開いた。

「それに、私は牙を失ったのではない。ただ、私の物語が終わっただけだ。
 ――お前も本当は、とっくに終わっているのではないのか?」


ドスッ


呆気ない、鮮血が舞った。
背に通るまで左拳を突き入れられても尚、死体は笑みを浮かべていた。
兄の肩に抱かれるように、崩れ落ちる。

それを払い除けようともせず、ギースは正面を、
まだクラウザーが幼き日のままの、あの芯から恐怖した
呪いの狂眼で睨みつけているかのように、ただ正面から顔を動かなさなかった。

「――狼が、闘いに物語などを挟むと思うか?」

静かに、子守唄のように、口を開いた。

「狼は、何も持たず、何も背負わず、ただ牙のみで闘いに命を懸ける。
 運命を背負うが故に、敗北を恐れ、恐怖し、拳を失う……」

自分に語るように独白し、突き入れた拳を乱暴に引き抜く。
そして尚も縋りつく軟弱な弟の骸を弾き飛ばした。

「闘いに幻想を持ち込んだ時点で、貴様はすでに狼では無かったのだ!
 真の餓狼に物語などは不要! 愚かなりクラウザー!!」

帝王の放笑が小さな道場へ響いた。
開かれた扉の外で、ビリー・カーンが跪き、
その背後を固めるように、リッパーとホッパーが立っていた。

「ビリー」

名を、呼ばれる。
棍を携えて道場へ入り、それを振るうと炎が発生した。
腕を組んだままのギースが、首を動かしてクラウザーを指す。
再び跪いてそれを享受し、回転させて煽った業火を、クラウザーへと放った。

赤い、紅蓮の炎が視界を揺らめかす。
クラウザーだった男を包んだ暖かい炎は、やがて木造の床を焼き焦がし、勢いを荒げた。

「ギース様」

危険を、ギースに伝える。
しかしギースは腕を組んで炎を見詰めたまま、動こうとはしなかった。
黒く変色した天井が崩れ落ちる。
炎は尚も勢いを増したが、ギースは動かず、そしてビリー・カーンも跪いて動かなかった。

数刻――

「ビリー……」

「は」

「――行くぞ」

烈風が、炎の輪を切り崩して行く。
そこに悠然と歩を進め、ギース・ハワードは口の端を吊り上げて笑った。
握り締めた拳に宿った力はまだ半分程度でしかない。

燃え上がる道場が、彼の決して失ってはいない野望を象徴するかのように、
轟々と、炎を巻き上げている。

照り返る斜光に白い肌をオレンジ色に染め、美しい金色の髪の女が、
物悲しそうに涙を称えて、祈りながら彼の姿を見ていた。

――貴方はいつも、悲しみを野望と偽って……

涙と共に小さく音を突いた咳には、炎さえも飲み込むような、真紅が混ざっていた。


1993年、3月――
イギリスの街は、春の風に包まれている――


【26】

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