ドドドドド!

ジョーの爆裂拳が唸りを上げ、今日もチャンプは防衛に成功した。
だが、控え室で腰を降ろし、休息を取るジョーの溜め息は深い。

(リングの闘いも悪かねぇと思うがな。
 マイケル・マックスって俺の技のパクリ野郎が、あんたのこと待ってたって聞いたぜ)

ジョーは、激戦の末、打ち倒したアクセル・ホークに、そう声を掛けた。

確かに、マイケル・マックスの使うトルネードアッパーは
ジョーのハリケーンアッパーとウリ二つだ。
パクリ行為もあったのかも知れない。
もっとも、これはジョー・東の弁なので、一体どちらがパクッたのかはハッキリとしない。

いや、そんなことはどうでも良くて、ジョーはそうは言ったものの、
どうしてもKOF出場者と比べれば刺激の足りないムエタイの戦士達との試合に、
フラストレーションが溜まっていたのである。

やがてその憤りは、無実の椅子へと向けられた。

「ハァ〜ァ、どいつもこいつも弱すぎるぜっ!」

遅れて入って来たセコンドのホア・ジャイが、突如襲って来た凶器にビクリと仰け反った。
子供じみた八つ当たりに呆れ顔でジョーを見る。

「勝ったってぇのに随分、荒れてるなぁ。
 しかし今の相手に爆裂拳はねえだろ、ジョー」

「あぁ、もう使わねえよ…… しっかし誰も俺を楽しませてくれねぇよなぁー
 なんとかブラブラしてるテリーの野郎でもムエタイに転向させられねぇかな……」

「無茶言うんじゃねぇよ…… アイツは今や所在も判らねぇじゃねぇか」

「だよなぁ…… あいつは根っからの根無し草みてぇだからな。
 かと言って2年も連絡なしで放浪するもんかねぇ、普通。
 これじゃまるっきり行方不明じゃねぇか。捜索願い出しちまうぞ、ったく」

椅子を戻しながら言うジョーの愚痴は、テリーの話にまで及んだ。

テリーはその後、リチャードに礼を言った後、
優勝賞金を置いたままパオパオカフェを離れている。
「武者修行だ」と、彼は笑って言ったが、
まさか二年ほど経った今も連絡がないとは、誰も思いもしない。

アンディなら知っているだろう。
ジョーなら知っているだろう。
リチャードなら知っているだろう。

そんな三者の希望的観測は、話を統合する度に裏切られる結果となる。
あるいは、クラウザーを倒し、頂点を極めた憂鬱から――
などと言った後ろ向きな考えもチラホラと浮かんだ。

ジョーの溜め息は一層、深くなった。
そんなジョーのペースに乗せられて一緒に沈んでいたホアだったが、
用があったのを思い出した。

「そうだ、ジョー。チンから今さっき電話があってな」

それを聞いても、ジョーは欠伸をするばかり。
もう一度、名を呼ばれたジョーはおどけた様子で言った。

「どうせ、“後で電話をくだしゃい!”とか言ったんだろ?」



「ああ! ジョーしゃん、わたしでしゅ! お待ちしてたでしゅよ!」

電話を掛けると、応対の女性を挟んでチン・シンザンの甲高い声が響いて来た。

「んだよ、チン、うるせぇなぁ。
 何だよ、用って…… ワニの空揚げでも食わせてくれるのか?」

その態度に、そんな用事ならこんなに急ぎましぇん!とチンがさらに声を高くする。
首を窄めてその声を聞いたジョーだが、続いての言葉で怪訝な表情に戻った。

「ジョーしゃん! 今すぐサウスタウンへ飛んでくだしゃい!!」

「ああ? サウスタウン?
 何でだよ、俺ぁ別に用はねぇぜ。テリーもいねぇしよ」

先程の会話を思い出し、また気分が荒れ気味になる。

「サウスタウンに山崎という男が乗り込みました!
 その男を倒して来て欲しいのでしゅ!」

「おいおい、俺はいつからお前の雇われ用心棒になった?」

「ひ、ひどいでしゅ! ジョーしゃん!
 クラウザーの秘伝書を持って来る約束をしたからあんなに情報提供してあげたのに
 次の試合でコロッと負けたうえにわたしの切なる願いまでも踏み躙るのでしゅか!?」

「そ、そんな約束したっけなぁ? あははー」

そんな弱みが、ジョーにはあったらしい。
だがチンの話を聞いていると、それを抜きにして、ジョーの闘志は昂ぶっていった。


山崎竜二――

最近、香港の裏社会で頭角を表して来た闇ブローカーである。
独自のコネを使った米軍からの武器の横流しをメインに、
東南アジアからの麻薬の密輸、密入国の手引き、あらゆる犯罪で暴利を貪り、
僅か数年で裏に名を知れ渡らせた。

だが、それらで積み上げた金よりも、
影で行われた純粋な暴力こそが、彼の伸し上がった最大の武器だった。
まさに彼は金と暴力、裏社会で最も必要な二つを短期間で兼ね備えたことで、
香港の新興勢力として台頭して来たのである。


「んで、そいつにお前が陰に追いやられてるから山崎を倒せってか?」

「た、端的に言えばそういうことでしゅね、ホホホ」

「ホホホじゃねぇよ。で? そいつはサウスタウンのどこにいやがんだ?」

「わかりましぇん……」

「はぁ!? おいおい、サウスタウンってったって結構広いんだぜ!?
 何の手掛かりもなしにそいつを捜すのかよ!?」

「て、手掛かりならありましゅ! 秘伝書でしゅ!
 奴は秘伝書を狙ってサウスタウンへ乗り込んだんでしゅ!」

一気に捲くし立てるジョーにまたチンも捲くし立てる。

秘伝書の話は以前にチンやテリーから聞いていた。
ギースが持っていた秘伝書は行方不明。
クラウザーが持っていた物も、城が半壊し、修復も行われていない今は行方不明だろう。
最後の一本は初めから判らない。

それでなぜ秘伝書がサウスタウンにあるのかは解らないが、
山崎はそこに秘伝書があると踏んで、乗り込んで来ている。

「で、そのサウスタウンの秘伝書はどこにあるんだ?」

「わ、わかりましぇん……」

「い、意味ねぇー!!」

「で、でしゅが、ジョーしゃん! 秘伝書は最強の男の元へ導かれると言われてましゅ!
 ジョーしゃんなら、きっと! おひょ! 間違いないでしゅ!」

そんな言葉で話が終わったジョーは話の内容をねだるホアを無視し、

「オッシャー! サウスタウンに嵐を呼んでやるぞぉ!」

生き生きと雄叫びを上げていた。



青木ヶ原を下りた富士五湖の一つ、河口湖の湖畔に、
女性に評判の珍しい道場がある。
なんと定員30名のその道場は、道場という男臭い場所にありながら、
半数を軽く超える21名が女性なのである。

その道場は当然というか一風変わっており、若い男女の師範が切り盛りしていて、
そこで教えられている護身術も、今時、忍術という時代錯誤な風変わりぶりだ。
流派は不知火と言うらしいが、そこの道場生から発せられる言葉は、
主に「アンディ」という四文字だった。

「アンディ先生! これから私に特別に稽古をつけて下さい!」
「ちょっと、何言ってんのよ! アンディ先生は今から私とパフェを食べに行くのよ!」
「何よズーズーしいわね!」
「先生は私と約束したのよ!」
「私よ!」「私!」

黄色い声に囲まれて、勝手にケンカを始める練習生達に
アンディ・ボガードは立ち往生していた。

「いや、ちょ…… ちょっと待ってくれる?
 もう日が暮れちゃうし、早く帰らないと危険だから……」

「そのために私たちは先生に教えて貰ってるんじゃない!」

「いや、それはそうなんだけど……」

勇気を振り絞って割って入った一言も、あっさりと論破される。
それを睨み付けている一際強烈な視線は、
遠く離れていても神経を直接、親指と人差し指で引っ張られているように感じた。

――何よ、アンディったら、デレェとしちゃって!
――そんなに引っ付かなくてもいいじゃない!
――なんで私のアンディの手を握るのよぅー
――だいたいアンディの教え方は甘すぎるのよ!

怒り狂う、不知火舞。
しかしこうなってしまった背景には、彼女の失敗が深く関係しているのだ。

舞は練習生募集のチラシを作る際に、迷わずアンディの写真を使った。
アンディを使ったカッコ良いチラシが出来ればどんなに素敵かしら!
そんな思いから勝手に製作に取り掛かり、
『カッコイイ師範があなたをやさしくエスコート♪』なる妙なキャッチコピーまで付けて、
その出来上がりにうっとりしながら宣伝活動を行ったのである。

そして集まる、女性ばかりが数十人。
こんなにカッコイイ彼氏を持つ自分への羨望の眼差しを美酒に
高笑いをしてやろうとそんな計画まで立てていた舞を襲う現実が、
今のこの、アンディハーレム状態なのである。

――なぁんでこうなっちゃうのよぉう!!


不知火半蔵の死後、五大老の姿勢は以前からは信じられないほど緩和した。
帰国後、改まって呼ばれたアンディは、不知火の一員となる儀式を受けた。
そして、その奥義書の全てを、不知火の全てを舞と、そしてアンディに託したのである。

涙しながらその祝福を受けたアンディの姿を、舞は忘れない。
それはアンディが不知火の一員になると同時に、
事実上、舞の望みを、アンディが受け入れたということだからだ。

舞は外へ門戸を開くことを決めた際、護身術ということで
不知火流忍術ではなく、体術の方をメインに持って来る算段を立てた。
しかし、舞は体術系はあまり得意ではないため、
アンディに手伝って欲しいと大胆にも河口湖での同棲を申し出たのだ。

さすがにそれは無理かとダメ元で言い出した舞だったが、
アンディの返事はなんと快いYESだった。
舞は舞い上がった。全てが順調だった。

ところに、このハーレムの惨状である。
舞の落胆は計り知れない。
冷静に考えてみればアンディは別に自分を受け入れたのではなく、
不知火流の未来の為に協力を受け入れたのだろうという、
彼の性格上、実に筋が通っていて、舞としては実に面白くない答えが浮かび上がった。


「ちょっとアンディ……」

「ま、舞……!」

近付いて来た舞に、ドキッ!とアンディが跳ね上がる。

「アンディ先生と舞先生ってどおゆう関係なの?」

そこに一番年幼い練習生の女の子が無邪気な質問を浴びせて来た。

「ど、どおゆう関係って言われても……」

「ちょっとアンディ!」

「あっ、ハ、ハイ! それじゃ皆さん気をつけて帰ってください!」

「何だぁ、つまんないのー」

愚痴を漏らしながら帰って行く練習生の女の子達。
庭先まで彼女達を送ったアンディが安堵したのも一瞬、
すぐ横には最強の女の子が鬼の形相で立っていた。

「な、何かな……?」

恐る恐る。

「はい、これ」

舞はぶっきらぼうに一通のエアメールを差し出し、すぐにプイッと背中を向けた。

「ひょっとして兄さん、かな?」
「知らないわよ。早く開けてみれば」
「あのぅ、何か怒ってませんか?」
「別に」

――思い切り怒っている……

アンディはそれ以上は目を合わせず、ガタガタと奮えてメールを開いた。

「あっ! リチャードさんからだ。
 パオパオカフェの2号店をオープン…… へぇーすごいなぁ。
 どうやらそのパーティーの招待状みた」

「キャー! パーティー? 招待状なわけ? やったぁー!!」

アンディの声に割り込み、突然、舞がガッツポーズを取って跳び上がった。

やったぁ! リチャードさん、ありがとう!
アンディと二人きりのアメリカ旅行をプレゼントしてくれて!
何着ようかしら? パーティーだから、やっぱドレスかしらねぇ、うふふふふ……

一人で呟いて不気味な笑みを浮かべる舞。

「ど、どうしたの? 何がやったの? おい、舞? 舞? ちょっと……」

お姫様の空模様の激しさに困惑を増すアンディの声は、もはや全く届かなかった。



サウスタウン・エアポート――

かつて、ここから多くの闘士が現れ、飛び立った、
サウスタウン最大級の規模を誇る近代的空港であり、
各諸国とこの街をつなぐ代表的窓口。

ここで働く労働者たちは、飛行機の修繕や補強などといった作業に従事しており、
鉄と油の臭いを全身で受けている。

その中に、一際、目立った大柄な男の姿があった。
工場の男達にとって体格の良い長身の男など珍しくもなかったが、
彼の上背はその誰よりも頭一つ分高い。
しかし大きいが、決して肥満した印象はなく、見事にバランスが取れている。

「おーい! フランコの兄貴ぃ! 電話ですぜー!」

そこへ彼の部下である、パット・ダニエルが声を上げて走って来た。

そして、彼の言葉で電話の相手を知り、この、格闘家の体躯を持った男、
フランコ――フランコ・バッシュの形相が阿修羅のような怒気に包まれた。

――山崎竜二……


数ヶ月前のことである。

フランコは仕事を終え、仲間達と酒を楽しんだ。マイホームの次の、くつろぎの時間。
だが、店を出て気持ち良く家路についた彼を、一つの光景が襲った。
妻と息子を取り囲むようにして立っている、三人の男達。

「ヘッヘッヘッ…… もう一度いい返事を聞きたくてねェ。
 あんたの説得に奥さんと息子さんも協力してくれるってわけだ。ヒィーッヒッヒッ……」

言いながら、真ん中の白い毛皮のコートを羽織った男が、唇の端を吊り上げて笑った。
妻と息子の二人の体はこの距離からでも解るほど大きく震えている。
息子はフランコの姿を認めた途端、溜まっていた物を吐き出すかのように、
ワッと泣き出した。

その一瞬、それに弾かれたフランコの巨体はすでに間合いに入っていた。
手下の男二人は突風に舞う紙キレのように吹っ飛んだ。
そして中央の男――山崎竜二へとその豪腕を振り被る。

だが、その昇った血を静めたのは、他ならぬ、妻、エミリアだった。
殴り飛ばされた男の血で割れた頭が、エミリアの前に横たわっていた。
悲鳴が、上がる。
自分の拳と顔が、返り血で染まっていることに気付いた。

「惜しかったなぁ……」

山崎は喜悦の笑みを浮かべ、フランコの鳩尾に肘を突き刺した。
意識が、泥のようにゆっくりと呑み込まれて行く。
山崎の右腕には、最愛の息子ジュニアが、泣きながら抱かれていた。


「ジュニアは無事なんだろうな! 山崎!!」

電話の先の憎んでも憎み切れぬ相手へ、フランコが怒鳴り声を上げた。

「おお、怖い怖い…… 年季の入った仕込みだねぇ…… ヒヒヒヒ……
 まぁそう怒るなよ、今あんたの大事な息子の声を聞かせてやる」

「パパー……」

か細い、弱々しい声。

「ジュニア!!」

だがフランコには今一番聞きたい声だった。
何度も呼び合うが、言葉が見つからない。ただ互いの名前だけを、阿呆のように呼んだ。
そんな時間さえも、悪魔が切り裂く。

「おっとここまでだ。続きは俺の依頼を消化してからにして貰いたいねぇ……」

「用件は何だ! とっとと言いやがれ!!」

下劣に笑う山崎をフランコの太い声が止めた。
だがそれは、山崎の要求を受け入れる、苦渋の返事。

「おや? やっとその気になってくれたかい?
 有り難いねぇ…… いつか解り合えると思ってたよ、クックックッ」

フランコの歯軋りが山崎にも届いた。
それは一層、山崎の喜悦の笑みを濃くする。

「なぁに、たいした仕事じゃねぇよ…… ちょっと目障りな奴が多くてな……
 そいつら片付けて欲しいんだよ。あんたなら簡単だろ?
 とりあえず今、パイオニアプラザに鬱陶しい雌猫がいてねぇ…… ヒヒヒ……」

「女だと!? ふざけるな!!」

「おやおや、余り俺を怒らせない方が良いんじゃねぇのか?
 うっかり手が滑ってナイフが横切っちまうかもしれねぇなぁ……」

――この男は人の命を何とも思っていない。
例えそれが年幼い子供であっても、息をするように殺してしまうだろう。
そんな壊れた空気が、電話越しのフランコにも伝わった。

「わ、解った…… その代わり息子の命を保証しろよ! この下衆野郎!!」

行き場を失った怒りが目の前の鉄柱をへし折った。
ポケットには自らしたためた、一通の手紙が入っている。
宛て先はない。ただ、藁をも掴む思いで書かれた、
かつてこの街を救った英雄、サウスタウンヒーローの名前だけがあった。



「サウスタウンのパオパオカフェに繋いでくれ」

そんな電話を掛ける、目深に被った赤い帽子から、
二箇所で結んだブロンドの長髪を揺らす男――
行方不明ともっぱらの評判のテリー・ボガードは、
メキシコとの国境付近にある、とある町へ元気に流れていた。

と言っても、ここへ来たのもほんの数日前の話で、
また今回ここを離れる支度もすでに整えている。
まさに根無し草、とジョーが言った通りの彼の武者修行だった。

雲一つない青空が広がっている。
1月だというのに、強い日差しがクッキリと影を作る。

電話が繋がる間、テリーは呆っと小さな教会を見詰めていた。
この町では珍しくない、孤児の集まる教会。
駅前のその教会にも自分と同じ境遇の子供達が集まっていたが、
そんな不幸は感じさせない笑い声で、彼らは遊んでいた。
それを、微笑ましく見詰める。

「おいテリーか!? お前、今どこにいるんだ! 元気にしてるのか!?」

繋がったサウスタウンからリチャードの興奮した声が届いた。

「おいおいリチャード、そんなにいっぺんに聞くなよ。答えられねぇだろ?」

それに笑って答える。

「あぁ、済まない。
 だがな、たまには連絡ぐらい入れてくれてもいいだろう。随分と捜したんだぞ」

そのことは悪かった、とは思ったのだが、
それに答えようとした時、テリーの意識を別の物が引いた。
近付いて来て自分を見詰める、血が浮いたように赤い、少年の瞳。

「俺は相変わらずフラフラと楽しくやってるよ。そっちの調子はどうだい?」

答えたテリーだが、どこか事務的なのは、その瞳があまりに強く、
ある男を連想させたからか――

「今度2号店をオープンすることになったんだ。それで、お前にも来て貰おうと思ってな」
「へぇー、そいつはおめでとう」
「そこで、お前に頼みがあるんだが……」

食い入るような、無垢な瞳に晒される。
強い意志の宿った、どこか哀しい瞳。
すぐ近くで無邪気に遊んでいる子供達とは何か違う、深さのある、赤だった。

「お前に手紙も届いてるから、早いとこ顔を見せてくれよ。娘も喜ぶ」

上の空で電話が終わる。
テリーは少年に近付こうとしたが、少年は教会へ立ち去ってしまった。
自分がジェフと出会ったのも同じくらいの年だった。
ふと、そんなことを思った。

汽笛が鳴る。
サウスタウンへ向けて、汽車が走った。

――テリー・ボガード…… サウスタウンヒーロー……

少年のブロンドの髪が、風でふわふわと舞った。
その瞳は、何かの烙印のように、赤い――



セントラルシティの中央よりやや西、
南西に位置するパオパオカフェ2号店へ向かう途中に、
パイオニアプラザという広場がある。

観光客に人気のこの場所に、
ステンドグラスの眩しい博物館のような教会があるのを目にすると、
不知火舞はアンディの腕を引き一目散に駆け出した。

こういうところがムードがあって良いわよねぇ…… むふふふ……

「ちょ、ちょっと、舞! パオパオカフェ2号店のパーティだろ?」

真っ赤なドレスに身を包み、妄想に耽る舞にはもはや言葉は通じない。
耳元で叫んだって通じはしない。
頭の中身をあらぬ場所へと飛ばしたまま、腕にだけは怪力を込め、
足は確実に教会へと進められる。アンディに抵抗する術は、あるはずもなかった。


花に囲まれた、天使の像がある。
なるほど確かに良い場所だとアンディも思った。

――昔は、こんな綺麗なところがあっただろうか……

思考を過去へと飛ばす。
高級街は勿論、観光街にも接点がなかったからだろうか、
唯一立ち寄った観光街と言えば、3年前のイーストアイランドということになる。
だが、あの時のあの場所は血で彩られたバトルフィールド。
やはりアンディのサウスタウンに、こんな美しいイメージは存在しなかった。

事実、このパイオニアプラザの歴史は浅い。
それは同時に近年におけるサウスタウンの発展を意味していた。
そしてその裏には、鉄鋼、建設、流通、通信、メディア関係を網羅する
一大企業郡であった、ハワード・コネクションの力がある。

この幻想的なステンドグラスも、そこから漏れる虹色の光も、ギース・ハワードが作った物。

「――皮肉だな……」

その哀しい声は、舞の耳にも届いた。

「アンディ……?」

刹那、地震が起こったような、肉が肉を打つ激しい物音が二人を揺らした。

「あっちだ!」
「ちょ、ちょっとぉ!」

舞の腕を切り離し咄嗟に駆け出すアンディを、舞も走って追い掛ける。
そこでは、ボクシンググローブを付けた青い繋ぎの大男と、
ブロンドの髪の決して大柄とは言えない女性が、本気の闘いを見せていた。

あまりにも無理のある、暴力的なマッチメイク。
舞が周囲を見渡すが他には誰もいなかった。
そう言えば、ここへ来るまでも誰もいない。無人の通路を歩いて来たことを認識する。
するとこの、美しかった教会が、人を飲み込む、幻の空中楼閣のようで、
どこか気持ちの悪さが浮かび上がって来た。

縋るようにアンディを見上げるがすでに彼の姿はない。
探した先で彼は、女性へ振り放たれた大男の豪腕を両腕を組んで受けていた。

「アンディ!」

「何だ、貴様は! 邪魔をするな!!」

大男の怒声が腹に響く。
アンディは続けて放たれた後ろ回し蹴りをいなして躱し、
至近距離からの斬影拳を打ち込んだ。
アンディの瞬発力を持ってすれば、
助走距離のないこの間合いでも威力にたいしたロスはない。

男は数歩よろめき、打たれた鳩尾を押さえた。
逆に言えばその程度しかダメージはない。
女神像の陰へ入った男の顔に、アンディは見覚えを感じた。

「貴方は、フランコ・バッシュ……!?」

キック界で無敵と恐れられた男――

「舞、後ろの女性を頼む!」

構えを固くしたアンディの声に押されるように舞は頷き、ブロンドの女性を庇った。

「――何故、貴方がこんな所に?」

「うるせぇ! 俺はその女をぶっ潰さなきゃならねぇんだ! どけ、小僧!」

フランコが一直線に駆け、岩のような腕を振り被る。
アンディは先程ガードした両腕がまだ痺れていることを自覚していた。

――恐ろしいパンチ力だ…… パンチだけでもあのアクセルを上回るかもしれない……

だが、技が粗い。
極度の怒りに思考を失ったその動きは、アンディの見切りの餌食だった。

ギリギリまで引き付け、跳ぶ。
残像を殴り付けたフランコの背に、アンディはおぶさるように着地していた。
そのまま足でフランコの片足を絡め取り、首をチョークスリーパーに絞め上げる。
――不知火流、蜘蛛絡み……!
まさに蜘蛛の巣のように相手を絡め取り、相手の意識を、時に命までも奪う。

全体重を傾けたその絞め技をなんとか外そうともがくフランコだったが、
いかに腕力で勝っていようとも、ボクシンググローブに包まれている腕で
それを外すのは難しかった。
次第に口が開き、唾液が漏れる。

「お、ぐ、あぁあ……」

やがて脳が酸素を失い、フランコは完全に落ちた。
それを確認するとアンディは離れ、汗を拭う。
崩れ落ちたフランコの巨体が、薔薇の絵を塗り込まれた美麗な石床を軋ませた。

――何故、あのフランコ・バッシュがこんな……

思案を巡らせ、呆然と立ち尽くす。

そんな時間を引き裂いたのは、大声で走り寄って来る舞と、
吠えながら一緒に駆けて来る一匹の犬だった。

「うぉうわっ!!」

大袈裟にアンディが仰け反る。

「な、なによ!?」

その失礼な動作に舞が怪訝に眉をしかめた。
その脇をすり抜け、白黒の毛並みの揃ったイングリッシュポインターが
アンディに擦り寄ると、彼は青褪め、数歩下がって石のように固まった。

「アンディ? だ、大丈夫? どこか怪我でもしたの?」

さすがに心配する舞だったが、アンディはそれどころではないといった様子だ。
そこにブロンドの髪の女性が、レザージャケットを羽織って寄って来た。

「ダメよ、アントン。怖がってるでしょ?」

アントンと呼ばれたイングリッシュポインターがアンディを離れ、女性へ向かう。
女性が頭を撫でるとアントンは嬉しそうに尻尾を振った。よく懐いているようだ。

「――犬、怖いの?」

「そそ、そんなわけないじゃないか! ちょ、ちょっと警戒しただけだよ!」

ポカンとした表情で見上げる舞に答えたアンディには、激しい動揺が見て取れた。
どうやら彼にまた、新しい弱点が増えたようだ。

「ありがとう、犬嫌いなナイトさん。助かったわ」

そう言って笑う女性は、ステンドグラスの光を浴びて、
洒落っ気のない活動的な服装でありながら、
教会の雰囲気に溶け込むような美しさがあった。

だが、その笑顔は、どこか寂しい、儚さがある。
それ故にまた、周囲の幻想的な雰囲気に溶け込み、際立っていた。

一瞬、見取れたアンディと舞だったが、
物凄い勢いで踏み抜かれたアンディの足がその静寂を切り裂いた。

それに笑いながら、彼女は後方へ止めてあったバイクへと向かっていた。
顔を見合わせる舞とアンディ。
それもそのはず、そのバイクは彼女の体格や先程の気品からはかけ離れた、
大型オートバイ、俗に言うハーレーなのである。

だが、彼女はそれに違和感のない仕草でまたがり、手で会釈して走り去って行った。

「あ、あの、ちょっと!」

事情を聞きそびれたことに気付いたアンディが身を乗り出す。
するとまた大地が揺れるような震脚が行われ、アンディが跳び跳ねる結果となった。

「パオパオカフェ2号店のパーティなんでしょ?」

自分が連れ込んだことなどすでに忘却の彼方である。
舞に腕を引かれ、連行されるアンディ。
視線の先で、フランコ・バッシュがゆっくりと起き上がろうとしているのが見えた。
首から何か、ペンダントのような物が悲しそうに揺れている。

フランコ・バッシュ――
元キックボクシング全米スーパーヘビー級チャンピオンである。



ドブネズミを飼うようになった――

彼の知らない所で、ある男が言った。

2年ぶりに帰って来たヒーローは、麻のズタ袋を背負い、
この街の惨状に立ち尽くしていた。

空気が重く、淀んでいる。
数時間前に居た街の空があんなに晴れ渡っていたのが嘘のように、
夜へ差し掛かったその街には、息苦しい、薄暗さがあった。

すれ違う人間達に生気はなく、そのくすんだ瞳はまるで人形のようだった。
暴力の理不尽を受け入れた人形達が、脆弱に、無気力に、死んだように生きている。

灯った電灯の光が、赤黒く付着した血の跡を照らした。
暴力の臭いがする。それも、どこからも。
街全体から、血の臭いが漂って来る。

振り下ろされる鉄パイプを、テリー・ボガードの太い腕が止めた。

恐怖のタガが外れた野犬達が自由を取り戻し、弱者を貪っている。
ギース・ハワードという檻から解放された野犬達が、サウスタウンを食い荒している。

かつて、確かに笑顔を取り戻していたこの街の人間達は、
時の流れと共に、腐臭のするゾンビのように沸いて出る、品性を失った愚者達に噛まれ、
再び、青白い人形となって、震えながら過ごしていた。

抑制の効かない、欲望に流されるだけの野犬達が横行闊歩し、
時に弱者を喰らい、時に第二のギースにならんと縄張りを争って、野犬同士で喰らい合う。
無限に増殖する彼らを止める、恐怖の柱はもう存在しない。

悪の柱も、ヒーローも存在しない空白が、今のこの街の惨状を生み出した。
光も、闇も失った、ただ黒く汚れただけの街。

逃げ去って行く男達を見ながら、テリーは嘆くように、真っ暗な空を見上げた。
闇の中に、真っ赤な月が、異様な化物の瞳のように、ただ一人だけ浮いている。
それがゆっくりと歪み、喜悦の笑みへと変わって行った。

何かの、予感がある――

行き場を失った怨念が、振り払っても、振り払っても、肌に纏わり付いて離れない。


【28】

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