駆けた先には、途端に何もなかった。
無音の世界。鉄とコンクリートの鈍い無色だけが冷たく生きている。
赤い背中はその場所に、置物のように静止していた。

「崇秀…… やっと会えた。さぁ道場へ帰るんだ」

クスクスと、薄気味悪い笑い声。
それに神経を侵蝕されながらも気圧されずに大地を踏み締めるキムへ、
秦崇秀――いや、秦海龍が振り返った。

「こんな所でまた貴方に会いますか。フフ、これも何かの運命でしょうね」

脳裏に浮かんだのは人形だった。
彼の知っている崇秀という少年は、年齢以上にあどけなく、
遠慮がちではにかみ屋の、とりわけ人間味のある少年だった。
だが今、目の前に存在しているコレにはそれを微塵も感じない。
死体のように色の無い顔を歪ませた笑いは人間の笑みとは違う寒さを持っていた。

「貴方は生贄に選ばれたようです。光栄に思って下さいね」

「何を言っているんだ、崇秀。さぁ、ドンとジェイも待ってい……!?」

言葉の途中、崇秀の姿が消えた。
そしてすでに目の前にある。
一瞬、彼の眼が細く歪んだのを見るとキムは蹴り飛ばされ、固い地面を転がっていた。

道場で教えていた頃とはまるで違う蹴りの重さ。
それは彼のような小柄な子供が出せる力ではなかった。

軽く口の中が切れる。
それを手の甲で拭うとキムは起き上がって構えた。
決断は早かった。闘って止める。それしか方法はない。

「そうですよ、闘って下さい。
 貴方のように武に全てを捧げた人間は、暴力によってしか支配を成し得ない。
 私を説得したければ精一杯闘うことです」

「違う。私は今まで積み上げて来たこの武で、貴方を導きましょう」

「クククク…… 物は言いようですね。
 私はもう貴方が目をかけた秦崇秀とは違うと知っているでしょうに、
 私の何を導くと言うのでしょう?」

「力は、正しき者が使わなければならない。
 同時に、力を持つ者は、正しき心を持たねばならない。
 崇秀には正しき力を、貴方には正しき心を、私が教育してやる」

「やれやれ、凡人が説法など、弁えろ……!」

再び崇秀の姿が消える。
いや今度は見えた。崇秀は消えたのではなく、地面を無音で滑っている。
それが恐ろしく速い。人間に視認出来る限界のスピードを秦崇秀は持っている。

気付いた瞬間には手刀が振り上げられていた。
ガードした腕に赤い線が走る。
反撃に出した横蹴りは崇秀の身体をすり抜け、現れた側面からの掌打を浴びていた。

「ぐぅ!」

「民衆を導くのは常に力のある者でしょう!
 善悪などという狭い定義でしか考えられない者は例えどんな力を持っていても
 誰一人として導くことは不可能ですよ!」

キムの速度の乗った蹴りの連打を崇秀が神速で躱す。
そして今度は振り下ろされた崇秀の手刀がキムの頭を通過した。
それは通過しただけだった。
同時に、飛ぶような反応で手刀を躱したキムの後ろ蹴りが崇秀を捉えた。

「――なっ!?」

「お前が芯まで悪に染まっているのなら、崇秀を返して貰うだけだ!」

崇秀の唇が切れ、真紅の血が地面に落ちる。
それに両手で触れた崇秀の眼には怒りが宿っていた。

「――話に、なりませんね……」

崇秀が踏み込む。捉えられないスピード。
その逃れられない神速で間合いを無とし、肉体の限界を超えた力の拳を打ち込む。
それが崇秀のパターンだった。

だが、キムの見切りはすでにそのスピードに対応していた。
見えた以上は、身体は神経で動く。
崇秀の腕の外から長いキムの蹴りが激しくめり込んだ。

「うがっ!」

思わず後方へ滑るように逃げる。
しかしその場所に勢いの乗った踵が降りかかって来た。
キム・カッファンの奥義の一つ、半月斬。
防御の上からでもそれは重りとなって腕を打つ。
撹乱しながら逃れ、再び踏み込んだ先には同じようにカウンターの蹴りがあった。

攻防一体。
専門家はキム・カッファンの瞬間の怒涛の攻めを評価するが、
実際闘った者は別の部分に恐怖を感じる。

それは見切り。
技を見切り、間合いを見切り、確実に、堅実に打撃を当ててダメージを奪って行く。
彼が怒涛の攻めを展開する時はすでに勝負が決まっている時だ。
一度だけの例外はテリー・ボガードとの闘いだが、
彼の見切りの上を行くのは決して容易ではない。
キム・カッファンは平常のまま心乱さず、揺るがぬ信念で己を信じ、正確に的を射抜く。

「もうやめろ、崇秀。お前は確かに強い。だが如何せんまだ身体が未成熟だ。
 そのリーチではテコンドーの足技は潜れない」

――クククク……

言葉を受けて、人形が笑う。
血が混じり、化粧を施されたように真っ赤な崇秀の唇には不気味な艶があった。

「リーチ、ですか。そんな稚拙な概念が通用するとでも?」

崇秀の掌から光が生まれた。
彼の父、秦王龍がその極意を極め伝えた気功という名の武力。
光り輝く生命の光は殺傷力を持ってキム・カッファンへと投げ付けられた。

「ここまでのようですね! ……天眼拳!」

それを鋭く見据え、キムが腰を落とす。
握られた拳には力が、口からは熱を帯びた呼吸が走る。
直撃。だが濛々と立ち込める煙の中でキム・カッファンは活力を持ったまま構えていた。

「何だと!?」

崇秀を譲り受けた際に、キムはタン・フー・ルーから一つの極意を授けられている。
それは彼が秦の秘伝書を解読し、現代に甦らせた彼らの技法。
身を固め、気を中和し、流れを乱す八極聖拳の気功防御だった。
期間は短い。だがキムの性情はその受けを徹底的に磨き上げさせた。

「タン大人は、この時を見越して私にこの型を授けて下さったのでしょう……」

八極聖拳が門外不出の拳であることは知っている。
それを、授けられた。負けられない。必ず崇秀を救い出さなくてはならない。
キムの気が充実し、構えに前以上の力が入る。
崇秀から消えた笑みが今のキムの実力を物語っていた。

「秦の種は少々不適格な強者を生み過ぎてしまったようですね……
 ですが――」

崇秀の踏み込みが行われる。それに反応してキムが動く。
「無駄だ!」
気合が口をつく。キム・カッファンは逃さない。
今度も繰り返し――

だが、蹴りの向こうで崇秀の姿は幻のように掻き消えた。

「なっ!?」

思わず驚愕の息を飲んだ。次に気配が出現したのは無防備な頭上。
回転して力の乗せられた強烈な両足の一撃が後頭部に刺さった。
前のめりに歪み、背後を取られる。本能で振り向く。
しかしそこに打ち込まれた肘には蹴り以上の破壊力があった。

一瞬、止まる。その瞬間には頭を抱え込まれていた。
地下鉄の冷たい地面が鈍い音を鳴らす。
打ち付けられたキムの頭からは絵の具のように血が広がっていた。

「言ったでしょう? リーチなどは稚拙な概念だと。
 私の帝王神眼拳に間合いはありません」

見えなかったのではない。今度は確実に崇秀の姿が消えた。
瞬間移動――そんなことが可能ならば、その者には確かに間合いは存在しないだろう。
そしてそれはすでに、格闘技ではない。

崇秀が自分の掌をじっと見つめる。
握ると、力が入る。脱力感はない。真っ赤に彩られた唇がいびつに歪んだ。

「感謝しますよ、キム・カッファン。貴方が崇秀を鍛えてくれたお陰で、
 この身体でもここまで力を引き出せるようになりました。
 力を試す生贄にもなってくれましたし、貴方には感謝の言葉もないですね。 クククク……」

踵を返し、崇秀が駅の暗闇に消える。
その真っ赤な中華装束は不自然なまでに自然に闇へ溶け込んで行く。

「――ま、待て!」

だが、片手で出血を押さえながらキムが動いた。

「やれやれ……」

声は背後で聞こえた。目が見開かれる。だが振り返れない。
膝を突いたままのキムの首は恐ろしい力で崇秀に掴まれていた。

「せめてもの礼に命だけは助けてやろうと思ったんですがね。
 何が不服なのでしょうか?」

「――崇秀…… お前は崇秀だ…… お前は決して先祖の人格などではない……!」

「――何ですか? 何が言いたいのかまるで解りませんが」

「私には解る…… 今のお前は、お前が生んだ心の闇……
 お前に流れる血は、確かに秦一族という魔性に魅入られた特別な血なのだろう……
 だが、お前は秦崇秀だ! 私達と行った修練を思い出せ! 血の中に逃げ込むな!
 お前は正しき心で闘える男だろう!」

「…………」

「帰って来い、崇秀! 私はお前を、救いたい!」

崇秀の腕に力が込められた。
首を掴んだままの発勁。
キムは得体の知れない力に吹き飛ばされたように激しく地面を滑り、
鉄柱に背を打ちつけた。だが起き上がる。構えは、鳳凰脚。

崇秀のスピードと、帝王神眼拳と言った瞬間移動を考えれば決めるのは難しい。
今のダメージと体力。もはや一度しかチャンスはない。
それは一発だけ残された弾丸。外すことは許されない。だが決まれば確実に勝てる。
キムはじっと崇秀の動きを睨み動かない。

時間だけが過ぎて行く。
極限の集中。神経が磨り減り、激しく消耗して行く。

やがてついに、崇秀が動いた。
瞬間移動ではない。単純な、信じ難いスピード。
今までよりもさらに上がった速度で崇秀の踏み込みが行われた。
キムの研ぎ澄まされた神経ですら反応出来ない。
見開かれた目の前を赤い影が光のように駆け抜ける。

だが、視認した崇秀の姿は遠く、キムの視界の隅にあった。

「クククク…… 少々目眩がしますね。今はこの辺が限界ですか。
 ですがこれなら充分でしょう。
 今の私ならば容易にギース・ハワードを屈服させることが出来る。
 その確信が持てました。もうこの大会を利用する意味もありませんね」

「どこへ行く、崇秀! 何をするつもりだ!」

キムが叫ぶ。崇秀が去るというのなら、彼にはもう追う術はない。
その理解はキムに声を振り絞らせた。だが彼の信じる少年の心は遠く、届かない。

「蝿を潰すと汚物が付着して不愉快ですよね?
 そういうことです。貴方は殺す気にもなれない。では……」

「待て!!」

追おうとした足が地震でも起こったかのように揺れた。
膝が笑う。気付けば両手を突いていた。
崇秀の小さな身体は闇に紛れて消えて行く。
腕を伸ばし、声を振り絞ってももうそれを食い止めることは出来なかった。

歪みが来たのは膝ではなく頭だと気付くと意識が遠退いた。
気力でそれを振り払う。だが立ち上がることまでは出来なかった。

「タン大人…… テリーさん…… 申し訳ない……」

ポタポタと落ちる赤い雫の向こうで、闇がクスクスと笑っているように見えた。



背後の気配を感じながら、張り詰めた危機感を漂わせた男が歩いている。
日本の忍者を思わせる道着を着込んだ男は明らかにファイターなのにも関わらず、
彼の周囲には野次馬一人近寄らない。
その中で、一つの気配だけがずっと後を追って来ている。

選んだ場所はサウンドビーチの僻。
すでに闇も深まりつつあるビーチには、神経がささめくような静けさがあった。
虫の鳴き声がする。それ以外は何も知らせては来ない。
だが、男はその気配を見抜いている。

「この辺で良いのではないですか?
 不意の闇討ちなど無意味だと貴方ならもう理解しているでしょう」

男が口を開いた。
街灯さえも存在しない薄暗い世界から、一人の僧が姿を現す。

「不知火流体術のアンディ・ボガード、と貴様は以前に名乗ったな……
 この街の英雄とやらの名もボガードと言うらしい。だが貴様ではないな。 兄弟か?」

「――貴方には関係ないでしょう」

「そうだな、だが以前と随分雰囲気が違う。
 血がそうさせるのか、まさに修羅が如し。
 もう一人のボガード共々儂が狩らねばなるまいて」

アンディが、振り返る。
暗闇の中、編み笠で顔を隠した男は知っている人間だが、
どこか前とは違って見えた。

「貴方も随分と変わりましたよ。ひどくやつれている」

望月双角――
修羅狩りを使命とする不知火の敵対者。

「不知火の者に情を掛けられるほど堕ちてはおらぬ」

「そうですね、闘いの場に出た以上、常にベストコンディションで闘えるとは限らない。
 私もここでの無駄な消耗は避けたいと考えます」

「また逃げるのか?」

「いえ、すぐに片付ける、ということです」

「よう言うたわ、小僧が……!」

言葉に弾かれるように双角が印を組んだ。
口だけが早送りのように振動する。それが望月が誇る理力拳。

だが直後、その口からは血が吐き出されていた。
双角の視界から消えたアンディの肘が、すでに腹に抉り込まれている。
もう一度激しく吐血すると双角は前に倒れ、もう動くことはなかった。

「一度見た術を…… 長々と詠ませる意味はないでしょう」

冷酷に見下ろす。風がなびき、アンディの結ばれた長髪が揺れている。
佇む間もなく、風の方向には新しい気配があった。
よく知っている気配。無表情に顔を上げると想像通りのシルエットがある。

「いやぁ寒いねぇ。ブルブル来るぜ」

冬の冷たい潮風が吹き抜ける中を、
トランクスのみの戦闘スタイルで男が歩いて来ていた。
アンディはまだ鋭さを称えたままの眼で、その男を見やる。

「俺が先に見つけちまうとはな。まぁ何だ、思ったより元気そうで何よりだぜ」

「悪いが、ジョー。お前と闘っている時間はない」

「残された時間を、ギースに…… いや、テリーにか?
 それで誰が喜ぶってんだ? ええ?」

「――話している時間も惜しいんだ、退いてくれ」

「断る」

ジョー・東は片手を腰に当て、不遜な態度で言った。
アンディは動じない。

「舞に、頼まれたのか?」

「関係ないね、これは俺の意思だ。
 お前がどうしても命を捨てるような真似しやがるってんなら、俺がお前を止める。
 そしてぶっ倒れたお前にお前がどれだけ馬鹿なこと考えてやがったのか
 みっちり説教してやるぜ」

ジョーが構える。
静止しているだけでも切り裂くような空気を感じる、ムエタイのサウスポースタイル。
一度や二度ではない。この男とは何度となく拳を交え、拳を高め合った。
それが本気の構えであることは肌に直接伝わって来る。

「――言い出すと聞かない奴だったな」

「おう! よく解ってんじゃねぇか!!」

ジョーが一気に踏み込んだ。空気が荒れる。
だが、ジョーのミドルキックが唸った瞬間、荒れた空気は流れて消えた。
同時に、アンディの姿もすでに存在しない。

「にッ!?」

ジョーが辺りを見回す。そこは一片の光も差し込まない闇。
空はすでに漆黒に染まってこの闘いの場を眺めていた。
虫の声と、小さな波の音だけが生きている。

――野郎…… 気配までねぇ……!

アンディ・ボガードは完全に闇に溶け込んで消失していた。

静寂――
そして僅かに空気が揺れたのはジョーの頭上だった。
反応した瞬間にはすでに首に腕が巻きつけられている。
不知火、蜘蛛絡み。

だが足までは取らせない。
さらに下半身の自由を奪わんとアンディが足を絡めて来る前に、
ジョーは後ろに体重をかけて形を崩した。
アンディが技を解いて飛ぶ。背を打ちつけたジョーが素早く立ち上がるとしかし、
すでにアンディの姿はなかった。

空気が止まっている。闇の中、その気配も存在しない。
ジョーの舌打ちの音が響いた。

闇を切り裂くようにアンディ・ボガードは現れ、そしてまた消える。
肉体に刻まれる鋭いダメージ。何度も。確実に。
ジョーの荒い呼吸音だけがその場所に人間がいる信号だった。

「すっかり忍者してるじゃねぇか…… 骨法はどうした! 骨法はよ!」

おどけた口調だが余裕はない。

「ジョー…… 正面からお前と闘えば、無傷で勝つことは出来ない」

後方。暗闇から静かな声だけが響いた。
すぐにその場所へバックブローを繰り出すが、不発。
アンディの気配はさらにその後方に現れた。

「そうやってチョロチョロ隠れまわってりゃ俺様に無傷で勝てるってか?」

「お前はライトに照らされた場所での闘いに慣れすぎている。
 だが不知火流は場所を選ばない。その地を利とし、その地を駆ける」

背中からの声に、ジョーの口元が笑った。

「ああ、俺がただのムエタイチャンプならそうだろうな……!」

刹那、アンディへ振り向きながらの遠心力の乗ったローが打ち込まれた。
飛び退いてそれを躱し、アンディは再び闇へ消える。
だが回り込んだ場所に竜巻が舞った。それも二つ。
ジョーが両腕で放った、広範囲をカバーするハリケーンの壁。

それを受けて倒れたアンディへジョーが駆ける。
勢いの乗ったミドルキックを受け、アンディの表情が歪んだ。
だがすぐに肘を返す。続けて頭を打ち下ろす上方からの浴びせ踵落とし。
それをガードして怯んだジョーを見るとアンディはすぐに闇へ溶けた。
今度はハリケーンは来ない。だが、もう迂闊には近寄れない。

時間だけが流れる――
夜明けが来れば戦況はどちらへ傾くか解らない。
だが今は睨み合うしかなかった。完全に闇へ紛れるには覚悟が要る。
水を含んだ風が冷たく二人の肌を打った。

「こうやって睨み合ってても仕方ねぇ。
 まぁ睨み合おうにも俺にはお前さんの姿は見えねぇわけだが、
 種明かしをしてやろうかぁ? とっくに気付いてっかも知れねぇがよ」

アンディの応答はない。

「――気功だ。八極聖拳の気功で身を固めるには呼吸法が要る。
 並の男ならお前の限界まで静めた呼吸音なんざ感じ取れねぇだろうがよ。
 生憎、俺様は並の男ではなかった。俺の戦場はリングの上だけじゃねぇ。
 自慢にゃならねぇが、ケンカ慣れしてるってこったな。
 逃げに回るお前のスピードを完全に捉えるのは難しいが、
 漠然となら判っちまうんだよ、これが。
 俺はいつでもお前の呼吸へ爆裂ハリケーンを撃てるぜ」

――さぁ、どうする……?

これは賭けだ。実際、このまま刻まれ続ければ勝利を得るのは難しい。
漠然と判ると言っても、それはあくまで漠然に過ぎない。
全神経をアンディの呼吸音へ集中し、それに反応して撃つ。容易ではない。
いつかは致命の一撃を入れられてしまうだろう。

だが、朝が来て、闇が晴れる前に決着をつけたいであろうアンディは
この賭けに乗って来る。そう確信する。
その後に訪れるのは勝利ではないかも知れないが、彼を止めることは可能だ。
アンディを止める。それが東丈の絶対の決意だった。

「アンディよ…… 俺はボクシングが弱ぇとは思わねぇ。
 実際、アクセル・ホークは馬鹿みてぇに強かったしな。全盛期はもっと強かったんだろう。
 おめぇが一撃浴びせてなかったら、俺は負けてたかも知れねぇ」

空気は動かない。

「でも俺はボクシングを捨てた。結構、期待されてたんだがな。後悔はしてねぇ。
 ――まだ来ねぇか? なら、昔話の始まりだ。
 連戦連勝、向かうところ敵なしでいい気になってた俺様の前に、ある男が現れた。
 日本刀みてぇに鋭い眼つきでよ、なのに闘志はギラギラ熱く滾ってた。
 嫌な予感がしたぜ。だが同時に闘ってみてぇと思った。
 で、結果は俺様の見事なKO負けよ。ココんところに妙な蹴り入れられてな」

コメカミを突付く。
隙だらけだが、アンディは闇に潜んだまま動かない。

「その後、何度か俺はそいつの家に出向いた。
 その度にそいつは張り詰めた顔でお出迎えしてくれてよ。
 で、その度に俺はそいつの足技に面食らうことになった。
 憧れたよ。ボクシングを捨てるのに何の躊躇いもなかった」

――俺を救ってくれた、ボクシングをな……

「実はばあちゃんの遺言は「高校だけは出とけ」だったんだがよ。
 俺は中退してタイへ飛んだ。もっと強くなりてぇと思った。
 んで、今では念願叶って無敵のムエタイチャンプってわけだ。
 一方、この俺が終生のライバルと見込んだその男も、また超一流のファイターに成長して、
 別れてた兄貴とも再会を果たし、羨ましいことにカワイイ彼女まで側に居る。
 なのに――」

ジョーが表情を険しくし、構えを強めた。
神経を一点に集中する。

「そいつは未だに張り詰めた面で、手前勝手に命を捨てるような馬鹿な真似してやがる!
 俺は許せねぇんだよ! ぜってぇ許さねぇ!!
 来い、アンディ! てめぇの仏頂面に、黄金の蹴りぃぶち込んでやるぜ!!」

――アンディが動いた。呼吸音はしない。
無音。無呼吸での踏み込み。現れたのは側面だった。ジョーに反応は出来ない。
ガードの空いた脇腹へアンディの肘が突き刺さる。
完全なタイミングで最大の加速の付いた斬影拳がジョーのアバラを砕いた。

だが、ジョーが集中していたのは呼吸音ではない。
痛覚。己が身に打ち込まれる痛みのみに彼は集中していた。
アンディは呼吸法を使わない。
それはジョーの並外れた格闘家としての嗅覚を掻い潜るには絶対の条件だった。
だが、それを行えば当然、気功で固めた身体も解ける。
気功が常識と化した彼らの闘いにおいてのこの瞬間はあまりにも無防備だった。

激しい痛みが脇腹へ走り、世界の力は衝撃と共に後退を要求する。
だが踏み締める。右足で大地を踏み締め、
まだ技の構えの解けないアンディの即頭部へ、タイへ渡って10年、
鍛え上げた蹴りを、彼の最初のライバルへと打ち込む――

だが、その蹴りは空中で遮られた。
完全に決まるタイミングだったはずの蹴りが止まる。
斬影拳から止まらず、流れるように繰り出されたアンディの裏拳が、
ジョーの蹴りと激突していた。

衝撃に、片足のジョーのバランスが崩れる。
大きく身体を流されたアンディは右足で大地を踏み抜き、再び加速した。
焔が上がる。鬱蒼としたまま押し黙っていた闇へ光が与えられた。
炎を纏った浴びせ蹴りはジョーのガードを打ち破り、確実に致命の一打を打ち込んでいた。

ジョーの眼が生気を失ったまま泳ぐ。
腕に巻かれたバンテージが燃え上がり、去って行くアンディの背を照らした。

「――すまない、ジョー…… お前には解らないんだ」

両手を地に突き、その背を追えない自分に歯を食い縛った。
遠くなって行く――

「――ッキショウ……!」

大地を殴った。何度も、何度も。

「お節介だってのは解ってんだよ……
 でも解ってっから……! だからてめぇが焦る必要なんかねぇって…… 解ってっから……」

――なぁ…… そうだろ、テリー?

「お前以外、みんな解ってんだよ…… 馬鹿野郎……」

拳が作った赤い池に透明の雫が混ざって消えた。
再び、閉じられた瞳から流れ落ちる。数滴。何度も。

「――ッキショウ……」

力なく打ち込まれた拳が薄く広がった池を弾けさせた。
その飛沫までも彼の涙のように、嗚咽するその背中は小さかった。

【36】

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