すでに宵闇が迫っていた。
一歩一歩噛み締めるように、テリーはサウスタウンの地を刻む。
淀んだ空と、暖かい大地。紛れも無い、彼のホームタウンがそこにある。

10年ぶりに戻って来た時はギースの手で変わったと思った。
だが今はそうは思わない。この街は何も変わってはいなかった。
変わったのは自分。憎しみに狂い、復讐のためだけに生きた自分。

だが、だからこそ得る物は確実にあったはずだ。
だからこそ気づけた物は確実にあったはずだ。

少なくとも、宿敵と、ギース・ハワードという存在と出会えた。
それだけでも、テリーに過去を否定する材料はない。

後悔が全くないわけではない。まだ過ちに痛む日もある。
だが、これまで歩んで来た道が、すでにそこに答えを教えてくれている。
それはすでに後悔ではない。成長だ。
過程を後悔で綴るほど浅ましい道を歩んで来たつもりはない。
一歩、また一歩と、テリーはサウスタウンビレッジへと歩を進めた。

以前は人が集まり、歓声に包まれていた場所。
だが今は自分の足音しか聞こえない。人がいないわけではない。
散開しているが人影はまばらに存在する。なのに、凍りついたような無音。
橋の前で立っている男が放つ独特の殺気が空気をすら萎縮させている。

離れて、この街では知らぬ者のいないその男を見るギャラリーは、
誰一人、声を発することが出来なかった。

「酷い格好だな、ビリー。遭難でもしてたのか?」

「経費削減でな。カーナビが削られちまったんだよ」

「誰かさんが使い込んでるからだろ? 仕事は真面目にしろよ」

「仕事もしてねぇ野郎に言われたかねぇな」

ズボンも、ジャケットも随所を引き裂かれ、そして頭から水を浴びたように重く湿っている。
パリパリに乾いた場所へまた水滴が落ち、それを重さに変える。
棍にもたれかかるようにして、ビリー・カーンがかろうじて立っていた。

「まぁそう言うなよ。縛られねぇってのも結構良いもんだぜ。
 ――退きな」

「何の冗談だ?」

「冗談のつもりはない。早く帰って治療を受けた方が良い」

「テメェが俺の心配か? 笑えるぜ」

「妹さんがいるんだろ? おい、あんた、こいつをさっさと妹んとこへ連れて……」

ビリーの傍らに唯一存在している人影へテリーが言う。
その言葉を遮ったのはビリーが打ち出した棍の一撃だった。
だが、拳に握り取られる。テリーが少し力を入れただけでビリーの身体は揺れた。

「テメェにナメられちゃたまんねんだよ…… 来な……!」

「さすがだぜ、あんた」

すでに、テリーの拳はビリーの腹部へと突き刺さっていた。
ゆっくりと、ビリーがテリーの肩へ倒れ込む。

「ヘッ…… この程度な、ら…… グッスリ眠れるぜ……」

「――ああ、ゆっくり眠りな」

呻くように言い残し、ビリーの意識は泥の中に落ちた。

――お前が起きる頃には、もう……

ビリーをそのまま肩に抱え、コネクションのスーツを着た男へと渡す。
片腕で受け止めた男もまた大きな怪我を負っているのに気づいた。
それなのに治療も行わず、二人で待っていた。
前にギースタワーへと案内した男だ。

「テリー・ボガード、一つだけ聞かせろ」

テリーが視線を向ける。

「お前はまだ、ギース様を憎んでいるのか……?」

――――……


「――憎しみだけじゃ、生きていけねぇさ」

テリーは再び視線を切り、ギースタワーを見上げて言った。
道はもう、直線のみを示している。



「縁起の悪い男が来たな」

今日も夜を迎えようとするサウスタウンを、椅子を回して眺めていたギースが口を開いた。
その背には派手なオレンジ色のほつれた道着を穿き、
パンパンに張った筋肉を黒のシャツで覆った、明らかに格闘家と思われる初老の男がいた。

「そう言うな、見舞いに来てやったんだ」

男が髭を擦りながら言う。
大雑把に後ろに回された金色の髪は針のような剛毛だ。

「なら必要ないな。私はこの通りピンピンしているよ」

ギースが椅子を回し、不敵な笑みを浮かべて言った。

「みたいだな。で、また性懲りも無くKOFか? 懲りない奴だな、あんたも」

「性分でね。お前も出ても構わんぞ。もっとも、ここまで辿り着ける保証は出来んがな」

「――テリー・ボガード、か。確かにあいつにゃ勝てそうもないな」

男はおどけた表情で目線を斜めに上げ、軽く笑う。

「ほう、極限流最高師範が負けを認めるか」

「ブラジルに支部が出来てね、今帰って来たところだ。
 弟子の面倒も見なきゃならねぇし、何かと忙しい」

「見苦しい言い訳だな」

「そうだな、だがあの男はあんただけを見ている。狼の眼でな。
 今の俺にはないものだ。負けを認めるよ。俺は老けすぎちまった」

「私にはそうは見えんがね。貴様は今でも、無敵の龍のままだ」

「なら、やるかい?」

「とぼけた奴だ。そのつもりで来たのだろう?」

リョウ・サカザキが、ニヤリと笑った。



案内された、ギースタワーの最上階付近にある和風の私室をグルリと回る。
木で造られたベランダと言えば適当だろうか。
天井も、周囲を囲む柵もまた木が掛けられてあるだけであり、豪快な吹き抜けとなっている。
その為、この季節、この場所は着込んでいても肌寒さがある。
だが今は、二人の男の熱気がその自然さえを呑み込んでいた。

「威風堂々…… 驚天動地…… 金剛不壊……
 よくもまぁこんなもんを造ったもんだ。相変わらず良い趣味してるよ」

リョウが周囲に掛けられてある横書きの掛け軸を見てそう言った。
それを聞き、すでに道着に着替えているギースが笑う。

「不逞の輩に屋上の庭園を焼き落とされてしまったのでね。
 あれは気に入っていたのだが、ここもなかなか趣があって良いだろう」

「親父は好きかも知れねぇな」

癖になっているのか、リョウがまた髭を擦りながら言った。

「フッ、タクマは健在か」

「健在も何も、ロバートの財団が身内に入ってからもうやりたい放題だぜ。
 世界中に支部を作るんだとか何とか言って、俺はブラジルに飛ばされる有様。
 それだけならまだ良い。弟子を鍛えてて血が騒いだのか、
 最近はまた現役復帰するなんて言い出して全く手に負えないぜ」

「ハハハッ、リー・ガクスウは百まで現役だったからな」

「それだ。俺達が止めると決まって言う。
 ったく、あの爺さんはほとんど妖怪だってのにな。二百まで生きるんじゃねぇか?
 ――まぁ、それを言えばうちの親父も妖怪みたいなもんか」

「なら、お前も妖怪だな。
 今のお前は私の記憶の中のタクマ・サカザキと比べても何ら見劣りせんよ」

「へぇ、そいつは嬉しいね。
 だが、ってことはあんたも妖怪になっちまうな。その俺に勝ってる」

「一勝一敗、ではなかったのか?」

「だったな。んじゃ決着戦と、行こうかい」

リョウが腰を落とし、拳を軽く握った。
気が入る。それだけで木の柵が壊れそうなほど激しく揺れた。
ギースは直立のまま手を腰の辺りで構えている。
かつて、このビルがギースタワーと呼ばれる前、この場所で闘ったときとはまるで違う構え。
攻撃的だった以前とは違い、今のギースには仕掛けた技を全て受ける、
千手観音の腕を持っているように思えた。

ジリジリと、リョウが間合いを調節する。
そして咆哮を上げると大砲のような正拳突きを打ち出した。

「うおおおおりぁあああ―――っ!!」

それはまさしく大砲そのものだった。
当たる前にすでに風圧が見開いた瞳を打つ。
両腕で防御に回ったギースは遥か後方へと吹き飛ばされていた。
引き摺った地面から焦げ臭い臭いが立ち上る。

交差した腕の隙間から見えるギースの顔はこの上ない喜びの表情だった。

「久方ぶりの極限流―― 一片の衰えも無し! そうでなくてはな、リョウ!」

同じように笑うリョウへ向かってギースが左腕を振り上げた。
気の烈風が殺傷力を持ってリョウへ襲い掛かる。
だがリョウは気合の声を発するとそれを踏み潰し、今度は右手に気を収束させた。

「虎煌拳!!」

気の弾丸がギースへ打ち込まれる。
ギースもまたそれを拳で打ち消そうとした。
だが、その瞬間にリョウが吼え、突き出した掌を激しく握った。

「砕!」

目の前で気弾が爆ぜた。ギースの眉が驚きに歪む。
瞬間に見切って防御に移ったギースはさすがだったが、
眼前にはもう空中に浮かぶリョウの姿があった。

リョウが振り抜く鋭い跳び蹴りを躱す。二段目はガードで受ける。
奇襲は受けない。着地に下段蹴りを打ち込んだ。
苦し紛れにリョウが出した拳に力は乗っていなかった。

「でぃあぁ!」

ギースの渾身の掌底が今度はリョウの身体を大きく弾き飛ばした。

倒れながら煙を巻き上げ、途中で手を突いて起きる。
血を吐き捨て、埃を払うリョウにはまだまだ余裕があった。
反対に、ギースが感心したような、お手上げのような笑みを浮かべていた。

「まだ進化しているのか、極限流……
 タクマの現役復帰もあながち世迷い事とも思えんよ」

「取ったと思ったんだがな。あんたもしつこい。やっぱり疾風脚は見切られてるようだ」

「ハハハ、私が極限流を忘れているとでも思ったか?」

「だな。なら、今度はこういうのはどうだ!」

リョウが地を蹴り、再び飛び上がった。
空手家の跳び蹴りだが、隙だらけだ。当て身投げで捕れる。
だが、リョウは空中からでも虎煌拳を撃つことが出来る。
当て身投げに集中することが出来ない。

――どっちだ!

ギースの眼が真剣になった。
蹴りならば捕る。虎煌拳ならば粉砕し、そのまま突きを入れる。
ギースには瞬間の判断でその両方を行うことが出来る。
だが、空中でリョウが取った構えは両腕を交差させての気の超圧縮――

「覇王……」

「何だと……!?」

「――翔吼拳ー!!」

ギースは三つ目の選択肢、完全に受けに回る道を強制的に選ばされた。
その技を瞬時に砕くなど出来ようはずもない。
それは兵器。人の身体から発せられる最大の武力。
リョウは、空中から覇王翔吼拳を撃って来た。

防御の姿勢のままギースが吹き飛ぶ。
今度は足を踏み縛って耐えるなどその勢いが許さない。
濛々と煙を上げながらギースは木の柱へと背中を打ちつけ、そして前に手を突いていた。
膝を突いたままリョウを睨み付ける。

「少々威力は落ちるがな。あんたをビックリさせるには充分だろ」

「全く、信じられんことをする……
 前言撤回だ、お前はすでにタクマを超えているよ。Mr.KARATEと呼ばれるわけだ」

ギースが立ち上がり、目の前で腕を組んで立つをリョウへ苦々しく言った。

「やめてくれよ、勝手に呼ばれて迷惑してんだ」

「だが、そんな曲芸で私を倒せるとは思っていまい?」

「ん? 正直言うと思ってたんだがな、あんたの気功の受けは異常だぜ。
 たいして効いちゃいねぇと来てる」

「お前と同様、年季が入っているのでね」

ギースが再び構えを取る。
同時にリョウが拳を打ち込んだ。だがギースの左腕に絡め取られ、威力を殺される。
生まれた隙には右の直突きが飛んで来ていた。
重さはないが鋭い。軽くよろめいたところには烈風拳が飛び掛かっている。
今度は掻き消す間はない。

「アァーハッ!!」

179cmあるリョウの頭上から踵落としのような回し蹴りが振って来た。
それを防御したリョウの膝が落ちる。
不安定なバランスで続けてのギースの打ち上げ掌底を躱すことは出来なかった。
顎に喰らい、呻き声と共に身体が伸びる。
次の裏拳を腹に浴びたリョウはついに完全にダウンしていた。

「どうしたリョウ、立て。まだお前には奥義があるだろう」

仰向けにのびた身体が小刻みに揺れる。
それは笑いだった。髭に染み込んだ血のりを絞りながらリョウは笑って立ち上がった。

「龍虎乱舞を御所望か…… 変わらないな、ギース」

「意識を保てるようになったとか言っていたな、やってみせろ」

顎で不敵に指図する。

「当て身投げは喰わねぇぜ。もう解ってるだろ? 俺はいつでも覇王翔吼拳を撃てる」

「だから何だと言うのだ。乱舞を破るなど私がその気になれば容易いのだよ」

「デッドリーレイブで迎え撃つ気か? あれはやめとけ。
 龍虎乱舞は無我の中で自然に沸き立って来る命の力を感じ、
 そのままに敵を討つ言わば自然な技だが、
 あんたのデッドリーレイブは無理に力を引き出す不自然な技だ。
 同じようでまるで違う。身体にかかる負担はまさしく命を削っているに等しい」

その言葉にギースは表情を緩めて、まるで闘いの場に相応しくない笑みを浮かべた。

「あれだけひた隠しにして来た奥義の秘密を、よくもまぁベラベラと喋る」

「はは、そういやそうだな。
 弟子を鍛えてるとな、あんたが真面目に極限流を習っていたら一体どんな化物に育ったか、
 なんてふと考えるときがあるのさ」

「――その言葉は、あの日に聞きたかったな」

あの日――宝石のようだった気の力に憧れ、極限流の道場へ走った少年の日。
その笑みは一瞬、憂いを帯び、寂しそうに輝いた。
だがすぐに引き締まる。

「さぁ来い! リョウ!」

ギースが構え直す。
だが、リョウは両腕を広げ、首を斜めに構えて息を吐いた。

「いや、もう終わりだな。ここまでだ」

「何だと?」

「これ以上やると本気を出しちまう」

「今までは本気ではなかったとでも言うのか?」

「よく言うぜ、あんたもだろうに」

「フンッ」

ギースも構えを解き、腕を組んて笑う。

「ここであんたを倒しちまったら狼さんに恨まれるんでな。
 俺はここらで退散と行くよ」

「有り得んな。だが良いウォーミングアップにはなった」

リョウが、親友へ向けるような微笑みを浮かべた。
そして背を向け、開いた手を上げる。

「じゃあな、もう会うことはないだろう」

「ああ」

別れの言葉を笑みのまま受けたギースもまた、
リョウと同じ顔をしていたのかも知れない。

「リョウ……」

呼び止める気はない。
それは呟きのように、続く言葉は風に掻き消された。

それは別れの言葉だったのか、あるいは感謝の言葉だったのか――

ただ、リョウ・サカザキの耳にだけはまるで届いていたかのように、
彼は一瞬立ち止まり、そして階下への階段へ消えていった。

冷たい風が温まった肌に心地良い。
ギースは木のバルコニーに立ち、夜のサウスタウンを恋人のように眺める。

静かなサウスタウンが、今日は燃え盛っているように見える。
押し寄せる闇を焼き尽くそうと、夜の帳から漏れる炎が天へ足掻いている。
それは、幼き日に彼が吠え続けた、天上への怒りの叫びのように。

ギースタワーという、バベルの塔の頂きに立っても尚、百万の民を跪かせても尚、
空の上には天があり、その上には神と呼ばれる者が存在していると人間達は信じている。
彼らは不届きの人間を帝王と認めず、悪とし、怒りの雷鳴を轟かせる。

外はいつの間にか雨になっていた。涙を、怒りが飲み込んで行く。
いつでも来い。狼は逃げはせぬ。隠れもせぬ。恐れも、崇拝もせぬ。
ただ不敵な笑みを浮かべたまま、天を睨み続けるのみ。

あの、少年の日からずっと――


彼の、見開いた眼下に、テリー・ボガードが立っていた。


「来たぜ、ギース! 俺がぶっ倒してやるぜっ!!」




「ギース……」

「待っていたぞ」

あの、最初にギース・ハワードと闘った舞台と同じ場所。
様変わりしているがこの独特の空気はあの時のままだ。
だが、耐えられる。今の自分はあの時とは違う。
空気に呑まれ、自分を見失ったりはしない。

ふと、見渡す。地面や柱に激しい亀裂が走っていた。
それもつい先刻と思われる物。闘いの、それも激闘と呼んで良い物だ。
ギースが作ったのか、あるいは――

「――崇秀が、来たのか?」

「ああ、来たよ。丁重にお引き取り願ったがね。
 今頃タンの所ですやすや夢でも見ているのではないか?
 いや、夢から覚めていると言うべきかな」

「へぇ、子供には優しいんだな、あんたは」

「何を戯けたことを…… 私ではないよ」

その言葉を聞き流し、テリーが拳を叩き合わせて綺麗な音を風に響かせた。

「なら、後は闘うだけだな。あんたも充分に温まってるようだ」

「貴様もな。別れの挨拶は済んだのか?」

「そいつは必要ねぇ。必要ねぇが、機会を与えてくれたことは感謝するぜ」

テリーがゆっくりと、念入りにグローブを締める。
血が通う。握り締めた拳からはいつものように力が沸き立って来る。

「そんなに大事にしなくても、すぐに本人に会わせてやるさ」

「関係ねぇ」

邪悪に口元を歪めて言うギースに、テリーは拳を見たまま短く答えた。
そしてギースの眼を睨み付け、決意のこもった声で宣言する。

「これは俺とあんたの闘いだ。他の誰にも入り込む余地はねぇ」

「ほぅ、父親を殺された恨みを忘れたと言うのか?」

「忘れちゃいねぇさ…… 忘れられるわけがねぇ……
 父さんの仇を討つことにも変わりはねぇ。だが、始まっちまえばもうそこまでだ」

次の言葉を期待するようにギースの薄笑みが消える。

「俺はあんたが怖かったよ…… この一年間、夢でうなされ続けた……
 何度もこの場所へ来ようとして、結局、今の今まで足が動かなかった。
 あんたに勝つ方法ばかりを考えて、出ねぇ答えに苛立ってた。
 でもそれももう終わりだ! 俺は気づいたぜ…… 関係ねぇ、何も関係ねぇんだ……」

俯いて震える。同時に闘志も奮い立って行く。

「ギース・ハワードと向き合ったが最後、
 相手を倒すことだけを考え、余計な感情は入れない!
 それが飢えた狼の、餓狼の闘い方だ!!」

「フフフフフ…… ハハハハハハハ!!」

ギースが笑う。テリーは拳を胸に掲げて力強く構えた。

「貴様に不覚を取り、地獄の底を這いずって行き着いた場所が、
 まさか貴様と同じになろうとはな! カモーン、テリィィ!!」

「ギィィィスゥゥ!!」

ギースが道着の上を投げ捨てる。それは風に乗って夜のサウスタウンへ消えて行った。
地を抉る踏み込みを伴ってテリーは全力で駆け出した。
フェイントはかけない。思い切り拳を打ち込む。

冷静に判断して、自分がギースよりも確実に優れていると言える部分は少ない。
経験、技、そして気功。むしろ劣っている部分ばかりがテリーの脳裏に浮かぶ。

だが、ただ一つだけ、たった一つギースを圧倒出来ると確信するテリーの武器があった。
それは、ラッシュ力。ワンチャンスで一気に押し込む、テリーのラッシュスタミナだった。

拳を振るう。蹴りを打ち込む。
それを空気を裂く速度で何発繰り出しても、テリーの息は切れない。
受けの拳のギースに絶対的に不足し、テリーだけが持っている武器。
若さに任せたテリーの猛ラッシュがギースをすでに窮地に追い詰めていた。

だが、受けのギースに手数で押すのは綱渡りだ。
ひとたび読まれれば一撃必倒の当て身投げを受ける。
それを警戒して技を出せなかったのが一年前のテリーの敗因だった。
どちらに転んでも勝機は薄い。
だが、今、打ち込むテリーの拳には何の迷いもなかった。

秦崇雷、全ての答えは一年前のこの少年が持っていた。
常軌を逸したスピードでの踏み込み、そして拳打。
それを何度も繰り出されながらもギースは当て身投げで捕らえることが出来なかった。
当て身投げも万能ではない。極限の見切りと集中力が要求される。
ギースの見切りの限界を超えれば、当て身投げで捕られることはない。

「ウァアアアアゥ!!」

テリーが吠えた。
嵐のように唸りを上げるバーンナックルがギースの肉体を吹き飛ばす。
ギースは地面で跳ね、煙を巻き上げながら地を引き摺られる。
テリーは今、殴りつけた拳を顔の前で握ったまま、静かに息を吐いた。

目線を戻した先ではギースがもう起き上がろうとしていた。
口の端から真紅の血を零しながら、それでも不敵な笑みは崩さない。

「強くなったな、テリー」

――テリー・ボガード、か。確かにあいつにゃ勝てそうもないな。

リョウ・サカザキが言った言葉が思い出される。
今思えば、あながち軽口とも聞こえない。ギースの笑みはますます深まった。

「アンディには家族が居る…… これから舞と幸せな家庭を築くだろう……」

見上げるテリーの表情は帽子の鍔で見えない。

「キムにも家族が居る…… ジョーはムエタイチャンプだ……
 ビリーにも妹と、この街での生活がある……
 ――俺だけが何もねぇ…… 俺だけがただケンカしか出来ねぇ大馬鹿野郎だ……
 家族との生活も…… ましてやあんたみてぇに組織を取り仕切ることなんて出来やしねぇ……
 俺には何も残せない…… 俺にはこの拳しかねぇ! なら……!」

起き上がった、無表情のギースと正面から視線がぶつかる。

「伝説を創ってやる! 拳の、餓狼の伝説をな!!」

「テリー・ボガード……」

ギースがテリーを斜めに見て笑う。
いつもの、口の端を吊り上げた笑みとは違う、穏やかな微笑み。

「強い男はただそれだけで伝説だよ……!」

そして、心底嬉しそうに笑って地を駆けた。

それは永遠に変わらない、永久不変の真理。
戦いの時代であろうと、平和な時代であろうと、それは変わらない。
あるいは戦場で、あるいは煌びやかなリングの上で、
薄汚い路地裏で、男達は本能のままに闘い続ける。

この世の誰もが愚者と笑ったとしても、闘いに生きる狼達は笑わない。
笑う権利など無い。いや、心から笑える人間など居はしない。
人は強者を蔑み、恐れ、そして憧れる。自らも強くなりたいと、狼の道へ踏み込む。
その連鎖が歴史を形作り、同じだけの哀しみを生む。
この闘いも数限りないそれの一つに過ぎないのかも知れない。

だが、今この瞬間の二人の強者、二匹の餓狼の輝きは永遠に、
伝説として受け継がれるべき尊い物だ。

それを証明する拳がギースに打ち付けられる。
同時に、ギースも拳を返す。舞う血飛沫ですら宝石のようにキラキラと輝いた。
それは狼達の、神聖な儀式。誰も踏み込めはしない、二匹の餓狼の世界。

二匹は血に飢えていたのではない。
血に飢えた獣に成り済まし、ただ、悲しいまでに、愛に飢えていた。
悲しみの渦巻く、この街で――

ギースの左右の突きの連打がテリーを打った。
そこからの回し蹴りを受けてテリーの足が崩れる。
だが、追撃に来るギースを下から蹴り上げた。今度はギースが崩れる。

仕切り直し。いや、すぐにテリーが踏み込んで左からのワンツーを打った。
それがギースの左腕で止まる。テリーに打ち込まれたのは鋭い直突き。
揺らいだテリーは烈風拳の餌食となっていた。そこにさらに掌底が浴びせられる。
だがテリーも蹴りを返す。闘いは一進一退となっていた。

しかし、闘いが長引けば手数を出すテリーのキレも鈍る。
流れも読まれる。テリーが当て身投げの餌食になったのはその直後だった。

「がふぁ!」

完全に、美しいまでの勢いで入った当て身投げ。
必殺のバーンナックルだったが故に、その反動も大きかった。
それでも、起き上がる。しっとりと血を浴びたテリーもまた美しくあった。

「やはり立つか、テリー・ボガード」

「俺達はずっとこの時を待ってたんだ……
 そう簡単に倒れちゃあんたにも失礼ってもんだろ……」

「フンッ、そうだな」

テリーが縺れる足で拳を打ち込んで来る。
だがその鋭さは寸分も衰えていない。いや、さらに増している感さえあった。
それをギースが打ち付けるように乱暴に払う。繰り出した裏拳は再びテリーを床に転がした。

「タンと話す機会があってな」

「――タン先生がどうした……」

テリーがゆらりと、不確かな足取りでしかし、確実に起き上がる。

「タンが言うには、ジェフは格闘家の模範になるべき男だったそうだ」

肩で息をする。ギースはこちらを見て薄笑みを浮かべていた。

「私は門下で最も凄まじい気を放った男だと、
 チン・シンザンは本物の天才だったと言っていたな。
 テリー、貴様のことは何と言っていたと思う?」

「解るぜ。門下で最もハンサムな男、だろ?」

「残念だが外れだ。タンの眼もそこまで節穴ではないよ。
 むしろ逆に感心したくらいだ」

この男はまだ軽口を叩ける。
それを憎らしく思うと同時にギースは心底、愉快だった。
意地悪く引き伸ばした答えを言うその顔は楽しそうにさえ見えた。

いや、実際、彼は楽しんでいたのだろう。
テリーを殺そうと思えばいくらでも暗殺出来る力がギースにはある。
だがそれを彼はとうとう最後まで行わなかった。
それは若き日と同じ、真に欲しい物は必ず自分の手で、力で手に入れるという信念であり、
そして、このテリー・ボガードという狼への敬意だった。

「――潜在能力の最も高い男だそうだ。その通りだよ。
 貴様は追い詰められれば追い詰められるほど強くなる。
 その不可思議な現象の答えがそれだ。負けぬという意地が力を引き出すのだろう。
 まるで手負いの獅子のようだな。クラウザーが倒せぬわけだ」

テリーの拳を打ち払った腕は信じ難いほどに痺れていた。

「ズァ!」

気と共に気合の掛け声を発する。
構え直した腕が強引に感覚を引き戻されて行く。

「ならば、貴様の意地が力に届く前にその命を断つしかあるまい」

「やってみな……」

もう一度グローブを締め直す。
笑い合う二人。だが、ギースの眼にこれまでにない気が入るとテリーの笑みは掻き消えた。

「会者定離と言う。さらばだ、テリー」

見たことがある。これは、あの時の――

「ぜぇうえあああああああああああぁ――――ッ!!」

ギースが吠えた。気が、いや命が爆ぜる。
秦崇雷を文字通り血祭りに上げたときの、あの爆発。
見開かれたテリーの目の前に強烈な暴風と共にギースの姿がある。
短距離だが、秦崇雷よりも速い。
闘気の風に打たれたテリーの防御は呆気ないほどに崩れた。

そのままの体当たりで大きく揺らぐ、顔面に掌底が入ったのはそれとほぼ同時だった。
さらに逆の腕で掌が振り上げられる。速い。
後ろに倒れそうになりながらもテリーが反撃を振るおうとする。
だが、踏み込もうとした足を下段蹴りが打った。すぐに回し蹴りが肩口を打つ。
恐ろしく速いにも関わらず、ギースは怖いほど冷静だった。

それを感じたテリーが完全に防御に回った。
だが受け切れない。再び打ち上げられた天を衝く掌底は速いだけではない、
トラックと衝突したような強烈な衝撃があった。
再び足元を打たれる。前につんのめったテリーはもう打たれるがままに、
左からの直突きの二連撃を浴びて崩れていた。ギースの両掌には凄まじい闘気が収束している。
意識の飛び掛っているテリーにさえその光は宝石のように眩しかった。

「――デッドリーレェイブ!!」

ギースタワーが軋む。
その閃光と咆哮はテリー・ボガードの身体を濛々と包む煙の中に葬った。
だが、ギースもまた膝から崩れ落ちた。
限界まで全力で駆けた時以上の疲労と、肉体の悲鳴が聞こえる。
指一本動かすだけで全身に亀裂が走った。

何度も血反吐を吐き、この場所へ立っている。
全身の傷から流した血の量はどんな男よりも多い。
だが、今吐き出した過去に見ない血の量に、ギースをして自嘲の笑みが浮かんだ。

そして、顔を上げる。
煙の中でゆらゆらと揺れているシルエットは、確かに両の足で立っている、男の姿。

――そうか……

信じ難い物を見ている。それは間違いない。
だが、ギースの笑みは崩れなかった。心から愉快だと思う。
傲慢な神からの最高のプレゼントが、テリー・ボガードという名の、気高き餓狼だった。

ギースもゆっくりと立ち上がり、そして口の端を吊り上げて笑う。

「ジェフよりも、クラウザーよりも、恐るべきは貴様だったな」

「最期だ、ギース…… 最後に一つだけ聞かせてくれ……」

「何だ?」

「父さんは…… ジェフ・ボガードは強かったか……?」

「――ああ…… 強かったさ」

「ありがとう……」

ギースが、テリーが、無防備に間合いを詰める。
互いに今にも崩れ落ちそうな足取り。
だがどんなに強く風が吹き抜けても二人は決して倒れない。

拳を伸ばせば触れ合う間合いで、二匹の餓狼が吠えた。


「パワァァ――!」「レイィジィング――!」



世界が白くなった。静かな、無音が広がって行く。
何もない世界。
右肩の焼印のような傷だけが、生々しい赤を伴って色を主張していた。

――何だ、お前か。そんなに息子が可愛いのか?



音が荒れ狂い、気の柱が吹き上がる。
それに呑み込まれたギースはまるで無防備だった。
牙を剥くテリーの眼にはそれさえ視界に映っていない。
大地を打ち抜く二発目の拳が再び吹き荒れる間欠泉を生み出した。

そして、もう一度――
無心で打ち込んだ拳は大地を伝い、三本目の柱となってギースの身体を宙に舞わせた。
そして、飛んで行く。その男を縛っていた重力から解放するように、無残に宙を滑った。

だが、その浮遊感が心地良くもある。

敗北か。考えない結末ではなかった。
クラウザーに言わせれば物語が終わったということなのだろう。
求めた物は、全て手に入れた。渇いた溝には、今は静かな水が流れている。

そして最期に、最高の男と巡り合えた――

野望はもう終わっていた。
彼の呪いはもう、解けていた――


かつて眼下にあった街とこの塔を繋ぐ柵を打ち崩して行く。
いつかと同じ感覚。今度は安らかに、瞼を閉じることが出来る。


「ギィィスゥゥ―――ッ!!」


声が、聞こえた。現実に引き戻す、無粋で、悲痛な声。
浮遊感はそこで終わった。腕を掴まれている。誰が?一人しかいない。
睨み上げた男の顔は彼の父と同じ表情をしていた。なんとも憎々しい、哀しい顔。

ギースは彼に別れの言葉をかけてやった。

腕を振り払い、会心の、邪悪な笑みで――


「Good-bye」




落ちて行く――

すでにそこは現世ではないのか、時間はゆっくりと進んでいるように見えた。
宿敵は腕を伸ばしたまま情けない顔をしている。良い気味だ。笑みはますます深まる。

夜のサウスタウン。雨はいつの間にか止み、美しい漆黒が無限に広がっていた。
いや最初から雨など降っていなかったのかも知れない。

彼の愛した街。身を囲むビルの群れが雄々しく輝いている。
淀んだ空気に混ざる冷たい風に、何よりもこの街を感じることが出来た。
この街が運んでくれる。それは至福の瞬間。
最期の瞬間まで、片時も手放したくはない。

だが、目は見開いたままだと言うのに、それを邪魔する赤い瞳が現れる。


――まだ死にたくはないだろう……?

――不死身の完全体を授けてやる……


それはいつかと同じように、赤い瞳で、亡者のような低い声――


また貴様か…… 失せろ。


――何故、死を選ぶ? 誰よりも力と生を渇望していたのは貴様だろう……

――あの男を屠れる力を授けてやる……


前にも言ったはずだ。貴様の力などは借りん。


――それほど死にたいか…… 儂は貴様を過大評価していたらしい。


貴様のように亡霊になってまで生きようとは思わんな。
無様で、醜いだけだ。


――ならばそのまま死ぬが良い。
――すでに予備は胎動している。今の儂は何も貴様である必要はない。


フンッ、貴様に言われるまでもない。
だが、そうそう上手くは行かんだろうよ。


――どうかな。儂の影響を恐れて息子を離したのだろうが無駄なことだ。


どちらが愚者かはすぐに解るさ。


――餓鬼の頃から目をかけてやった恩を何も感じてはおらぬらしいな。
――言わば儂は貴様の父も同然だと言うに。


私が最初に誰を殺さんとしていたか忘れたのか?


――そうだったな……
――ギース、何故儂が貴様より強かったクラウザーではなく、貴様を選んだか解るか?


…………


――儂は貴様のあの呪いを宿した禍々しい瞳に、何者にも屈せぬ強き魂に惹かれたのだ。
――我が子孫共よりも、ジェフ・ボガードよりも、テリー・ボガードよりも、
――クラウザーよりも、貴様にだ。
――それでもまだ死を選ぶと言うか?


私が何者にも屈せぬと知っているのだろう?


――愚か者が……
――さらばだ、ギース。貴様は強かった。
――地獄の果てで常世の王にでもなるが良い。


気配が消える――


すまんな、ロック……
お前は私ではなく、お前が選んだ男の背を追って成長すれば良い……
その男が必ず、お前を導いてくれる……

その男のように、強く、気高い、餓狼になれ……!



再び静かに――


――もう、終わったのだな、兄上……


今度は貴様か、クラウザー……

だが、今はお前の言葉が解るよ。お前がどれだけ安らかだったのかが解る……
同じ男の手にかかったのも何かの縁だろうな。
フハハ、私達の父はよほど舞台の演出が得意と見える。


ただ哀しい声だけが、最期の彼を見ていた――


お前も居るのだろう?出て来いよ、ジェフ。


やっとお出ましか……
お前の傷が邪魔をした手前、合わせる顔が無かったのかな?
安心しろ、恨んではおらんよ。私達に結末は問題では無かった。
お前になら解るだろう?


――ギース……


フ…… 地獄では…… お前には会えそうもないな。

何故そんな哀しい顔をしている?
笑えよ、ジェフ。私は笑っているぞ。

この街で眠れるのなら、それ以上に望む物はない。


――良い人生だった。



【39】

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