――ロック……


暖かな光と、懐かしい声。


――ロック……


一番聞きたくて、忘れられなくて、忘れるのが怖くて……


「ロック……」


少年の歩みを止めていた、誰よりもやさしい声。


――母さん……?


尚、白んだままの世界の焦点が、ぼんやりと女の姿を浮かばせて行く。
頬に触れる白い手の感触は幻ではない。

「母さん、なの?」

心配そうな表情を浮かべる美しい女のシルエットはまだ輪郭を持ってはいなかったが、
少年がこの人を忘れるはずも、間違うはずもなかった。

「そんな…… なんで……? こんなところにいたんだ…… 母さん……」

無条件の安息はやがて疑問をさえ忘れさせた。
全身の力が抜ける。無防備に体重を預けても良い存在。
視界は再び暖かな歪みに満たされていった。

「ロック…… ごめんなさい…… あなたを、一人にして……」

「母さん……!」

触れられた頬に手を重ねる。確かに存在した感触。
なのに、それは次第に薄れて行き、ロックの視界からも消えようとしていた。

「ごめんなさい……」

必死に手を伸ばす。

「待って! 行かないで、母さん!」

伸ばした手さえ幻影を掴むことはなく、母の姿は薄もやの中へ消えた。
白い世界に黒点が刻まれる。
ポツポツと、世界を不快に溶かして行く黒はやがて煙を上げ、老人の姿を形作った。
濛々と、溶岩のように煮え滾る冷たい霧。
この男を、ロック・ハワードは知っている。

「女々しく、脆弱な、唾棄すべき魂……」

「てめぇ……」

男と解る顔以外は漆黒の靄に包まれたまま、男の声は低く、腹の底を振動させる。

「か細き性情は凡愚でさえなく、深い憎しみも、激しい怒りも持てず、
 もはや儂の器に相応しきはその血筋のみ……」

これが秘伝書の創造主、秦王龍であると、ロック・ハワードにははっきりと解る。

「にも関わらず……」

やがて呪いめいた低い声は激しく、ロックの全身を内側から叩き付けた。

「儂へ肉を明け渡さぬその頑強さは何故か!
 答えぃ! ロック・ハワード!」

声と共に黒い波がロックへ吹き荒ぶ。
それは彼も知る“気”の奔流だった。両腕でガードするが足は地を引き摺る。
見渡せば世界はただドクドクと黒を打ち付けて来るだけになっていた。

「……聞くのはこっちだぜ、亡霊野郎! 母さんをどこへやった!」

「――ここへ及んで尚まだ乳を欲するとは見下げ果てても飽き足らぬ小僧よ!
 もはや握るは愚か喰らう価値さえないうぬの魂……
 ならば、余すことなく怒りと共に、火にくべてくれようぞ!」

言葉の通り、黒い炎が周囲を包む。
毒々しい怨気を轟々と上げ、狭まった世界は何者も侵略し得ないコロシアムに思えた。

「オオオオリァァァ!!」

それ以上の怒声を伴い、先に打ち込んだのはロックだった。
渾身の左ストレート。だがそれは何の感触もなく、冷気だけを打ち抜いた。
直後、人の声なのか、怨念の摩擦なのか、肌を裂く音と共にロックは弾かれていた。
黒い霧は人に似た腕の形を作り上げ、上段から振り下ろす。
それがカイザーウェイブであることを、他ならぬ秦王龍に植え付けられて来た記憶が知っている。

これを浴びては一溜まりもない。
転がるようにして躱したロックには秦王龍が何者なのか、すでに理解の内にあった。
秦王龍は“気”そのものなのだ。
“気”に記憶を移し、すでにオリジナルか、コピーに過ぎないのかも付かぬ存在のまま、
秘伝書の中で永らえ続けた。
導かれる魂を喰らい、餌に、二千年もの間、記憶を繋ぎ続けて来た。
ただひたすら、最強の肉体に受肉し、不死身の完全体を成す為だけに、悲劇を繋ぎ続けて来た。

ロックが高速で、交互に腕を振り上げる。
その一振りごとに、至近距離から気の烈風が王龍を打った。
“気”を御し得るのは“気”しかない。揺らぐ王龍の姿には翳りがあった。

「てめぇが俺に教えた技だ…… せいぜい後悔してから消えやがれ!」

交差させた両掌から蒼い嵐が吹き上がる。全力の、レイジングストーム。
王龍から立ち昇る黒い靄をさえ騒ぎ立て、その壮絶さを演出しているかのような激しさ。
それを振り下ろそうとした瞬間、しかし、底冷えのする黒い霧が再び世界を覆った。

「!?」

その猛々しさはすでに霧とは呼べない。それは“気”の津波だった。
全てが“気”で形作られる王龍の存在は覆い被さるだけでロックの呼吸を失わせる。
ロックの両腕に伝った気はいとも容易く拡散して消えた。

「何が儂の教えた技か…… 未熟極まりない。受ける価値も有りはせぬ」

「あ、……カハァ!」

溶けたアスファルトを思わせるドロドロとした“気”が全身に張り付いてロックを死へ追いやる。
呼吸を求め、溺没者のようにもがくが解放されることはない。
波はそれぞれが意思を持ち、亡者の手のように獲物を縛る。
それを斬り捨て、無様に顔を浮かばせると直後、黒い球体が弾けて額を割った。
帝王天眼拳。次々と、弾幕のように降り注ぐ。
再び沈み行く肉体。
だが、薄くなる意識を叱咤し、ロックは左腕を伸ばして空を掴んだ。
何もない空間。無意識に求めた助けは誰への叫びだったか。

その男がロックの腕を掴み上げると、波はみるみる消えていった。
それは、秦王龍の動揺。この男をして後退させる存在が、今、この世界に浮かんでいる。

「あ、悪夢、か……?」

呆然と呟く王龍の顔が、情けないほど醜悪に歪んだ。

「脅えるか、王龍? 確かに、貴様にとっては悪夢だろうな」

斜めに構え、口の端を吊り上げて笑う袴姿の男。
決して2mを超えるような巨躯というわけではないが、
その男の顔を見るには遥か天を見上げねばならぬ気がした。

「ギース……?」

ロックの呟きを耳に入れたのか否か、男は目も向けず、掴んだ腕を無造作に離した。
崩れ落ちるロックの見上げた、男の生々しい古傷の刻まれた背は雄大で、
あれだけ黒く染み渡った世界でさえ侵食に及ばない、絶対的な力強さを感じた。

「何故、貴様がこの場所に在る!?」

「そうそう上手くは行かんと忠告しておいただろう。
 おっと、貴様流に言えばこれも“予言”になるのかな? ハッハッハッ」

「ギース・ハワード……!」

はっきりと、秦王龍がその男の名を口にした。
今、この世界に君臨しているのは間違いなく父、ギース・ハワードであるとロックは知る。
全身の震えは憎しみか、恐怖か、それとも歓喜なのか。
背後からその肩をそっと抱き、感情を包む暖かい感触は母のものだった。

「ずっと、守ってくれていたのよ、私と、あなたを……」


母の声は、ロックの胸を締め上げ、言葉を失わせた。


「答えろ、ギース! 貴様、まさか……!」

「常世の王になれと言ったのは貴様ではなかったか?
 もっとも、貴様に従ったつもりは毛頭ないがな」

「まさか、貴様……!」

「――1864年、一人の日本人が人の世と魂の世を繋ごうと考えた。
 それは失敗し、施された封印は百年の後も開かれることなく、
 人々はその守護さえ忘れ、たゆたった扉はやがて一つの街へ漂着した」

「開いたのか! 地獄門を!!」

あまりにも、あまりにも信じ難い行為を目の当たりにした。

「そう驚くこともあるまい。
 調べた成果をどうしても実践してみたくてね。少々封印に細工をさせて貰っただけだ」

その衝撃を物語る動揺が、王龍に怒りの言葉を叫ばせる。

「何ということを! 何ということをしてくれた、ギース!
 貴様、自分が何をしたのか解っているのか!? 現世を亡者の世界にしたいと言うか!」

王龍の唯一形を持つ顔の血管が浮き上がり、はき切れんばかりに膨れ上がっていた。
その異常な行いのもたらす結果は自身の存在さえも危うくすることを、
彼は二千年以上も前から知っている。

「なに、貴様を連れ戻しに暫し顔を出しただけだ。
 元々、死者は潔くというのが持論なのでね。
 貴様が個体に戻るのを待っていたのだよ……!」

ギースの左腕が死風を振り仰ぐ。
足元から発生した波動は距離を得て膨らみ、標的へ猛然と襲い掛かった。

「ぅおあああぁぁ!!」

周囲を包んだ黒い炎の全てが掻き消え、王龍の半身さえも風の中へ消えた。

「それまでは彼に門の警備を任せようか」

蒼い風の中、立ち昇る黒煙をやれやれといった風情で掻き分けて歩む人影。

「人使いが荒いのは変わらんな、ギース」

ブラウンの髭を無造作にたくわえた体格の良いこの男を、ロック・ハワードは知っている。

「貴方の、持ち前の正義感とやらに期待しただけだ」

ジェフ・ボガードと、ギースは男の名を呼んだ。
ジェフはギースと顔を合わせ、軽く笑うと、ロックの前へ歩み出た。
座り込んだまま脱力するロックへと腰を屈め、また大らかに笑う。

「テリーが世話になっているようだね。
 どうだ? あの腕白坊主は少しは落ち着いたかね?」

その笑みはテリーと同じ、安らぎを与えてくれるものだった。

「あ、うん……」

あどけない返事を聞き、ジェフは笑みを一層深めた。
満足そうに、そうか、と言いながら撫でられた頭の感触もやはり、テリーと同じものだった。

「早くしてはくれんかね? このままでは大変なことになってしまうらしいぞ」

それをギースがやや苛立たし気に急かす。

「何も照れることはないだろう。相変わらず不器用な男だ」

「何を下らんことを……」

「それに、一人だけでは骨が折れるというものだ」

ジェフが背向けに見上げる上空には黒い霧が集まっていた。
濃霧となったそれは再び秦王龍の威容を浮かべる。
今一度、強者の魂を喰らい、自らの糧に。
王龍は怨念めいた叫びを上げ、ジェフへと向かって襲い来た。
だが、ジェフの腕にはすでに“気”が伝っている。
振り向き様に振り抜いた拳は彼が最も得意とし、また息子も同じとする熱した拳――

「バーンナックル!」

「おおおぅああああァァァ!」

再び身を削られた王龍が苦しみの声を上げる。
浮かび行く黒煙―― 彼に喰われた魂達はしかし安らかに、見上げる果ての天へ還って行った。
その中にあって、一際強い力を発する巨大な魂は人の形を持ち、
緩やかにジェフと、そしてギースに目を合わせ薄く笑う。

「まさか貴方と肩を合わせることがあるなんてね、兄上」

ロックはこの男も知っている。
父の義弟であり、かつて地上で最強であった男――

「ジェフめ、余計なことを……」

「そう言うな、彼がついてくれれば百人力というものだ」

ヴォルフガング・クラウザーと、ジェフは彼の名を呼んだ。

「貴様はこの亡霊の力が欲しかったのではないのか?」

腕を組み、挑発的にギースが義弟へ問う。

「酷い兄上だ。貴方はいつも答えの解っていることを聞く」

クラウザーは遠くロックへと顔を向け、笑みを深めて口を開いた。

「彼はいつもあの調子でね。
 睨み合っている内はそこが楽しくもあるのだが、歩み寄ろうと思えばこれほど腹の立つ男もいない。
 お互い苦労するな」

笑う母を背に、ロックは戸惑うしかなかったが、
再びギースと視線を交わして地獄門へと向かうクラウザーの背にもまた、
身の震える雄大さを感じた。

「後は任せたぞ、ギース。俺達は先に向こうで待つことにしよう」

「居心地が良いとは言えんがね。
 貴方ならもっと良い部屋が宛がわれるだろう。
 もっとも、クラウザーはどうだか知らんがな」

「相部屋になったら今度は兄弟仲良くすることだ」

本気か冗談か、そんな言葉を交わした後、ジェフの背もまた霞んで消える。
残されたギースの視線はすでに鋭く、
またしても霧を集め存在を保とうとする秦王龍の姿を射抜いていた。

「おのれ、ギースゥゥ……」

怖気の振るう王龍の低い声。
肩に寄せる母、メアリーの手に軽く力が入った。
それは見守るロックも同様。
ただ、尚も腕を組んだままのギース・ハワードのみが、まるで揺らぐことなく、
秦王龍という怨念さえも呑み込むような存在感を放っていた。

すでに世界に黒点はなく、見知った風景が広がっていた。
誰の記憶なのかも解らない公園。
ここで父に、遊んで貰ったことがあったのだろうか。
王龍と正面から組み合う父の姿は、この世の全て、何よりも強く、頼もしいものに思えた。

だが、王龍もさるもの。
これが全ての闘争の始祖、千騎を屠る本物の帝王拳なのかと、
ついに死力を尽くしたその技の数々は鮮烈と言う他はない。
かつて視たこの世全ての技が、余すことなくここに再現されて行く。
それが、次々と父を刻む。

なのに、ダメージがないわけではあるまいに、父は決して退かない。
その意志が乱れることもない。
それは秦王龍に見せられ続けた夢の中そのままの、
身の痺れるほど強く、気高い、ギース・ハワードの姿だった。
知らず、ロックは拳を握り締めていた。

ロックに見えるのはもはや双方の意地だった。
片や永年求め続けた、彼の存在理由そのものである不死身の完全体への執着。
ならば、いつ膝を突いてもおかしくないほどの衝撃を幾度にも渡り浴びながら、
決して屈せず、尚、立ち向かう父の意地とは何か。
何が彼をそうまでさせるのか、今の理由へ、ロックは手を伸ばす。
その手を包む母のぬくもりがすでに答えであることに気付いたとき、彼はいつ以来か、
ギース・ハワードを父と呼んでいた。

「父さん……!」

その言葉に弾かれるように、凄まじい閃光を伴ってギースが両腕を振り下ろす。
上空より襲い来る王龍にそれは直撃だった。

「――レイジングストーム!」

耳をつんざく異音の後、世界が幾度も輝いた。
王龍から吹き出た風船のような黒い塊が次々と破裂して行く。
その度、黒煙は白く霞み、解放された魂達は安らぎの表情を浮かべて天へ昇って行った。
ついに膝を突いたギースの見上げる先にはもう、黒点さえも残ってはいなかった。

「フンッ」

消えて行く靄を見上げ、ギースは鼻を鳴らして口の端を吊り上げた。
ロックはゆらゆらと、地面もおぼろげに足を進めていた。
身を起こした父の背に、何と声をかけて良いのか解らない。
何か口を開こうとしては言葉を飲み込み、ただ俯いて自分の手を見ることしか出来なかった。

言葉は意外にも、父の方から紡がれた。

「――戻ったらビリーに会ってことを伝えろ。
 門の閉じ方は遺してある。今ならまだ間に合うはずだ」

変わらず、息子の顔さえ見ようとはしない。
遠くを見つめたまま振り返りもせず、父はそんなことを言った。

「そ……」

ロックに再び父への疑念が湧き上がる。
裏切りの落胆は怒り、そしてそれ以上の恐怖でさえあった。

「それだけなのかよ…… 俺に、他に言うことはねぇのかよ、ギース!」

ギース・ハワードは何も言わない。息子の顔を見ようともしない。
ただ、腕を組んだまま表情を見せなかった。

そこへ、粘り気のある雫が落ちた。

「オオオオオオオオオオオ……」

天井のない空からしたたり落ちて来る雫。
それはすでにただの怨念に成り果てたかつて秦王龍だったモノ。
人の形さえ見繕おうとしない闇そのものはもはや意思もなく、ただギースに襲い掛かった。
ギースは構えを取ろうとはしない。
余裕なのかと、彼を知る者は例外なくそう判断するだろう。
だがロックの目に映る父はそうではなかった。すでに父には、構える力さえ――

ロックは一歩、歩み出るとギースを左手で遮り、闇を見据えて言った。

「アンタは下がっててくれ。残りカスくらいは、俺に譲ってくれても良いだろ?」

「ウオオオオオォォンンッッッ!!」

人の耳には聞き取れない音を上げながら形のない闇が迫る。

「リイィィィィ――」

ロックもまた咆哮し、右手を振り仰いだ。
その軌跡に蒼い閃光が走り抜ける。止まらない。
薙ぎ払った左が地を裂いて闇を押し戻した。

「アアアアアアアアァァ―――ッ!」

それでもまだ押し迫ろうとする闇へ、両腕を振り被って飛び込む。
無謀にも思えたその行動はしかし、翼のように舞う眩い気の光に護られ、まるで翳ることはない。
光の中で、赤い瞳が線を引く。
全霊を込めて振り下ろされたレイジングストームが熱風を巻き上げた。

「オオオオオオオォォォォ……」

徐々に遠くなって行く苦しみの闇は、
幾重にも連なった途方もない憎しみをさえ、羽ばたきの中へ掻き消した証。
同時に、遥か遠い運命に苛まれ続けた雛鳥の、巣立ちの瞬間でもあったのか。

「ハァッ…… ハァッ……」

疲労と興奮で荒い呼吸を振り乱す。
今はまだ勝利の充実も何もない。余韻さえも訪れてはいない。
ただ何も考えられないまま息を荒げる背を、大きな影が覆ったのに気付いた。

「奴に礼を言うのは癪だがな。
 私の息子は立派な狼に育った。――満足だ」

ロックの顔も見ず、背から大きな手だけを頭に乗せ、低く通る声で父は言った。
その言葉と同時に、世界が崩れ、感触が薄れ、遠くなって行く。
呆ける間も惜しい。
ロックはクシャクシャに崩れた顔を隠そうともせず、
もう一度父の姿を目に焼き付けようと振り返り、何度も何度も目を拭い、
気の利いた言葉が何も出て来ない自分を呪いながら、もう一度大きく、父の名を叫んだ。

「父さぁぁん!」

一瞬、振り返ったように見えた父の顔は、いつか見逃した、哀しくもやさし気な、
彼の精一杯の微笑みだったろうか。

「――もう、一人でも大丈夫なのね……?」

常に背にあった母の感触が離れて行く。
浮かぶ母を涙で腫れた目のまま見上げ、ロックは決意を込めた。

「……ありがとう、母さん。
 俺、強くなるよ…… きっと、テリーみたいに、あの人みたいに、強く……
 だから、安心して……
 これ以上、迷惑かけちまったら、情けないよな」

止まらない涙をもう拭おうとはせず、父を真似るように笑顔を浮かべた先で、
母もまた透き通るような微笑みを浮かべていた。
母はロックへ微笑みを向けたまま父の背を追い、ゆっくりと、ゆっくりと白く消えて行った。

世界もまた、同じように白んで行く。
もう手を伸ばすことはない。
思い出すことはあるだろうが、今なら思い出を胸の内に、遠く羽ばたいて行けるはずだ。
この気持ちは永遠に、心の中で生き続ける。忘れることはない。
誓いが胸にあるだけで人は強くなれる。それを、父の背に学んだ。
もうこの何もない、ただ白いだけの世界に未練はない。

噛み締めるように目を閉じたロックはもう一度、心からの感謝を捧げ、
消えて行く大地に身を委ねた。


――今までありがとう……


いつか網膜に張り付いて消えなかった光が、緩やかに溶けて行く――



――さようなら、父さん…… 母さん……




【14】

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