「駄目です、半蔵先生」「駄目です」「駄目」「駄目ですね」「駄目でしょう」

五大老は揃って半蔵の、アンディ・ボガードに不知火の全てを――
という提案を却下した。

「お主等の眼は節穴か? どこにあれだけの才を持った男がおる」

半蔵が食い下がる。

「半蔵先生こそお目が遠くなられましたか?
 あの男は不知火の血筋ではない上に、日本人でもないではありませんか」

「そんなことが関係あるか。
 血筋でなくとも、日本人でなくとも、お主等ではアンディには遠く及ばんよ」

「いや、ですが先生。掟という物がですね……」

五大老もアンディの実力は認めている。
自分達より彼が強いことも、高齢という言い訳と共に受け入れている。
だがそれでも、忍の奥義を余所者へ渡すことには抵抗があった。

元来、忍は里を抜ける者、抜け忍を決して許さない一族である。
抜け忍には死を――それがどんな忍の流派でも当然のしきたりだった。
それは、里の情報、技を持って下界に下りた仲間によって、
“忍”という社会が崩壊してしまうが故の厳しい処置である。
戦国の世では、そんな些細な事で一族郎党全てが死に晒されるのが茶飯事だったのだ。

そのしきたりは、当然時代と共に緩和されてはいるが、
まだ老人を中心に根強く残っている。
衰退の一途を辿る不知火流を憂い、
護身術として門戸を開こうという運動をすら握り潰した彼らには、
外の人間を全面的に信頼して奥義を授けるなどおよそ考えられない事だった。

この一年、いつも長老会では、このような押し問答が行われていた。
この場は半蔵が退くことにしたが、決して諦めたわけではない。

「次は舞を連れて来る」

そう捨て台詞を残した半蔵に、五大老は震え上がった。



夕方――

縁側に佇む半蔵の前で、鴉の鳴き声が夕暮れを演出している。
時に眩しくもあるその風景だが、こうして庭を見ながら茶を啜る時間は
半蔵にとってゆとりの時間となっていた。
沈んで行く夕陽と、遠くなって行く鳴き声が、物悲しくもあり、風流でもある。

だが、それとは別の鳴き声が半蔵の聴覚を刺激し、
同時に神経へと、獰猛な危険を報せて来た。

「忍の屋敷に忍び込むとは、あまり利口とは言えんな」

顔は庭へと向かせたまま、半蔵が口を開いた。
うぐいす張りの廊下は実に優秀に侵入者をいぶり出していた。

「これが日本流のトラップというわけですか、ご老人」

不知火半蔵を見下ろす西洋的な風貌の、
ブラウンの髭を紳士然と蓄えた男は30cm以上は彼より背が高い。
その威風堂々とした様子からは
そもそも“忍び込む”といったつもりがなかったように見える。
男の白いスーツを夕陽が照らし、やがて黒で覆った。

「――何者だ?」

半蔵がその只者ではない雰囲気を察し、低く口を開いた。

「私はローレンス・ブラッド。
 クラウザー様の城の者、と言えば解って頂けるかな?」

「――!?」

この日が来る可能性を、考えていないわけではなかった。
だがそれでも、その名を聞くことで不知火半蔵は余裕を奪われ、
反射的に向き直り、青ざめ、凍りついた。

死を貪る、どこまでも獰猛な眼がそこにはあった。
嫌な汗が伝う感覚だけが生々しく生きている。

――ジェフ、ついに悪魔が来おったぞ。



ローレンス・ブラッドを離れの道場へ連れ出し、半蔵は構えていた。
ローレンスは懐から赤いマントを取り出し、後は構えない。

「どうした? 私の命を取りに来たのではないのか?」

「いや、用はアンディ・ボガードの方だったのだがな。
 そんなに殺して欲しいのならこいつも喜ぶ」

不気味な笑みを浮かべ、ローレンスが真紅のマントを靡かせた。

「アンディが? 何故だ!? あの子は関係ない!」

ゆっくりと顎を上げたローレンスの口元が、惨忍に歪む。

「ボガードの名があの方を酔わせるらしい」

ジェフ……!

――ならば、尚更闘わねばならない。

アンディ・ボガードは、必ず守る。
半蔵は動かない右足の点穴を突き、狩人の眼でローレンスを見やった。
その眼光は、全盛期となんら変わりない。
一瞬の生に、全てを賭ける。

――ジェフ、私に力を貸してくれ……!

半蔵は右足で力強く大地を蹴り、駿馬のように駆けた。



名古屋空港で降り、バスからタクシーへと乗り継いで飛騨の里へと走る。
しかしサウスタウンから不知火の里まではどんなに急いでも半日はかかる。
時間はすでに午前1時。時差ボケなどに揺れている間はない。
暗い雨が、流星のように地面を打ちつけている。

舞は車中でずっと膝の上で拳を握り、唇を噛みながら震えていた。

舞の父は至って普通のサラリーマンで、母もまた至って普通の主婦である。
彼らは不知火の名は継いでいても、その忍術は全く継いではいない。
それは彼らがこの辺境の里に席を置きながら
里を下りて一般人と変わらぬ生活をしていることからも解る通り、現実主義者だからだ。

だが、舞は違った。

丁度クラウザーとの闘いを終え、それに満足しながらも疲れ果てていた時に、
半蔵は生まれたばかりの孫娘の笑顔に出会った。
彼は舞を溺愛し、彼女に癒されると共に新たな生き甲斐を得た。
優しい祖父に愛されるのを感じながら育った舞は、
あるいは彼が、両親以上に好きだったかも知れない。

それから二年ほどが経ち、3才になった舞は、
大好きな祖父が何をやっているのかに興味を持った。
それが忍者だと知ると、舞は両親の見守る中、あっさりと「あたしもやるぅ」と答えた。

初めは今だけの、一過性の想いだろうと両親は気にも止めなかった。
なにしろ忍の修行は辛い。
最初は小さな苗木を跳び越えるだけの簡単な修行だ。
だが苗木は舞の成長と共に、一緒に背を高くする。
段々と飛び越す難度は少女の身体のレベルを超えて来るのである。

僅か3才の、それも女の子がそれをやり抜き、実際に忍者になるなど、
現実主義者の両親は全く考えもしなかった。

それが意外にも二年、三年と続いても、
小学校に入れば舞も自然に自分の異常さに気がつくだろう。
そう思い、まだ楽観視していたのだが、小学校を出て、中学生にもなり、
尚も祖父の道場へ通い、幼い日に植えた苗木を飛び越す修行を続ける舞を見ると、
両親ももう彼女の本気を認めていた。

くノ一になりたいのなら頑張りなさい。
でもその代わり、学校はきちんと出ておくのですよ。

舞は頷き、時には泊り込んで大好きな祖父の元で厳しい修行に励んだ。
もっとも、この頃の舞のお目当てはアメリカから骨法の修行の為にやって来た
留学生へと微妙に傾いていたりしたのだが……
やはりまだまだ彼女はお爺ちゃんっ子なのは間違いない。

親だけでなく、祖父も掲げる文武両道のためにも、
高校を出て、無事大学生となった舞は、今はもう完全に半蔵の屋敷に住み着き、
学校に通う傍ら、大好きな忍術と、アンディと、そしてお爺ちゃん、不知火半蔵と共に、
のんびりくノ一修行の生活を行っている。

それが彼女の、確かに一般とは少しズレるのかも知れないが、
ささやかで、確かな幸せだった。

どれが欠けても、それは完全ではない。


アンディは震える舞に、声を掛けられずに居た。

――俺が、巻き込んだ……



夜の山はそれ自体が外敵を阻む罠である。
熟練した登山家でもひとつ間違えばそのまま方向感覚を失い、遭難の危険がある。
実際、この飛騨の山中でも、遭難者は後を絶たないと言って良いのが現状だ。

その深夜の危険な山道を不知火舞とアンディ・ボガードは、
横殴りの雨が降り頻る中、一直線に里へと駆けていた。
舞は道のない場所は木を伝い、違う生き物のように駆ける。
鍛えられた舞の跳躍力、バランス感覚でこの山中を全力で進まれると、
アンディのスピードを以ってしても追いつくことは出来ない。

――大丈夫。お爺ちゃんは大丈夫。

舞はアンディをすら置き去りにして、半蔵の元へと走っていた。

もしビリー・カーンと鉢合わせしたならば、舞も危ないことに変わりはない。
舞が一人で進むことは好ましいことではなかったが、
今の彼女を止めることは例えアンディでも出来ない。
彼女に追いつけない自分の力量を恨み、今はただ全力で走るだけだった。

以前にも、こんなことがあった。
あの時も同じ、嫌な予感だけが身体中を駆け巡る中、
周りの風景など目には入らないはずなのに、全力で駆けるその脇を、
スローモーションで血のレンガが笑った。

――お師匠様、どうかご無事で……!

ざわめく葉音が、何者かの狂った哄笑に聞こえる。

その笑いは、舞の悲鳴と混ざり合い、想いを最悪へと導いた。

――道場!?

「お師匠様!!」

呼吸を妨げる鉛のような足で大地を殴り付け、開け放たれた戸を矢のように駆け抜ける。

入りついた先には、血の池に浮かんだ、

――二人目の父の姿があった。


「おじいちゃん……! 嘘だよね! しっかりしてよ、ねぇ!」

虚ろな目で天井を見上げながら、半蔵は微笑み、舞の黒髪を撫でていた。

「お師匠様……」

遅かった事を悟り、アンディも膝を突いて崩れた。
泣き崩れる舞の声が、取り乱したがる精神を叱咤して、
かろうじてアンディに冷静さを保たせていた。

「奇跡、だな…… ジェフが、私の命を…… 間に合わせて、くれ、た……」

稲妻が光った。
浮かび上がった不知火半蔵の傷は、
棍による物ではないことが、アンディの眼には焼き付くように刻まれた。
何か、素手で肉を抉り取られたような、えげつない傷だった。

舞もそれを見て泣き顔を凍りつかせ、すぐに包帯を持って来ようとする。
だが、半蔵が弱々しく腕を掴み、それを制した。

「ここに、居てくれ…… 舞……」

「お爺ちゃん…… 駄目だよ…… 死んじゃうよ……」

半蔵は再び微笑んで、今度は優しく舞の涙を拭った。

「舞…… 教えたはずだぞ……? 忍の闘いは、いずれか死すまで……
 敗北を背に生きるのは、屈辱を背にしたまま生きて行くということ……
 決して敗れてはならん闘いで敗れた私は――」

「違うよ! お爺ちゃんは足が不自由じゃない! そんなの闘いじゃないよ!」

「舞…… この闘いは私自ら招いたものだ……」

「――お師匠様…… 敵の、敵の名をお教えください」

泣き崩れる舞から、涙を噛み殺すような震える声を絞り出したアンディへ、
半蔵の目だけがゆっくりと動いた。

「ヴォルフガング・クラウザーの手下…… ローレンス・ブラッドという男だ……」

「――ローレンス……」

舞の肩も、その名に反応してビクリと揺れた。

「す、まぬ、アンディよ…… お前を、とんでもないことに、巻き込んでしまった……」

「巻き込んだのは…… 私です、師匠…… わ、私のせいで……」

俯き、唇を噛み締めながらアンディがかぶりを振った。

「違う…… 違うのだ、アンディ……」

微かに首を振り、半蔵は軽く吐血した。
それはもう時間がないことを告げる、天の時計だった。

「アンディ…… 私はかつて、ジェフと共に、クラウザーに挑んだことがあった……
 全ては、そこから始まって、おるのだ…… すまぬ…… 私が……」

謝りながら、空をさまようその手を、アンディと舞が強く握り締める。
その言葉の衝撃など、今のアンディには響かなかった。
ただその手を握り、唇を噛み締めて頭を振った。

「アンディ…… 死ぬな……! 逃げても構わん…… 必ず生き残れ……!
 そして、舞を――」

「お師匠様……」

「舞を――頼む」

苦しげに、しかし無理に微笑みを作りながら、半蔵は言った。
アンディは大きく頷き、舞は再び号泣を道場に響かせ、半蔵に泣きついた。
半蔵は胸に乗る舞の髪を撫でながら、今度はハッキリと、
穏やかな笑みをアンディへと傾けた。

それが、父の最期の笑顔と重なり、アンディは顔を背けて嗚咽した。

――僕は、二度も大切な父を…… 守れなかった……


それを見てもう一度微笑み、半蔵の呼吸は、そのまま止まった。


「お爺ちゃん……? 嘘? 嘘だよね……? お爺ちゃんが死ぬはずないよ……
 だって、私と、アンディと、お爺ちゃんで…… ねぇ、お爺ちゃん……」

いやぁぁああああ!お爺ちゃああぁぁぁ――ん!!


無慈悲に現実を与えられ、天へ向けて恨みの声を上げる舞の横で、
アンディは立ち上がり、背を向けて震えた。
唇から流れ落ちる血と、その味が、再びアンディに苦味を与える。

復讐に生き続けることが己の宿命なら、それを受け入れよう。
人が人を裁く権利などないとするならば、鬼となって罰を与えよう。

無造作に転がる、血のりの付いた招待状を握り締め、
アンディは自らへの決意のように、言葉を紡ぎ出した。

「――償わせてやる…… 必ず償わせてやるぞ……」

道場を出て、無防備に雨に打たれながら、
大地に感情を吐き出すように慟哭を打ち付ける。

雨音と雷鳴に掻き消されたその遠吠えは、地底を深く掘り進め、
拭えない痛みを刻みながら、どこまでも反響した。

雨は何も、洗い流してはくれない。



セントラルシティの北東に、ナショナルパークと呼ばれる自然公園がある。
近年、この自然のイメージを利用し、各国の自然を集めエリアごとに分けるという、
異国体験ゾーンなる手の込んだ農園が出来てはいるが、
やはり一歩奥に踏み込めば大自然そのものの、密林の山中が待ち構えている。

「ここは昔、Mr.KARATEとかいう強ぇおっさんも修行に使ったんだってよ」

ジョーが丸太を抱え、そんなうんちくをテリーに聞かせた。
テリーもまた丸太を運び、ジョーが作っている手作りハウスの手伝いをしている。

「詳しいんだなぁ、ジョー」

「お前が格闘技の世界に疎すぎんの!
 どうだ? テリー。お前もプロになってみねぇか?
 お前なら何やってもチャンプになれると思うんだがな」

「やめとくよ。強制されて闘うのはどうも趣味じゃない。
 俺もケンカ好きには違いないが、お前ほど見境がないわけじゃないんでね」

「言ってくれるぜぇ、もったいねぇ。金があるってのも悪くないと思うんだけどな」

テリーはジョーに連れられ、こんなところへ運び込まれていた。
「山篭りとはまた古風な……」とはテリーの弁だが、
一度燃えてしまったジョーを止めることはいかなテリーでも容易ではなく、
結局KOFへ向けて一緒に修行するハメになっていた。

ほどなくして、家が出来上がる。

「ずいぶん生活力あるんだなぁ、お前」

立派に出来上がったほったて小屋を見て、テリーが心底感心したように言った。

「ヘヘッ、伊達に裸一貫でタイにまで渡ってねぇってこった」

ジョーは鼻を指で擦りながらとても自慢気だ。
笑うテリーだったが、この男の場合、本当に文字通りの裸一貫の可能性があるため、
笑顔も微妙に引きつる。

「さぁ〜て、と! 一息ついたら、やろうかい」

拳を握って構えるジョー。

「お前、本当にケンカ好きだねぇ」

テリーも打たれた肩をグリグリと回し、具合を確かめるとJOEハウスへと入っていった。



「しっかしビリーの奴もとんだコウモリ野郎だよな。
 ギースの次はクラウザーだってよ」

壁にもたれ掛かって座っているジョーが
ビニール袋から取り出したスポーツドリンクを飲みながら言った。
テリーもまた、角を挟んだ隣りの壁に背を押し付け、水を飲んでいる。

「どうかな…… あいつはまだギース“様”って言ってた」

ジョーが重力に引かれるように、ペットボトルを握った腕を地に落とした。

「オイオイ! ギースが生きてるって言うのかよ!?」

半ば身を乗り出す。
テリーは静かだった。

「さぁな…… ただ、あいつはよっぽどギースに心酔してたと見える。
 俺はギースのことは親の仇ってことくらいしか知らねぇしな」

そう言って、ただの水で酔ってしまったかのように、テリーは虚ろに天を見上げた。

――テメェがジェフ・ボガードの復讐でギース様を殺して良いんならよ。
――俺もテメェを殺して良いってことだよな、テリー?

あいつにとってのギースは、俺にとってのギースとは違うんだよな。

ビリーの言葉を思い出しながら、そんな当たり前のことを、
初めて気付いたようにテリーは呆然と思った。

途端、今度はわざとらしい大きな音が、床とペットボトルの間で鳴った。

「テリー、休憩は終わりだ。表ぇ出な」

親指で、首を刈るように外を指し、ジョーが立ち上がった。
その眼は太陽の影を浴びて、重い迫力があった。



ジョーの鋭い蹴りを、パオパオカフェと同じように受けていた。
踏み込めず、離れることも出来ない。
三度目の闘いで、独特のサウスポースタイルにはとうに慣れたはずが、
天才の勘でガードの空きを狙って来るその蹴りを、テリーは止めることが出来なかった。

「どうした! テリー!!」

言葉の後、僅かだが呼吸を整える隙がある。
テリーはその隙を狙って右ストレートを繰り出した。
逆に言えば、そんな与えられた隙に活路を見出さなくてはならないほど、
テリーは追い詰められていた。

だが、その拳は簡単にジョーのバンテージで包まれた掌へと吸収され、握り潰されていた。

「くぅ!」

呻くが、どうにもならない。
ジョーの左の膝がテリーの脇腹に突き刺さった。
一切の手加減のない、本気のケンカの一撃だ。

膝を突き、脇腹を押さえるテリーの顔面へ、ジョーの蹴りが飛ぶ。
瞬時に両腕でガードを固めたが、転ばされたまま無様に地面を滑った。
ジョーは怒りを噛み殺したような表情でテリーを見下ろしている。

「――容赦ないな、ジョー…… こっちは病み上がりなんだぜ?」

苦しげに微笑を浮かべ、座り込んだままそんな事を言うテリーへ、
ジョーは気の乗った直進蹴りを放った。
スラッシュキック。大木をへし折る威力がある。

テリーは転がってそれを躱し、そのまま起き上がった。
だが息が切れる。大きく肩が揺らいだ。

「テリー…… どうしちまったんだ、お前……」

ジョーの嘆くような表情が、何よりも痛みとなって心に刺さった。

――解ってる……

「打って来い、テリー! 本気でだ!!」

前屈みに、ただ呼吸を荒げているテリーへジョーが叫んだ。
両手を広げ、完全なノーガード。それでも厳しい眼は、確かな戦意を宿している。
テリーは動かない。
ただ俯いて、整うことのない呼吸を逃げるように繰り返している。

「テリィィ――ッ!!」

空気を割るような絶叫。
耳に届かないのであれば、音の拳で心を殴るしかない。
ジョーは腹の底からテリーの名を吼えた。

ゆらりと、そして力強く、

「うおおおおおおおお!!」

テリーの本能が応えた。
全力で土の大地を蹴り、走りながら何も考えない、全力の拳をジョーの頬へ――

だがそれを受けたジョーは、地に突いた足を数ミリと動かさず、
呆然とするテリーの頭の上へ、ゆっくりと顔の位置を戻した。

「てめぇ!!」

テリーのジャンバーの襟首を強引に掴み、ジョーが怒声を上げた。
テリーの身体はジョーに体重を預けるように、すでに無気力で力が入っていない。
どんなに睨みつけても、反応は返って来なかった。

「あんたのパンチはよ…… こんなんじゃねぇだろ!
 あの腹の底まで響くクソ痛ぇパンチはどこ行っちまったんだよ! 答えろ! テリー!!」

反応は――ない。
俯き、帽子の鍔で表情さえ見せないテリーを、ジョーはそのまま乱暴に投げ飛ばした。

テリーは大の字で倒れ、青空を見上げたまま動かない。

業を煮やしたジョーが踏み込もうとした時、
呆然と、生気のない声で、テリーは呟いた。

「――ダメ、なんだ、ジョー……」

足が止まる。

「俺はただ、ギースを倒すために……
 ただそれだけを考えて、闘い続けて来た……」

「テリー……」

「俺を強くしたのは…… ギースだ……
 父さんでも、タン先生でもない…… ギース・ハワードなんだ……」

再び、同情すれば泣き落ちてしまいそうな嘆きの笑みで、
ジョーは肯定したくない気持ちのまま、抜け殻のテリーを見ていた。

「何を…… 何を言ってるんだ、テリー……」

「ギースを倒したあの時から…… 俺はどうしたら良いのか……」

「言うなぁ!!」

かぶりを振るジョーの叫びに、テリーは背けるように目を瞑った。
確かに、言ってもどうしようもないことだ。
抜け落ちてしまった物が、牙なのか、涙なのかは解らない。
あるいはそれらは、同じ物なのかも知れない。

ギース・ハワードの呪いは形を変え、再びテリーに傷を与え、蝕んでいた。

――でも、俺は……


「見ろぉぉ! テリィィー!!」

テリーが首を上げると、ジョーに凄まじい気が収束していた。
経絡に気を伝わせ、左腕を中心に筋肉に力を集めているのが解る。
この一年で、我流で、そこまで体得している。
それをテリーは未だ虚ろな眼で、呆っと見ていた。

――その執念は、何のためだ…… ジョー……

「これがぁ…… こいつが俺の新技だぁ!! うぅおおおおおおおお!!」

ジョーの黄金の左拳が、天へ打ち込むように振り上げられる。
コークスクリュー気味に空気に捻り込まれたアッパーは、
気によって威力、速度を倍化させ、全てを奪い尽くす大嵐のような赤い竜巻を、
目の前に、遥か上空にまで轟かせていた。

本物の嵐が来たかのようにテリーの半身の肉体を風が襲う。
直撃どころか、それは遠くで起こったまま迫っては来ない。
にも関わらずの暴風が、地に任せていたテリーの身体を浮かせ
数メートルの飛行を与えていた。

赤いバスケットシューズで地を擦り、手を突いて大地を取り戻す。
今度は違う意味で呆然とするほどの、ジョーの技の威力だった。

「――スクリューアッパーだ、テリー……」

ゆっくりと近づき、肩で息をしながら、
ジョーは疲労と興奮が入り混じった声で言った。

「――すげぇな」

「凄くなんかねぇ……!
 これくらいやらねぇと、あんたには勝てねぇと思ったから!
 俺はあんたに勝つためにハリケーンをここまで高めたんだ! テリー!」

――俺の、ため……?

「俺の勝ちてぇテリーは、こんな腑抜けじゃねぇ!!」

また痛みが走り、顔を背ける。
すぐにまた胸倉を掴まれた。

「てめぇ、負けちまうのか!? 俺と闘う前に、亡霊に負けちまうのか!
 ギースの亡霊なんかに…… 亡霊なんかに負けちまうのかぁ!!」

泣き叫ぶようなジョーの左の拳が、何度も何度もテリーを打った。

「テリィィ――ッ!!」

形のない痛みが、スカスカの心に松明のように火を灯して行く――

殴り飛ばされ、見上げた空は、やはり青かった。
空には何の不吉もない。ただ青く、誰かを祝福している。
そこには、地の底で蠢く息吹などまるで届きはしない、澄んだ空気があった。

「立てよ! テリィィ――ッ!!」

ジョーが叫びながら走って来るのが見える。
ただ、気持ちに応えるだけだ。この男の気持ちに応える、今はそれだけで良い。
他は何も関係ない。
ジョー・東という親友の想いに、ただ応えてやれば良い。

それだけを考えると、霧は、晴れた。

立ち上がる。

「ああああああああああああああああ!!」

泉のように沸き上がって来る力を拳に乗せて、思い切り気を大地に叩き付けた。
それがそのまま、大地から生まれ出でたかのように、
気の波動は、間欠泉となってそこから噴き現れた。

「うおおおおおおおおおおおおおおお!?」

ジョーは咄嗟にブレーキをかけて両腕でガードするが、
直撃にはほど遠い距離で沸いているはずの間欠泉の熱を持った風圧に、
思い切り吹き飛ばされて大の字で伸びていた。

――静寂。

風光明媚な緑が、チリチリと騒いでいる。
とても暖かい、祝福の囁き。
優しい、鳥の鳴き声が聞こえた。

互いに放心。
そして互いに、子供のように笑い出した。

「へへ、へへへへ…… あっはっはっははは!」
「アハハハハハハ!」

派手に反動を付けてジョーが起き上がる。

「さぁて! 本番と行こうかい!」

「OK!」



夕闇の押し迫る大地に、二人して寝ていた。
揃いも揃っての大の字。
せっかく作ったほったて小屋の存在意義が問われるが、
もう一歩も動けないのだから仕方がない。

子供のように笑い、子供のように殴り合って、子供のように倒れ込んでいた。

「なぁ、テリー……」

オレンジ色に染まった空を見上げたまま、ジョーが口を開いた。

「恨みや、憎しみだけじゃ越えられないことって…… あるはずだ……」

「ジョー……」

「お前はそれを、幾つも越えた……
 今度だって…… 越えられたじゃないか……」

顔を向け、微笑むジョーの顔は腫れと鼻血でひどい物だったが、
それはどこか透き通って、透明感があった。

テリーも同じ様に微笑んで起き上がり、ジョーに手を差し出した。

――こいつにまた教えられちまったな。


「決勝で会おうぜ、ジョー」




目が眩むほど高い天井に、高山流水の音色が厳格に響き渡っている。
パイプオルガンから生まれ出でる荘厳な調べは、レクイエム、キリエ――
彼自身、心酔するモーツァルトの遺作を、
ヴォルフガング・クラウザーは酔うように弾いていた。

跪き、報告を入れるローレンス・ブラッドと、不敵に壁にもたれ掛かり、
口元を歪ませているビリー・カーンを呑み込むように、
静かだが、力強いその曲は、瞳を閉じ、無言のままに進められている。

「――クラウザー様?」

聞こえているのか判らない様子の主へ、ローレンスが顔を上げて疑問の確認を取った。

「下がれ」

クラウザーは不機嫌そうにそれだけを言うと、再び曲に集中した。
ローレンスはその対応を不満に感じ食い下がろうとしたが、
その調べが耳を刺すように激しい、ディエス・イレ「怒りの日」へと突入すると、
クラウザーに直接怒気を叩きつけられたような寒さを感じ、再び頭を下げて下がっていた。

ローレンスを見下すように嘲笑し、ビリーもその場から下がる。
その様子が俯いた視界からも見て取れたローレンスは二重の怒りに肩を震わせた。


――不知火半蔵が死んだか。

額の傷が、さんざめくように語り掛けて来る。
あの日の思い出は、いつも暗黒の扉を開いて心を白く塗り固めて行く。
虚無へ誘われながらも、音と一体になったように、クラウザーは演奏を続けた。


クラウザーの母、エルザ・シュトロハイムが37才という若さで死んだのは、
1975年、5月12日――彼が16才の時だった。

どんなに慕っても、どんなに愛しても決して自分を受け入れない夫、
ルドルフ・クラウザーへの飢餓を、彼女はアルコールで埋めようとした。
唯一の絆、息子ヴォルフガングを溺愛し、しかし、
それでも埋まらない寂しさを、彼女はアルコールの海で紛らわそうとした。

あの時、殺し損ねたギース・ハワードが生きている限り、
いや例えギース・ハワードが死んだとしても、
彼の想いが変わらないことを悟ったあの日から、彼女の依存症は限度を越えて行った。

自らが死に近づくことで、少しでもあの人の気が引ければと――
この惨めで愚かしい死が、少しでもあの人への復讐へなればと――

肝硬変――
それが彼女の、エルザ・シュトロハイムの死因だった。


その壮絶で無意味な生涯を間近で見て育ったクラウザーは、
彼女が自分を見てはいないことも、父が自分を嫌悪していることも、
何もかもを幼い心に哀しい理解として刻みながら、心を殺して生きて来た。

父に教えられる総合格闘術と、気晴らしに始めたパイプオルガンだけが、
彼の蟻の巣のような迷宮の、一時的な出口だった。
闘いと音楽だけを拠り所に、ヴォルフガング・クラウザーは生きて来た。

母の壮大な葬儀の最中にも、彼は一滴の涙さえ流さず、表情すら変えず、
ただモーツァルトのレクイエムを弾き続けた。
そして、葬儀の最後に庭の薔薇を全て蹴散らし、その棘で自らを傷つけながら、
流れる血と共に、それを母の棺桶に詰めた。

それがまるで、彼の失ってしまった涙であるかのように、
流れ落ちる血を、棺桶に与え続けた。

何も宿さない、呪いの狂眼を空虚に見開いて、
それが、戦慄する父への恨みであるかのように、

棺桶に――与え続けた。


ジェフ・ボガードと不知火半蔵が現れたのは、それから僅か数時間後の早朝だった。


クラウザーの弾くレクイエムは、哀しく、嘆くように静かな、
ラクリモーサ「涙の日」へとその調べを進めていた。
陶酔から冷めるように瞳を開いた先には、
父、ルドルフ・クラウザーの勇ましい肖像画があった。

クラウザーはそれを見て薄く笑うと、再び目を瞑り、演奏へ没入した。


――この曲はジェフ・ボガードと、不知火半蔵への鎮魂曲としよう。

そして、ギース・ハワード――
お前には特別なレクイエムを奏でてやる。


――キング・オブ・ザ・ファイターズという典礼の、開演だ。



【21】

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