11.Your Pleasure

すでに通る者のない薄汚れた鉄橋の下で、
とうに燃料の切れたバイクが乱暴に放り捨てられていた。
落書きだらけの壁にもたれ掛かり、片膝を抱えて俯くも、
その眼光は獲物を射抜く鷹のように鋭い。
ロック・ハワードはここ数日一睡もせず、苛立たし気に虚空を睨み続けていた。

山崎竜二の逃走劇は完璧と言う他はなく、事前に綿密に、
幾重にも用意されていた脱出口をただ走るだけで追うのは不可能だった。
恐らくもうこの街―― いや、この国の外へ消え去っているのだろう。
ロックの歯軋りは深まる。山崎はまだ良い。

俺を殺した後に考えろ。今、命を摘んだ力が何なのか…… 考えろ、ロック……

「偉そうに垂れやがってよォ……!」

ロックは数時間振りに立ち上がると倒れたバイクを思い切り蹴り上げた。
フルカウルのバイクがヘシャゲながらまるで玩具のように飛ぶ。
それを脇目に、一人の男が静かに靴音を刻んで近づいて来ていた。
この荒れた場所には似つかわしくない高貴なロングコートの男。

「帰って来ても良かったのだぞ」

カイン・R・ハインライン。

「お前でも夜風は堪えるだろう、ロック」

「気安く呼んでんじゃねぇよ」

それに、ロックは顔だけ振り向いて睨み付けた。

「随分と暴れたようだな。怪我はしていないか?」

「今更親戚面か!? 俺を滅茶苦茶にしやがってよ!」

「もっと打算的なものだよ」

言いながら両手を広げたカインの全身から蒼炎が立ち昇る。
それは明らかな敵意の込められたものだった。

「もう待つのはやめだ。私の手ではっきりとさせることにした。
 お前が私にとって有益なのか、無益なのか。あるいは、害としかならぬのか」

「……てめぇ」

「目覚めるならそれで良い。
 だがそうでないのなら、せめて私の手で母の元へ送ってやろう」

「上等だよ…… 俺は今、気が立ってんだ! 殺してやるぜ、カイン!」

言うが早いか、ロックの姿は残像となって掻き消えた。
すでにカインの目線へ、上空から色の視えない熱光が振り下ろされている。
それに瞬時に反応し、カインは足を振り上げた。
ロックの拳はカインの頬を抜け、カインの足もまたロックの目線をよぎる。
視線が交差した後、遅れて奔った蒼炎はカインのものだった。
髪の焦げる臭いを嗅ぎながらロックが間合いを取る。
左目の下には躱したはずの線が走っていた。

「てめぇ、技のキレが違うじゃねぇか」

「言ったろう? 吹っ切れたのさ」

「けど勘違いすんなよ。それでもまるで俺の敵じゃねぇ。
 本気で死ぬぜ、あんた」

「是非ともそうして頂きたいものだな。茶番はそういつまでも続けるものではない」

ロックの両目が一際不快に歪んだ。

「FREE FIELDの処理は私が済ませて来た。
 よくもまぁあそこまで暴れたものだと言ってやりたいが、死者は一人もいなかったな。
 もしそれが試合中の事故死を気に病んでの結果なら…… 素晴らしい。芸術的な力加減だ」

「……何が言いてぇ?」

「暴れ足りないのではなかったのか?
 望み通り私を殺してみるが良い、ロック・ハワード!」

カインの振り払った腕から蒼炎が解き放たれた。
だが、バチバチと迫り来るそれをロックは意に介さない。
ただ歯軋りをしたまま直進し、カインへ発勁を打ちつけた。
それをカインは片腕を横に掲げて受ける。
それで止まるロックの技には明らかに迷いがあった。

「チィ!」

ロックの掌を力で弾く。その動作にも流麗な炎が奔った。
秘伝書からシュトロハイムに伝わり、
代々でも実力者のみが身に付けた操炎術はすでにカインの手足となっている。
炎はロックの肉を焼くことはないが、苛立たせるには充分だった。
強引に踏み込もうとするロックへカインの両掌が振り下ろされる。
それはロックを打つ掌撃ではなく、遥か頭上。
いつの間にか停滞していた“気”の球弾を解き放つ動作だった。
見上げたロックが表情を歪めて舌打ちする。

「ヒムリッシュ・アーテム!」

空気を裂き、耳を麻痺させる轟音が降り注いだ。
両腕を回し、完全に防御に徹するロックの姿がその威力を物語る。
押し潰される寸前で跳ね除けるも、痛覚の露出した肌には明らかなダメージがあった。

「さて、次の手は……?」

「カイィィン……!」

怒りの形相を隠すように掌を顔の前に掲げ、ロックが毒々しい叫びを上げた。
瞬間、ロックの気が深く沈んだ。足元を中心としてコンクリートに亀裂が走って行く。
交差する紅い瞳は互いにギラギラと滾っていた。
後に、稲妻が如き爆音。
カインは知っている。これから始まるのはデッドリーレイブ。

「クウウウウウゥッ……!」

だが、ロックの力は苦痛の呻きと共に縮小した。

「ハアッ! ハアッ!」

息を荒げ、膝を突く。
手首を握って漏れ出る力に抗うのは苦痛だった。
大量の脂汗を浮かべながらロックを包んだのは喩えようもない屈辱。

「今のお前は己の力も見定められんのか」

それを、カインの言葉がさらに助長する。
ギン!と顔を上げて睨み返すが、血の蠕動はまだ収まらない。
心臓が耳の中でがなり立てている。

「解放することを躊躇い、さりとて抑える術も知らぬ。
 その自制がお前を中途半端に留めていると何故気付かない」

「……黙れ! これ以上イラつかせんじゃねぇ……!」

「お前には本来、秦王龍の力と人格が発現するはずだった。
 ギースの遺した書物でもそこに間違いはなかったのだ。
 何故だ? 何故お前は抗う? メアリーの魂の解放はお前も望んだことではなかったのか?」

「黙れっつってんだろぉがよぉ――ッ!!」

鼓動と共に揺れる視界のまま、ロックは再び地を駆けた。
型も何もない、ただの力任せの拳。
見切るのは容易かったが、カインは敢えて再び拳を腕で止める。
“気”の伝ったその左腕は棒切れのように圧し折れた。

――それで良い。

その呟きは獣と化したロックの耳には届かない。
思い切り振り上げられたロックの次の脚撃はやはり力任せで、
カインが紙一重で躱すには労のないものだった。
同時に、炎を纏った蹴りでロックを弾き飛ばす。
それでもロックは止まらない。
まるで本当に痛みを感じぬ獣になってしまったかのように、
がむしゃらな攻撃はカインを絶命させるべく降り注ぐ。

力も、スピードも全てが激しくなって行く。
デッドリーレイブではない。ただ、ロック・ハワードという存在が激しくなっていた。
やがて見切り切れなくなる。まともに受けた一撃は感覚を壊死させるには充分だった。
だが、意識は手放さない。

ふと、少年時代にアベル・キャメロンと見た、
無抵抗に嬲られて死んだ少年のことが頭を過った。
あの少年は同じ痛みに耐えながら、何を思っていたのだろうか。
何か彼は彼で、守りたいものがあったのだろうか。


――俺も同じなのかな、アベル……


いつからだろうか、彼の誓いが変わってしまったのは。


――俺はお前を裏切っていたのかな……


人の心はとかく移ろい易い。
一つの信念を純粋に貫ける男など、カインが知るにおいては一人しか存在しない。
だからこそ憧れ、だからこそ目指した。
なのに、最愛の姉を異常な死へ追いやったあの男を、ギース・ハワードを彼は許さない。
なのに、それでもギースに対する畏敬にも似た想いは消えなかった。
ギース・ハワードに教えられた真の自由は彼の誓いだったはずだ。
アベル・キャメロンと共に目指した、崇高な誓いだったはずだ。

だがそれは最初の誓いではなかった。
ギース・ハワードは彼に誓いの強さを教えておきながら、彼から最初の誓いを奪ったのだ。
ただ、姉を守りたいという、彼の純真な誓い。

だから、憎かったのか。
己はまるで移ろわず、他人の心のみを容易に移ろわせる存在に畏怖したのか。
憧れたのか。
だから、姉上はこの男を選んだのか。
アベルも、それを認めたのか。

だがそれは間違いではなかったか。
姉上は後悔してはいないのだろうか。あの男の心が揺らぐことはない。
事実、あの男は姉上の愛でさえも移ろわなかったではないか。
姉を救う可能性が残されていると知った後は疑問ばかりが頭を包んだ。
姉上に、もう一度、選択の自由を。
もう一度、あの薄汚れたサウスタウンの教会から――

己で勝ち取らねばならないはずの自由を、彼はいつしか誰かに捧げる道を選んでいた。

今、目の前の少年は同じ痛みに耐えながら、何を思っているのだろうか。
彼は彼で何か、守りたいものがあるのだろうか。

目を向ければ、眼前には狂気を帯びた姉の息子の姿がある。


――それで良い。


カインには無垢な笑みが浮かんでいた。
見届けるべきも、託されるべきも自分ではない。
まして自身の願望など、得るにはすでに偽り過ぎてしまった。
ただ最初の誓いのために、魂の解放を願う。
今、尚増して強い誓いこそが、ギース・ハワードに憧れた少年が最期に選んだ、
誰にも奪えない選択だった。


――お前は母に逢うと良い。私に償えるのはそんなことだけだ。


ゆっくりと、瞳を閉じる。
すでに膝を折り、頭を垂れた。後はアベルに謝りに行こう。

なのに、ロック・ハワードの拳はそこで止まっていた。
穏やかに血を鎮めて行くロックの姿は今は信じられない光景。

「――秦王龍が、覚醒したのではないのか……?」

問うように嘆く。
投げ打った命でさえ、姉を救うには至らないのか。


――もう良いの、カイン…… ありがとう……


ふと、そんな声が聴こえた。
呆然と、呆けるままに見上げるロックの姿はすでに滲んではっきりとは見えない。
なのに、身を包む暖かさにはいつか姉が焼いてくれたパンの香りがした。

「まさか…… 姉さんなのか…… 姉さんの魂は……
 そうか…… なぜ気付かなかった……
 ギースより移った王龍の燐分が姉さんを喰らったのなら、魂はまだ……」

震える手を伸ばそうとして、しかし歯を食い縛った。

「ならば、なぜ姉さんは王龍を拒んでいる!?
 答えてくれ、姉さん! 王龍なら、姉さんの魂を肉体に戻せるんだよ!
 もう一度、生きられる…… もう一度、自由を手にすることが出来るんだ……!
 ロックのことは心配要らない! 姉さんの子供だよ…… 俺が放っておくものか……
 信じてくれ、姉さん…… それでも俺達は、貴女に……!」

やがて姉の肩を掴んで懇願していた。
姉の香りは冷たいの風の中へ徐々に掻き消えて行く。
その儚い魂の感触はカインの指先から遠く、少しずつ乖離して行く。

「弱い…… こんなに弱々しい魂が、王龍を……?
 違う…… 王龍を拒んでいるのは姉さんだけじゃない……
 まさか、この街の封印は、違う、のか……!?」

完全に乖離した後、残されたのは己を抑え切れぬ餓狼。


……ドスッ


その咆哮は遠く響き渡り、無造作に抜き取られた左腕からは浴びた血が滴っていた。


「ロック……」


せめて、お前は……


「……逢えると良いな」



――さようなら、姉さん……





2ndストリートを走るテリーの前を黒塗りの高級車が遮った。
中から現れたのは見覚えのある老紳士。

「……あんた」

カインの宮殿で見た、アーノルド・セバスチャン。
急ぐテリーに彼は障害でしかなかったが、次の言葉で足を止めた。

「ロック・ハワード様の元へご案内しましょう」

「カインが、呼んでるのか?」

「いえ、カイン様の言伝は貴方様へ一つだけでございます。
 ただ、ロック様のことを、お願いしますと承って参りました」


【12】

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