12.Spread The Wings

少年は忘れない。
母のぬくもりと、父の裏切りを。

あの時、自分は一度死んだのだと思う。
頭は白んで、眼には光しか映らなくなった。
何も見えず、永遠に眩しさから解放されない光。
何も考えず、何も見ずに、でも生きていられたらそこは確かに天国かも知れない。
何の楽しみもないかも知れないが、命は尊い。
快楽などなくとも良いのだ。生き甲斐は要らない。生きる意味など考えない。
見下ろせばちっぽけな命。
ただ生きて欲しかった人が、ロック・ハワードには居た。

「あの人に迷惑をかけてはいけない」

父のことを尋ねると、母はいつもそう答えていた。
迷惑とは何だろうかと、今は考える。
父のことは何も知らない。あの男が迷惑を考えるようなことがあるのだろうか。
あの男が迷惑に考えるような障害は存在したのだろうか。
父のことは何も知らない。父のことを考えることはない。誰よりも父を知っている。
無意識の内に父の生涯を反芻している。何千年という夢の中で父の生涯を追う姿がある。
父のことは何も知らない。知らないはずだ。誰が教える。誰の記憶だ。誰が俺を。
誰が生きていて、誰が死んでいるのか。

眠りつくといつも襲って来たギース・ハワードの記憶。
まだ恨んでいるはずなのに、その強さには身の痺れるものがあった。
ギース・ハワードの持ち物を使ってみせても、テリー・ボガードは何も言わない。
あるいは夢の記憶は何もかも贋物で、
本当はギース・ハワードの持ち物など存在しないのかも知れない。
知る術はないし、誰よりも深く知っていることを今更調べる意味もない。

ただ、今もし奇跡が起こってまた父に会えるとしたら――

「母さんに…… 教えてあげないと……」

両膝を抱えたロックはそう呟くと、もう何も伝えて来ない夢の中へ意識を落とした。



ふらふらと、どれだけ歩いたのだろうか。
魔法のように灯って行く街灯でさえ時間の流れを教えてはくれない。
ダラダラと、苛立たし気に刻まれて行く鼓動だけがロックの生きた感覚だった。
黒いシャツから剥き出しの腕はこの季節にあっては肌寒いはずなのに、
神経はそれさえも教えてはくれない。
いつ目を覚ましたのかも解らないまま、ただ足は何かを目的に、大地を踏み締めていた。
顔を上げた先には、テリー・ボガードの姿がある。

「よぅ、ルーキー」

「テリー……」

――ロックの中で、何かが爆発した。
自分が笑っているのか、泣いているのか、あるいは猛り狂っているのか解らない。
足が震えているのか、世界が歪んでいるのか、それすらも彼には判別出来ない。
ただ正確に情報を伝えて来ない眼で最も敬愛する人の姿をなぞっていた。

「どうした? 酷い面だな。ちゃんとメシ食ってんのか?」

歪む視界は何を訴えているのか。

「肝心なときに力が出ないんじゃ、いくら鍛えたって意味がないぜ?」

待ち焦がれた大らかな笑みが焦点を求めて揺れる。
ゆっくりと、覆い被さるようにロックは歩を進めた。
気付けば走っていた。すでに拳が突き刺さっていた。
それに覆い被さるのはテリーの厚いグローブ。
次のハイキックはさらに速い。
無表情に飛んだ雫は乾いて消え、衝撃はテリーの全身を振動させた。

「あっ」

踏み止まったかに見えたテリーの重心が軽く流れる。それはロックにとっては歓喜だった。
思い切り踏み込み、軽く跳び上がって蹴りを振り下ろした。
あまりに大振り、だがテリーに避けるほどの余裕はない。
ロックは尚も思い切り手足を振り回し、無邪気なまでにテリーの肉体を刻んだ。

「はははははははは……」

秦崇秀はロックはかつての自分達と同じだと言った。
立ち昇る異様な妖気。常軌を逸したスピードは驚愕する以外にない。
そして何より、その不安定な心を見ればロックに変貌があるのは明らかだ。
だが、今、ロックを目の前にしたテリーには何故か、
崇秀の言葉が必ずしも正しいとは思えなかった。

ロックの拳が頭の上を通過する。
テリーの歴戦はそのスピードにさえ反応した。
と、同時に振り上げられた右足と接触し、ロックの側頭部が激しく吹き飛ぶ。
顔を戻したロックは子供のように目を丸くしていた。

「ウオオオオァ!」

そこに生まれた間にテリーの神経が反応する。
頬へ左拳を打ち下ろし、右のアッパーを打ち上げた。
ロックの体が軽く浮き上がる。無論、地面を踏み締める隙を逃さない。
拳にはすでに“気”が伝っていた。

「Burning!!」

再び頬へとまともに突き刺さったテリーの拳はロックを地面に引き摺るには充分だった。
半身に起き上がり、初めて父親に殴られたように呆けるロックの目はまだ焦点が合っていない。

「技が粗い。ガードもなっちゃいない。
 どうした? ラフファイトも良いが、基本を忘れちまっちゃあ成長はない。
 頭の良いお前だ。それくらい解ってると思ってたがな」

「テ、リー……」

ゆっくりと起き上がり、両腕をダラリと下げたまま表情は見せず、
不規則に肩を揺らすロックから再び怨霊のような湯気が立ち昇る。

「テリー……」

ガクガクと膝を揺らし、踏み締めた地面さえ不確かに、だがロックは、

「ハハハハハハ……」

乾いた笑いを浮かべていた。

「サイコーだよ、テリー……」

「ロック……」

眉を顰めるテリーの表情さえロックの興奮を遮ることは出来ない。

「やっぱりアンタは違う…… ゾクゾクするよ……
 血の昂ぶりが抑えられねぇ…… 俺の中のギース・ハワードが言ってるのかな?
 コイツを潰せば、きっと気持ち良いぜ……ってよォ!」

「!?」

勢い良く体を反り、左腕を払ったロックの背に黒い翼が羽ばたいた。
すでに足取りはしっかりとしている。
いや、足の方が力に引き摺られていた。
黒い閃光が走り抜ける。
と、同時に、テリーの体は捻じ切れんばかりに弾け飛んでいた。

何が起こったのか。自分が地面に横たわっていることに後から気付く。
自然に起き上がろうとしてそれが出来ないことをさえ遅れて知った。

見上げた視線にはロックの背があった。
振り返る双眸が、すでに陽の落ちたセカンドサウスに不気味な赤い線を引く。
なのに、視界が情報を誤っているのか、
ゆっくりと歩いて近づいていたはずのロックの姿はノイズと共にぶれ、すでに目の前にある。
咄嗟に両手で防御を固めるが、蹴り上げられた衝撃は再びテリーの体を舞わせた。
激突したレンガの壁は勢いを弱めることはなく、またさらなる衝撃を生むこともなく、
ただ残骸へと変わる。

砂塵の中、かろうじて顔だけを上げ、ロックの姿を探すがそれは簡単だった。
大地が悲鳴を上げているかのように、黒い蒸気を立ち昇らせている。
ロックが歩を進める度、アスファルトは醜い粘度を露にした。
そして、再び姿が霞んで消える。

ロックのスピードは平時でさえテリーを上回る。
彼の瞬発力はテリーの弟、
アンディ・ボガードの全盛期をしてかくやというレベルに達しているのだ。
だが、今のソレはそのような物差しでは到底、推し量れない。
かつて見た中で最速。すでに、秦崇雷をも上回っている。

「トゥラァ!」

ソレに、テリーは反応した。
見開いた眼を半回転させ、ロックの足元を打つとそのまま逆の足を顎へ蹴り上げた。
だが、その鋭さでさえ標的の顎をただ擦るのみ。

「そうでなくっちゃな、テリー……」

ロックは右手で蹴り足を掴み、邪悪に笑っていた。

「アンタはダラダラ眠ってちゃいけねぇよ……!」

乱暴に、掴んだ腕を振り回す。
細身のロックからはおそよ考え付かぬ力でテリーの体は空中を走った。
片手を突いてバランスを取るがすでにロックの姿はない。

「ここだよ」

「!?」

全力で振り返るが間に合わない。

「ア、ガァ……!」

背後から首を握り潰さんばかりに掴まれ、テリーから苦痛の声が漏れる。
それをロックは歌のように楽しんだ。

直後、表情が一変した。
即座にテリーを解放し、完全に防御の体勢に入る。
にも関わらず、片手を後方、地に触れざるを得ない衝撃。
視線の先には両掌を構えて余熱を発するリョウ・サカザキの姿があった。

「おおおおおおおお!」

咆哮を上げながらリョウが走る。
ロックのようなスピードはないが、その迫力は身を硬直させるものがあった。
勢いにこそ乗るが直線的な手刀を躱せず、ガードしてしまったのはそれ故か。
続く肩当てでよろめいた後、腰を屈め、
丹田から“気”の全てを両掌へ乗せた掌打を浴びると後は無防備に転がっていた。
その事実を認識出来ず、呆然と、驚きを帯びて眼で追う先で、
リョウはテリーに肩を貸し、すでに距離を取っている。

「大丈夫か? こいつはずいぶんヤバイ相手みたいだぞ」

声を掛けられたテリーは肩を解き、軽く咳き込みながら手で応じた。
リョウは目線をロックへ向け、標的が大したダメージを負っていないことを確認する。

「詳しい話をしてる暇はないようだな」

「ああ…… だが、俺もだいたい飲み込めたつもりだ。
 今はなんとかアイツを抑えるしかねぇ。正気に戻してやるのはその次だ」

呼吸を整えるが、今にも足が崩れそうになる。
頭を上げるのさえ意識を必要とする中、テリーもまたゆらりと起き上がるロックを見る。
そして、苦々しく顔を歪めた。

「だが、速すぎる…… 動きを止められねぇ」

歯軋りするテリーを横目にチラリとだけ視線をやり、

「――やれやれ、損な役回りは俺がやってやるか」

リョウは顎鬚を触りながら、飄々と言った。

テリーが反応して顔を向けると、リョウは歩を進めていた。
その先で、ロックはすでに標的を定め、地を蹴ろうとしている。

「リョウ!」

「おおおおォらァァ!!」

テリーへと向いたロックの肘を、リョウが踏み込んで止める。
そのまま正拳を打ち込むとロックはそれに反応し、リョウへ眼光を奔らせた。
拳は空を切る。気圧されるリョウではない。ただ、ロックの反応が凌駕していた。
その事実を瞬時に悟り、極限流最速の暫烈拳を打ち込む。
だが、秒間4発の左拳をさえ次々ロックの掌に阻まれて消えた。
即座に、顎まで届く右膝がリョウを襲う。
防御を固めるも、続く逆足のハイキックはリョウの反応を超えていた。

「ぐぅ!」

さらに逆足で続くスピンキックが首筋へ打ち込まれると、リョウは手を突いて回転し、膝を突いた。
バランスを崩した所に熱を帯びた烈風が襲い来る。
極限流の受けを以てしても殺せる気功ではない。

「うおぁ……!」

ゆっくりと、威圧するようにロックが歩を進める。

「俺は別に、てめぇからでも良いんだぜ……? 極限流」

両手に伝った鈍い光が、徐々に爆発への秒読みを上げる。

「チッ!」

その寸前、テリーのタックルがロックを崩し、大きく弾き飛ばした。

「Lock you!!」

さらに撃ち出されたパワーウェイブは煙を運び、再び仕切り直せるだけの間合いを生む。

「参ったな、すばしっこいだけじゃないってことか」

リョウは体勢を整え、すでに再び踏み込む構えを取っていた。

「オマケに極限流をかなり知ってやがる」

首筋は内出血で変色し、赤く腫れ上がった両腕からは焦げた臭いがする。
カミソリで切られたような裂け口を見せる側頭部の出血に収まる気配はない。
なのにあって、リョウの表情はテリーにはどこか不敵にさえ思えた。

「何でだ、リョウ…… 何でアンタがそこまで……」

リョウ・サカザキをそこまで動かすものが、テリーには疑問だった。
軽く目を閉じ、やや考えて、リョウは答える。

「――ほんとにただの、興味なんだよな。
 俺には子供はいないし、これからも父親になることはないだろう。
 だからかな、アイツの息子がどんなヤツなのか、妙に気になった」

――ただそれだけさ。
そう言って口元を緩ませたリョウは、すでに視線の交差するロックへと走り抜けた。
再び闇の中にあって、はっきりと鮮血と解るそれが飛び散る。肉を打つ音ががなり立てた。
テリーは追わず、静かに呼吸を整える。
ロックにも匹敵する“気”が充満しているにも関わらず、テリーの足元は変色しない。
熱はアスファルトの裂け目を撫でるように伝い、天へ昇って行く。
同時に、露出した土から立ち昇る暖かな蒸気はテリーを包み、慈しんでいるかのようだった。

「テリィィィ!」

リョウの絶叫にも似た呼び声が響いた。

「野郎ッ!」

正面からロックの両肩を掴み、リョウは岩のように動かない。
ロックは肉にめり込むような太い指に苦痛を感じ、肘を打ち下ろすが振り解けない。

「離しやがれぇ!」

「知ってるか? 動かざること山の如し……ってな!」

テリーの右腕に収束した“気”が弾ける。

「Are you OK!?」

声に反応して拳を躱すリョウの反応は見事だった。

「オオオオオオオォォ!」

ロックへ直撃で打ち込まれた拳は接触後も唸りを上げ、
渦巻く大気が呼吸さえ封じ、標的を離さない。

「テ、リィィィ……!」

睨めつけるロックを正面から見据え、狼が雄叫びを上げた。

「バスターウルフッ!!」

尚も押し留められた“気”は咆哮と共に爆発し、テリーの腕を奔り抜けた。
叫びすらも掻き消す轟音が響き渡る。
拳を爆心地に弾けた気功は凄まじい衝撃を伴ってロックの全身を覆い尽くした。
反動から身を守る力はすでにない。
全てを放出し、自らも後方へ弾け飛びながら、テリーは光に呑まれて行くロックへ、
無意識に手を伸ばしていた。

【13】

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